FC2ブログ

風に吹かれて

My Life & My Favorite things

Category: 読書

Tags: 葉室麟  

Comment (0)  Trackback (0)

葉室麟「紫匂う」

murasakiniou.jpg

昨年12月、作家・葉室麟が亡くなった。
66歳であった。
葉室麟は遅咲きの作家で、デビューしたのは、2005年、54歳の時である。
わずか12年という作家生活だったわけだ。
しかしその著作は、50冊を超えるほどの量産であった。
まるで残された時間が、わずかであることを知っていたかのような多作ぶりである。
そしてそれらの小説で書き続けたのは、人間がもつ尊厳や真心といった精神の美しい輝きであった。
それはこの小説でも描かれていることである。

主な登場人物は、3人。
黒島藩六万石の郡方を務める萩蔵太とその妻・澪、そして江戸藩邸側用人の葛西笙平。
萩蔵太は心極流の剣の達人だが、普段は仕事一途なだけの地味で目立たない男であった。
その夫に18歳で嫁いで12年になる澪は、二人の子供を授かり、平穏な生活を送ってはいたが、夫にいささかの物足りなさを感じることがあった。
そんな折、幼馴染であり初恋の人である葛西笙平が、家老の意に染まぬことを行ったという理由で、国許に送り返されることになり、その旅の途中で逃げ出してしまう。
その葛西笙平が、澪の前に突然現れる。
彼を匿うことになった澪と笙平ふたりの逃避行が始まる。
それを見捨てておけなくなった蔵太が後を追い、ふたりに力を貸す、というのが物語のおおまかなストーリーである。

3人の交錯する思い、そして騒動の顛末はどうなるのか、その面白さに一気に読み終わってしまった。
それはこれまで読んできた葉室麟の、いずれの小説とも変わらぬ面白さであった。

ところで和歌や俳句に傾倒したこともあるという葉室麟の小説には、しばしば和歌や俳句の引用がなされることがあるが、この小説でもいくつかの和歌が登場してくる。
そのなかのひとつ、「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに吾恋めやも」が、小説の最後に効果的に使われている。
これがこの小説の題名として使われているわけだが、その心境に至った夫婦ふたりの慎み深い機微を表して、印象深い結末になっている。
「精神の美しい輝き」が、ここでも見ることができる。


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑

テーマ : 図書館で借りた本  ジャンル : 本・雑誌


Category: 読書

Comment (0)  Trackback (0)

髙村薫「晴子情歌 上・下」

harukojoka.jpg

ようやく読み終えたというのが、正直なところ。
旧仮名遣いで書かれた文章は、重々しく、理解しづらいところも多く、かなり骨が折れる。
行きつ戻りつしながら読むため、遅々として進まない。
不安定な足元を、転げ落ちないようにしっかりと確かめながら高い頂を目指す、そんな形容がしたくなるような読書だった。
途中で投げ出すことなく読み終えることができたのは、この小説が持つ強力な磁力に引っ張られたがゆえである。

主人公・晴子が息子・彰之に送った100通を超える手紙と、それを受け取った彰之の現在の心境や回想によって物語は描かれていく。
その手紙に綴られるのは、50年に及ぶ晴子の数奇な人生である。
晴子は大正9年、母の実家である東京本郷の岡本家で生まれた。
父・康夫は東大文学部を出て、東京外国語学校で講師を勤める左翼系のインテリであったが、若くして亡くなった妻の死をきっかけに、残された4人の子供を連れて康夫の実家のある青森県津軽地方の筒木坂(どうぎざか)へと帰っていく。
そして実家の野口家に晴子たち4人の幼い子供を預けたまま、北海道へと渡ってしまう。
野口家の次男が働く江差の鰊場に、職を得たためであった。
昭和9年、晴子15歳の時である。
その後、晴子たちは父が働く鰊場に移り住むことになるが、翌年、父・康夫は死亡、その結果弟妹は東京の母親の実家に引き取られることとなり、晴子はたったひとりで生きていくことになる。
筒木坂に帰った晴子は、新しい奉公先となる野辺地の福澤家で働くことになる。
福澤家は古くから醤油製造業を営む県下有数の名家であり、当主・勝一郎は事業家として様々な会社を経営する傍ら、衆議院議員として政治の世界でも重きをなす人物であった。
そこで女中として働く晴子は、やがて福澤家の跡取りである榮の子を産み、戦争から帰ってきた画家を志す放蕩息子・淳三と結婚することになる。
そして昭和50年、彰之は東大理学部を出たものの、ある日突然漁船員となることを告げ、北転船に乗り込んで遠洋漁業へと旅立ってゆく。
そこから晴子の彰之へ送る手紙を書く日々が始まる。
その手紙に描かれるのは、これまで歩んできた晴子の人生と家族の姿であるが、それと同時に激しく揺れ動く昭和という時代を描いた叙事詩ともなっている。
津軽や北の大地の因習や風土、そこに根差して生きる人々の姿、さらに大家(おおやけ 津軽弁で大地主の意)である福澤家の複雑で陰湿な家系と政治の世界、そして戦争というものの実態、さらに息子・彰之の章では、それらが彼の視点からも描かれ、揺れ動く心の襞が書き加えられていく。
そしてそれが言葉の奔流となって押し寄せてくるのである。
晴子が文学少女であるという設定にはなっているが、それにしてもこの奔流はただ事ではない。
これはそうした膨大な言葉の渦によって書かれた昭和史であり、民衆史である。
その醍醐味に、そしてその熱量に、心底圧倒されてしまったのである。

