映画「グラン・トリノ」

これはイーストウッドの遺書のような映画である。
自らの俳優としての最期を、この映画によって幕をひこうとしたのではなかろうか。
そう思わせるような物語である。
かつての古きよきアメリカは、今や記憶の彼方に去り、価値観は揺らぎ、生き難くい混迷の時代になってしまったが、それでもそこにかすかな希望が残されている。
その希望に自らの思いを託したのがこの映画ではなかろうか。
映画に登場するフォード製「グラン・トリノ」は名車ではあるが、かつてのアメリカ車のすべてがそうであったように力はあるが、燃費の悪い、ガソリン食いの時代遅れのクルマである。
それはまさにイーストウッド演じるウォルト・コワルスキーそのものだ。
朝鮮戦争の帰還兵で、長年働いたフォード社を退職し、妻を亡くし、ふたりいる息子家族とはいっしょに住まず、ひとり孤独な生き方を選んだ老人、ウォルト・コワルスキー。
彼はもうすでに、自分の生きる場所が失なわれてしまっていることを知っている。
だがそれでも自らの信念と生き方をけっして曲げようとはしない。
そんな時代遅れの男をこの名車に重ね合わせることで、イーストウッド