ところで昨年の秋、津軽半島をドライブしたことを以前書いたが、それは小説の最初の舞台になった木造町(今はつがる市となっている)の筒木坂(どうぎざか)に行ってみようと思ったからである。
果たしてそこはどんな場所なのか、その風景をいちどこの目で確かめてみたいという思いがあったからである。
津軽半島の付け根に位置する漁港・鰺ヶ沢から北に延びる国道をしばらく走ると、広大な田園地帯が現れてくる。
そこが目指す筒木坂であった。
しかし行けども行けども人家が見当たらない。
秋の穏やかな風景ではあるが、ひと気はなく七里長浜から吹きつける風は強い。
冬になればおそらく荒涼とした雪景色になるだろうことは容易に想像できた。
ましてや主人公・晴子たちが、この地に足を踏み入れた昭和初期の頃となると、それはさらに荒々しいものだったにちがいない。
小説ではそれを「嵐が丘」の描写を引用して、「大気の動亂(どうらん)」と呼んでいる。
その一部を書き写すと次のようなものである。

 そして間もなく林が途切れ、その先に山のような砂丘があらはれたときの驚きと云ったら!その砂の山はなだらかな上り下りを伴ひ、見渡すかぎり續いてゐました。薄く被った雪が風に巻き上げられて煙を上げてをり、さらに砂は別の煙になってそれに重なり、滲みあひ、濃淡を作りながら流れていきます。その下では、未だ色のない草が間断もなく風になびき續け、砂丘そのものがうねりながら動いてゐるかのようです。しかも、何と云ふ風でせう。それはもう鼓膜をぢかに震はし、ほとんど何も聴こえません。その風を見てゐるとき、ふいに「大気の動亂」と云ふ言葉が一つ浮かんできましたが、『嵐が丘』と云ふ小説の中で、そこに吹く風のことをそのように書いてあるのです。まさに風の姿が小説家にそのような言葉を思ひつかせたのか、小説家のこころの有りやうが風の姿をそんなふうに見させたのか、どちらが正しいのかは私には分かりませんが、ともかくその外國の小説の感覚が突然身近になり、私はしばし言葉を失いました。



さらにその先にある七里長浜の海辺の描写へと続いていく。

 前方の海は鈍く光りながら濱を覆ふばかりの波を繰りだして打ち寄せ、濱一面が飛沫とさらに細かい水煙の中にありました。眩しい白さは、まるで無数の光の点のやうです。濱は色がなく、海と砂丘の間に開いた水煙の靄の廊下のやうで、一軆どこまで續いてゐるのか分かりません。その先の方は半分明るく、半分翳ってをり、空と陸の境も分かりません。
 沖にはガスがかかってをり、薄い桃色と黄色に色づいて空と繋がり、そこからは仄かな日差しが透過してきて、ガスと海と濱の全部をぼんやり照らしてゐます。その遥か上方で鳴り續ける風音も、沖の方から傳はつてくる轟音も、いまは少しくぐもって響き、そこに打ち寄せる波の朗らかに高い音が加わると、まるで天と地が呼び合つてゐるように聴こえます。さらに私の耳のせゐでせうか、そこにはやがてリン、リンと云ふ明るい鈴の音が混じり始め、初めは微かに響いてきただけでしたが、その音はしかし、遠くから確かに近づいてきます。
 そうして突然、水煙の靄の濱にいくつかの人の姿があらわれたかと思ふと、それらの人影は少しづつ間隔をあけてゆらゆらと濱を近づいてくる行列の姿になりました。私は、海辺の蜃気樓を見てゐるような心地になり、さらに目を見開きます。いまはリン、リンと鳴り續ける音のほかに、ほーお、ほーおと云ふ齊唱も聴こえてきます。私は靄の中でゆらめき續ける人影を八つまで數へましたが、それは網代笠と墨染の衣と白脚絆と云ふ姿の人びとで、右手の小さな持鈴を鳴らし、ほーお、ほーおと詠うやうに長閑で、なほ鋭い喚声を上げてゐるのでした。その行列の上に波しぶきの光の塊が降り、海と空から曇硝子を通したやうな光が降り続けます。
 やがて、それは私たちの直ぐ傍まで来て止むと、間もなく今度は私たちの垂れた頭の上に、低く呟くやうな聲が降ってきました。ほんの短い間、意味も何も分からないままに、むへんぜいぐわん、むじんぜいぐわん、むりょうぜいぐわん、むじやうぜいぐわん、と云ふ不可思議な言葉の響きが耳に滲み込みます。そのときの心地を云ひあらわすなら、僅かに嬉しいやうな、楽しいやうな心地だったと云ふところかしら。否、より正しくは、そこには同時に邊りがしんと冷えていくやうな、森閑として寂しい心地も混じってゐたと云ふべきかしら。
 行きずりの子供に四弘誓願(しくせいがん)を唱えてくれた雲水たちは、そうして再び濱を遠ざかっていきました。



これからの晴子の人生を予感させるような描写である。
そして訪れた筒木坂の景色をイメージしながらこれらを読むことで、より深いリアリティを感じることになったのである。

ちなみにこの小説を読んだ後、筒木坂(どうぎざか)という地名の由来について調べてみたところ、次のようなことが分かった。
筒木坂は縄文土器で有名な亀ヶ岡遺跡の隣に位置する集落で、筒木坂でも縄文土器が出土することがある。
そこから「陶器が出土する坂」という意味をこめて、この名がつけられたということだ。
それを知って考えたことは、この長大な物語は、太古の昔から連綿と続いてきた人間の変わらぬ営みに繋がる、壮大な人間ドラマとして捉えることができるのではないかということ。
そうした巧まざる意図が、そこから匂い立ってくるように、感じられたのである。


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑
テーマ : 図書館で借りた本  ジャンル : 本・雑誌


Category: 読書

Tags: エッセイ・評論  

Comment (0)  Trackback (0)

岡崎武志「気がついたらいつも本ばかり読んでいた」

kigatsuitara.jpg

この本の表紙裏には、次のように書かれている。

<著者の20冊以上にのぼるスクラップブックから精選した各紙誌掲載の書評原稿やエッセイに加え、映画、音楽、演芸、旅、食、書店についてのコラム、イラスト、写真によるお愉しみ満載のヴァエティブック。>

そして「ヴァラエティブック」については「あとがき」で、次のように書いている。

<「ヴァラエティブック」というのは、一九七一年に晶文社から出た植草甚一『ワンダー植草・甚一ランド』をその嚆矢とする、書籍のスタイルを指す。
通常、一段、および二段組で、テキストを流し込むところを、一段、二段、三段、四段と違う組み方で、評論、エッセイ、コラム、対談あるいはビジュアルページを雑多に編集、構成。まるで雑誌みたいな単行本のことで、小林信彦、双葉十三郎、筒井康隆などが、晶文社で同様のスタイルの本を出していた。七〇年代に本読みとして青春を送った我々は、この自由な本の作り方に憧れ、大いに感化されたのである。>

晶文社、そして植草甚一とくると、われわれ世代の人間にとっては、ことさら馴染み深い。
この本をはじめ晶文社の本には、70年代のサブカルチャーの水先案内といったような本が多く、その隆盛に大きな役割を果たした。
私もそうした一連の書籍から様々な影響を受け、未だに自分の中に深く根を下ろしているのを感じている。
それは著者の岡崎武志が「大いに感化された」のと同様だ。
さらに加えて晶文社の創業者が、明治大学の教授、小野二郎先生ということも、それを特別なものにしている。
直接教わったわけではないが、隣のクラスにいた家内は小野先生の授業を受けており、また他の友人たちからもそのユニークな授業内容や、小野先生の人となりをよく聞かされていた。
そうした名物教授が晶文社の創業者ということで、晶文社の本は特別輝いて見える存在であったのだ。
この本はそんな流れを汲んでおり、70年代の匂いをそこはかとなく身に纏っている。
それがこちらのアンテナに引っかかり、手に取ることになったわけである。

岡崎武志の本を読むのは「上京する文学」に続いて、これが2冊目。
「上京する文学」も面白かったが、こちらも負けずに面白い。
それは岡崎武志の書く内容や関心の持ち方などが、私の趣味嗜好と合致する部分が多いからで、また年齢が近いということも大きいのかもしれない。
同じ時代を生き、そのなかで似たような感性を育んだということか。
とにかくこの本を読んでいると、共感する部分が多い。
またコアな情報も多く、そうしたものを見つけると、ひとりほくそ笑んでしまう。
たとえば、いちばん最初に出てくる書評「とにかく生きてゐてみようと考え始める」のなかでは「森崎書店の日々」という映画のことが書いてあり、その映画の「1シーンに出演している。」と書いている。
地味な映画で、あまり採り上げられることのない映画だが、神田神保町の古本屋街が舞台になっていることから、古書マニアの著者にお呼びがかかったのだろう。
もうそれだけで、嬉しくなり、この本に親しみが沸くのである。
また著者が10数年書き続けているブログから採録した「今日までそして明日から」という章では、「タブレット純」についてのコラムが出てくる。
そこには「出てくる時は出てくるもんである。新しい才能が。」という書き出しで、次のように書いている。
<その時、脇に座ってニコニコ笑っていたのが、驚異のレコードコレクターで歌手として登場していたタブレット純というタレント。ボクは初めて見たが、「何とな!」と叫びたくなる、異端の存在であった。ちょっと、話題が飛び出すと、まあ、次から次へと、超希少なレコードが、テーブルの下から出てくる出てくる。すべて自分のコレクションだという。すごいものを見た、という印象である。
 しかもタブレット純は、この手の蒐集家にありがちな、鼻をふくらませて「どうだ!」と言いたげな風情がまったくなく、持ってきたレコードも、申し訳なさそうに出す。ビジュアルはGS時代を思わせる金髪長髪、喋りはオネエ系である(あとで、本当にそうだと知る。)アルフィーの高見沢と二人並ぶ姿を想像すると、目が眩む。出てくる音楽の小ネタも情報として正確で、見飽きない。今後が楽しみな逸材、だと認識したのだった。>
実は私も以前からタブレット純のことは注目して見ていたので、これを読んでわが意を得たりとまた嬉しくなってしまったのである。
まさに「見ている人は、見ているもんである。」

この他にも「ダンテ」、「こけし屋」、「ファンキー」、「いもや」といった昔懐かしい名前の店が出てきたのも嬉しいことのひとつ。
「ダンテ」と「こけし屋」は、40数年前、西荻窪に住んでいた頃に、よく通った店である。
とくに「ダンテ」は、知り合う前の家内が毎日のように通っていた店で、家内と知り合ったとき、最初に連れていかれたのがこの喫茶店であった。
10坪にも満たない小さな店で、ジャズ喫茶というわけではないが、いつも静かにジャズが流れていた。
そして美味しいコーヒーを飲ませてくれる。
隠れた名店である。
いっぽう「こけし屋」は「ダンテ」のような小さな店ではなく、3階まである洋菓子兼レストランである。
創業昭和24年の老舗で、近隣の文化人たちが足繁く訪れた店である。
よく知られたところでは、浜田山に住んでいた松本清張がしばしば来店、食事の後はここで小説を執筆していたこともあったそうだ。
また井伏鱒二、丹羽文雄、金田一京助、棟方志功、東郷青児、徳川夢声、開高健などが集う会がこの店にあった。
そんな文化の匂いを今も残しており、本書ではここで「西荻ブックマーク」のトークショーが開かれたと書かれている。
こうした店が「中央線文化」の一翼を担っているのである。
両店とも西荻窪の駅前にあり、今も昔と変わらず健在なのが頼もしい。

「ファンキー」は吉祥寺駅前にあるジャズ喫茶、そして「いもや」は神保町にある天ぷらの店。
どちらも昔通った馴染の店だが、とくに「いもや」は安くてうまい天ぷらを出す店で、貧乏学生にとってはありがたい店であった。
「八人で満員ぐらいの小ぶりの店」で、行くと必ず長い行列に並んだものだ。

このほかにも旅や街歩きのさまざまな記述があり、情報満載。
なかでも古書店についての情報は詳細を極めている。
東京に限らず各地の古本屋を巡り、行く先々で珍本、希少本を探す。
また古本に限らず、古書店主やスタッフなどにも顔なじみが多く、そのため業界の裏話にも深く通じている。
古本や古書店についての著書を、数多く出している著者ならではの世界である。

このように盛りだくさんの内容に、時間を忘れて読み耽った。
どこを開いても興味深く、どこから読んでも面白い。
また著者自身が描いた和田誠風のイラストや写真も彩りを添えており、それを眺めるのも愉しい。
だからこそ「ヴァラエティブック」なのである。


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑

テーマ : 図書館で借りた本  ジャンル : 本・雑誌


Category: 読書

Tags: 村上春樹  

Comment (0)  Trackback (0)

村上春樹「騎士団長殺し 第2部:遷ろうメタファー編」

kisidancho2.jpg

村上春樹の小説の重要なキーワードのひとつに、「シーク・アンド・ファインド(seek and find)」というのがある。
主人公が「何か」を探し、「見つけ出す」ことである。
この小説の骨格となっているのも、「シーク・アンド・ファインド」ということになる。
ではこの小説では、いったい何を探し出そうとしているのか。
その手がかりとなるのが、主人公の「私」が、屋根裏で見つけた雨田具彦の未発表作品「騎士団長殺し」である。
ドン・ジョヴァンニが騎士団長を剣で刺し殺すという、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」の場面をモチーフに、それを飛鳥時代に移し変えて描いた日本画である。
雨田具彦の最高傑作と云っていいほどの完成度の高い作品であるが、それにもかかわらず、なぜそれを隠さなければならなかったのか。
そこに秘められた謎を探ることになる。
そこから物語は本格的に動き出していく。
そしてその謎を探るなか、騎士団長に姿を借りたイデアが顕れ、「私」を異界へと導いていく。
イデアについての考察は、騎士団長と「私」の間で何度か話されるが、その実態についてはよく分からない。
しかし禅問答のようなそのやりとりは、非常に興味深く面白い。
その騎士団長と会話ができるのは、「私」と「私」の絵の教え子であり、絵のモデルでもある13歳の少女、「秋川まりえ」だけである。
「秋川まりえ」は「私」が15歳のときに死んだ妹のことを思い出させるような少女である。
そして免色が、ひょっとすると自分の娘かもしれないと考えている少女でもある。
そのまりえが、ある日突然謎の失踪をする。
そこで「私」は、まりえを救出するため、騎士団長に促されるままに「メタファー通路」と呼ばれる闇のなかへと、足を踏み入れていく。
こうした展開は、これまでの小説のなかでも繰り返し描かれてきた、おなじみの展開である。
そこでは現実と異界の二重構造になっており、そこを行き交い、通り抜けることで、自分のなかの何かが変化し、ある着地点へと到達する。
それが、村上春樹の小説の構造になっている。
そしてこの小説での到達点は、「私」が「ユズに電話をかけて、君に一度会ってゆっくりと話がしたいんだと告げること」であり、まりえは「自分は自由なのだ。この足で歩いてどこにでも行けるのだ。」と考えたことである。
その結果「恩寵のひとつのかたちとして」大切なものを手渡され、物語は静かに終息していく。

上下巻合わせて千ページを超える長編ではあるが、途中ダレることなく読み続けた。
いやむしろ次々と起きる不思議の先を知りたいという気持ちに掻き立てられていった。
小説がもつミステリーの要素がそうさせるのである。
さらにクラシックやジャズやポップスなどの音楽や、文学、映画といったモチーフを散りばめることで、小説世界に彩りを添えていく。
そうしたいつも通りの手法が、さらに効果的な後押しとなっている。
また様々なクルマが登場するのも同様である。
主人公の「私」が乗るのは、埃まみれのカローラ・ワゴン、免色が乗るのは、ピカピカに磨き上げられた銀色のジャガージャガーXJ6、そして秋川笙子とまりえが乗るのは、ブルーのトヨタ・プリウス、雨田政彦が乗るのは、黒いボルボ、さらに私が妻と別れた後、北海道と東北をあてもなく旅した時に乗ったのが古いプジョー205である。
そしてその旅の途中で出会った謎の「白いスバル・フォレスターの男」といった具合である。
そのように村上春樹好みのアイテムで細部を埋め尽くしていくことで、独自の世界を構築していくのである。
それはまるで「言葉やロジックとしてではなく、ひとつの造型として、光と影の複合体として」把握しながら描く「私」の絵の作業のようでもある。
また雨田具彦が「自ら血を流し、肉を削るように」「精根を傾けて」「騎士団長殺し」という絵を描いたことにも重なってくる。
そこには村上春樹の小説を書くということの困難さや熱い思いが、込められているのではないか。
読み終わった後、ふとそんなことを考えたのである。


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑

テーマ : 図書館で借りた本  ジャンル : 本・雑誌


Category: 読書

Tags: 村上春樹  

Comment (0)  Trackback (0)

村上春樹「騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編」

kisidancho1.jpg

村上春樹の七年ぶりとなる長編「騎士団長殺し」が出版されたのは、今年2月のこと。
すぐ図書館に予約を入れたが、すでに予約が殺到、30人を超える予約待ちであった。
待つこと数ヶ月、その順番がようやく回ってきた。
8月のことである。

主人公は36歳の肖像画家である「私」。
妻から突然離婚を迫られた「私」は、妻と別れ、友人の父親である高名な日本画家・雨田具彦が持つ、小田原市郊外の自宅兼アトリエに、留守番役として住むことになる。
そしてその家の屋根裏で、雨田具彦の未発表作品「騎士団長殺し」を偶然見つけることになる。
その絵に込められた謎を探るなか、向かいの山上に建つ、白い邸宅の謎の人物、免色渉と知り合い、肖像画を描くよう依頼される。
そうした展開の中で、様々な不思議と出会うことになる。
これが第1部のストーリー。
いつもの春樹的モチーフ満載の世界である。
そして気がつくと、その不思議世界にいつの間にかどっぷり浸っているというのも、またいつも通りのことである。

ここまで読むと次が読みたくなってくる。
ところが、この時点ではまだ第2部の予約はしていなかった。
うっかりミスである。
急いで予約を入れたが、また30人近く待たされることになった。
そしてその順番がようやく回ってきたのが先日のこと。
さてどういう展開になるか、読むのが楽しみである。
ということで、この続きはまた後日ということに。


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑


テーマ : 図書館で借りた本  ジャンル : 本・雑誌


Category: 読書

Tags: 短編小説集  

Comment (0)  Trackback (0)

石井光太「東京千夜」

tokyo-senya.jpg

著者は、最下層に生きる人たちをルポするライターである。
ルポライターという職業は、人と会うのが仕事である。
日々様々な人と関わっていく。
そうやって出会った人のなかから、特に印象に残った人たちの姿を「あるものは随筆として、あるものは私小説として、またあるものは記録として」描いたのが、この本である。
自殺者、ゴミ屋敷の住人、ハンセン病者、HIV感染者、身体障害者、津波の被災者と、いずれも社会の枠から外れたところで生きる人たちである。
そうした人たちが、なぜそんな人生を歩まなければならなくなったのか。
そしてそこでどんな歩み方をしているのか。
それを自ら寄り添うようにしながら書き綴っていく。
そこから見えてくるのは、様々な生と死である。
目を背けたくなるような悲惨さではあるが、それだけに却って目が離せなくなる。
こんな過酷な人生があるのだという驚きがある。
しかし同時に生きる逞しさも見えてくる。
それはギリギリのところで生きていかざるをえない人間の、切ないまでの逞しさである。
それが激しく胸を打つ。
こうした人たちを前にすると、誰もが言葉を失ってしまうにちがいない。
生半可な言葉では、到底太刀打ちできない。
それをあえて言葉にしなければならないのがルポライターという仕事である。
相当タフな精神をもっていなければ対応できないことだ。
おそらく自らの身を削りながら書いたに違いない。
そんな痛みが、行間から見えてくる。
初めて出会ったルポライターではあるが、この本1冊によってその名前が強く刻みつけられた。


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑

テーマ : 図書館で借りた本  ジャンル : 本・雑誌


Category: 読書

Tags: 短編小説集  

Comment (0)  Trackback (0)

池澤夏樹「スティル・ライフ」

still-life.jpg

中央公論新人賞および芥川賞を受賞した「スティル・ライフ」と、受賞第一作「ヤー・チャイカ」が収録された作品集である。
池澤夏樹の小説を読むのはこれが初めてだが、その存在には以前から関心があった。
それは彼の父親が高名な小説家、詩人、フランス文学者の福永武彦であるということ。
またかなりの読書家で、書評家、そして翻訳家、詩人、小説家で、古今の文学に深く通じた文学者であるということ。
過去にいくつか書評を読んだことがあるが、その慧眼には教えられることが多かった。
そうした文学的素養を生かして、世界文学全集を個人編集で出版したのが、数年前のこと。
続いて、日本文学全集の編集も行っている。
いずれも、これまでの全集にはなかった斬新な内容で、機会があれば読んでみたいと思っている。
そんなこんなで、気になる存在であった。
ただ小説を読むというところまではいかなかった。
ところが最近読んだ、山崎努の「柔らかな犀の角」のなかで、彼が池澤夏樹の熱烈なファンで、ほとんどの著作を読んでいると書かれてあった。
それを読んで、それほど惹かれる魅力とはいったい何なのか、それを知りたくて、この小説を読むことにしたのである。

この小説は、昭和62年に書かれたもの。
1945年(昭和20年)生まれなので、42歳の時。
最初に小説を書いたのは、これより4年前の「夏の朝の成層圏」、遅い小説家デビューである。
そのことについて、彼は次のように語っている。
「きっかけは福永が亡くなったことです。父がいる間はとても小説などを書くことは想像もしなかった。」
彼の母親は詩人の原條あき子、同人仲間であった福永武彦と1944年に結婚したが、5年後に離婚、その後再婚したが、池澤夏樹には福永武彦が実父だということは教えていなかった。
そのことを知ったのは、高校生になってから。
突然知らされた高名な父親の存在、その事実に複雑な感情を抱いたことは想像に難くない。
以来その存在が大きな壁となって立ちはだかった。
そんな複雑な経緯の影響が、彼を小説から遠ざけ、遅い小説家デビューとなったのである。

「スティル・ライフ」は、アルバイト先で知り合った男と「ぼく」の交流を描いたもの。ある日彼から奇妙な仕事を手伝うよう依頼される。「スティル・ライフ」とは静止画のこと。

「ヤー・チャイカ」は、高校生の娘とふたりだけで住む主人公が、イルクーツク出身のロシア人の男と偶然知り合い、そこから3人の交流が始まる。そしてその交流の間に、娘が語るファンタジックな話が差し挟まれる。ちなみに「ヤー・チャイカ」とは、人類初の女性宇宙飛行士テレシコワが、宇宙船から地球に送ったコール・サイン「私はカモメ」のこと。

どちらもこれといって特別なことが起きるわけではない。
偶然知り合った同士の、とりとめのない会話主体で話が進行していく。
しかしその会話の内容は、興味深いものばかり。
そして詩的で哲学的な文章によって、浮世離れした不思議な世界が展開されていく。
そういう点では村上春樹との共通性も感じるが、池澤の場合はそこに自然科学の要素が加味されていく。
彼が大学時代に専攻したという物理学を始めとした自然科学の知識が、文章に生かされており、独特の味わいを醸し出している。
それは例えば次のようなもの。

<ぼくはハトに気持を集中した。ハトがひどく単純な生物に見えはじめた。歩行のプログラム、彷徨的な進みかた、障害物に会った時の回避のパターン、食べ物の発見と接近と採餌のルーティーン、最後にその場を放棄して離陸するための食欲の満足度あるいは失望の限界あるいは危険の認知、飛行のプログラム、ホーミング。彼らの毎日はその程度の原理で充分まかなうことができる。 そういうことがハトの頭脳の表層にある。
しかし、その下には数千万年分のハト属の経験と履歴が分子レベルで記憶されている。ぼくの目の前にいるハトは、数千万年の延々たる時空を飛ぶ永遠のハトの代表にすぎない。ハトの灰色の輪郭はそのまま透明なタイム・マシンの窓となる。長い長い時の回廊のずっと奥にジュラ紀の青い空がキラキラと輝いて見えた。>(スティル・ライフ)

<まわりにまったく何もないというのはどんな気持ちがするものなのか、と想像する。そういう擬人法に依らなくては、人は遠方に送った機械と自分の意識をつなぐことができない。かじかんだ足の指がまだ自分に所属することを確かめようと、ちょっとだけ動かしてみるようなものだ。小惑星の向こうを飛ぶ探査装置が自分たちの世界に所属することを確認するために、自分をその場所に置かれた目と考えて、見える光景を想像し、物質がないという寂寞を想像する。そういう誘惑を感じている人間がたくさんいる。>(ヤー・チャイカ)

こうした思念や描写が、現実世界と行きつ戻りつ、そして融合しながら、科学的美しさをもった小説世界を形作っていくのである。
これ1冊では、まだまだその魅力を解明できたということにはならないが、その一端に触れることはできたように思っている。
これをきっかけに、またもう少しその世界を覗いてみたいなと考えている。


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑

テーマ : 図書館で借りた本  ジャンル : 本・雑誌


Category: 読書

Tags: 短編小説集  

Comment (0)  Trackback (0)

本多孝好「at Home」

at-home.jpg

作り話だからこそ見えてくる真実というものがある。
概ね小説とは、そういうものかもしれないが、とくにこの短編集では、そんな感想を強く持った。

表題作の「at Home」、「日曜日のヤドカリ」、「リバイバル」、「共犯者たち」の4編が収録されている。
いずれの短編も家族がテーマになっているが、どこか歪な欠損家族ばかり。
そこから家族とはいったい何なのかというテーマが、浮かび上がってくる。
ありえないような設定、都合のいい展開など、欠点はあるが、それでも読ませてしまうものがある。
もともとがミステリー作家であるという作者の、ストーリーテラーとしてのテクニックに、うまく乗せられてしまうわけだが、けっして不快ではない。
むしろその手管にひとつ乗ってみようという気にさせるものがある。
そして余計なことを考えず、物語世界へと身を委ねるうちに、快い感動へと至るのである。
最後がどんでん返しというか、落ちのような終わり方というか、そこには落語の人情話を聴いているような心地よさがある。

本多孝好の本を読むのは、これが初めて。
なので、最後に簡単な略歴を書いておく。

1971年の東京生まれ、慶應義塾大学法学部卒。
小学生の頃は江戸川乱歩、中学生の頃は赤川次郎、高校生の頃は半村良、大学時代は村上春樹や村上龍に夢中だった。
弁護士を志して法学部に在籍していたが、大学4年生の時、同じ学部の金城一紀に卒業文集に入れる小説の執筆を依頼されたことがきっかけとなり、作家を志すようになった。その後、金城の助言で習作を続け、共に切磋琢磨した。本格的に作家を目指すか、弁護士になるか心が揺れていた時(1994年)に「眠りの海」で第16回小説推理新人賞を受賞し、作家になる決心をした。(以上Wikipediaより)
1999年に単行本デビューとなる「MISSING」で、「このミステリーがすごい」のトップ10入りを果たす。
主な著書に「ALONE TOGETER」、「FINE DAYS」、「真夜中の5分前」、「MOMENT」、「WILL」などがある。


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑
テーマ : 図書館で借りた本  ジャンル : 本・雑誌


Category: 読書

Tags: 蓮見圭一  

Comment (1)  Trackback (0)

蓮見圭一「水曜の朝、午前三時」

suiyounoasa.jpg

先日読んだ近田春夫の「僕の読書感想文」に、この小説のことが書かれおり、そのなかに、次のような一文があった。
<その過ごした時代には密度があった。70年代というものの持っていた力強さや希望、そしてうしろに隠されたある種の構造的な貧しさ。何よりもあの頃の人たちの心のありようがこの本ではあざやかに描かれている。直美とほぼ同世代に属する私には、とても切なく懐かしい小説で、まるで昔に戻った気分で一気に読み上げてしまった。>
そんな言葉にひかれてこの小説を読んでみた。

物語の始まりは1970年の大阪万国博覧会。
没落した旧家の出身で、戦犯の祖父をもった四条直美は、親の決めた許嫁との結婚から逃れるため、勤めていた出版社を辞め、大阪に移り住み、万博のホステスとして働き始める。
そこで臼井という男性と知り合い恋に落ちるが、ある事実を知ったことで破局を迎える。
そしてそれが引き金となって悲劇的な事件が起きる。
さらに数年が経った後のふたりの再会。
そうした経緯を、癌で余命わずかになった四条直美が、ニューヨークに留学している一人娘・葉子に伝えようと、テープに向かって語っていく。
それを彼女の死後、葉子の夫が手記の形にして起こしたのが、この小説である。

こうした恋愛小説で重要なことは、主人公のキャラクターであろう。
それが魅力的かどうかが、評価の分かれ目になってくる。
四条直美はそういった意味では、魅力的な女性で、それがこの小説の面白さを大きく支えている。

人生は選択の連続である。
小説では、キルケゴールの「人間は、選択して決意した瞬間に飛躍する」という言葉が引用されているが、どれを選ぶかで、その後の人生は大きく変わっていく。
しかしどれを選択しようとも、それを決めたのは他の誰でもない自分自身なのである。
結果がどうなろうとも、自らが決めたことである。
後は覚悟を決め、その選択にしたがって前に進むしかない。
主人公、四条直美はそうやって自分の気持ちに正直に、そして選択に責任を持ち、後悔せずに生きたのである。
そして最後は娘に向かって次のように語りかける。

この人生に私が何を求めていたのか-----ここまで根気よくつきあってくれたなら、もう分かったでしょう。私は時間をかけてどこかにあるはずの宝物を探し回っていたのです。ただ漫然と生きていては何も見つけることはできない。でも、耳を澄まし、目を見開いて注意深く進めば、きっと何かが見えてくるはずです。・・・・なににもまして重要なのは内心の訴えなのです。あなたは何をしたいのか。何になりたいのか。どういう人間として、どんな人生を送りたいのか。それは一時的な気の迷いなのか。それともやむにやなれね本能の訴えなのか。耳を澄ませてじっと自分の声を聞くことです。歩き出すのはそれからでも遅くないのだから



この小説は単なる悲恋の物語というよりも、意志的に生きたひとりの女性の力強い人生の物語なのである。
そこに強く魅せられた。
さらに彼女が昭和22年生まれの同年齢だということも、この小説にシンパシーを感じた大きな要因である。
偶然ではあるが、先日読んだ小池真理子の「無伴奏」に続き、またもういちどあの時代へと想いを馳せたのである。


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑



Category: 読書

Comment (0)  Trackback (0)

小池真理子「無伴奏」

mubansoh.jpg

小池真理子は東京生まれだが、父親の転勤によって各地を移り住み、1968年から1972年まで仙台で過ごしている。
彼女が高校生の時である。
時は全共闘運動など学生運動が盛んだった時代。
仙台でも学園紛争の嵐が吹き荒れていた。
安保闘争、全共闘運動、ベトナム戦争、デモ、フォークソング、アングラ文化。
政治の季節であり、そして芸術の季節でもあった。
そんな時代を振り返りながら書かれた小説である。

題名の「無伴奏」は、バロック音楽を専門に流す名曲喫茶の名前である。
実際に仙台にあった喫茶店で、小池真理子もよく通った店である。
そこで出会った大学生と女子高生の出会いと別れを描いたのが、この小説である。

青春のノスタルジーである。
しかし青春とはやっかいなもの。
純粋であるがゆえの独断と偏見、矛盾を抱えながらの短絡的な行動、不安と迷いに支配され、感情をコントロールできず、些細なことに思い悩む。
さらに時代は反権力を志向しており、その風潮をまともに受けた主人公の迷走が、痛々しい。

物語の主題よりも、あの時代がもっていた独特の雰囲気、その再現に惹かれた部分が大きい。
同じ時代を生きた者としての共感である。
甘さと苦さの入り交じった共感である。

女性版「ノルウェーの森」であり、あの時代の鎮魂歌でもある。


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑


カレンダー
11 | 2019/12 | 01
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
プロフィール

cooldaddy

Author:cooldaddy
住んでいるところ:青森県弘前市
出身地:香川県
年齢:今年(2018年)70歳です。
性別:男

還暦(10年前)という節目を迎え、何か新しいことを始めようとブログを開設しました。
趣味のこと、生活のこと、心に残ったことなど、My Favorite thingsを、気ままに書いていこうと思います。
末永くおつき合いください。

映画サイト「マイ・シネマ館」もやっています。
こちらもよろしく。

ランキングサイトに参加しています。
もしよければクリック、お願いします。↓
ブログランキング・にほんブログ村へ 

月別アーカイブ
cooldaddyの本棚
FC2ブログランキング
ブログ内検索
QRコード
QRコード

1234567891011121314151617181920212223242526272829303112 2019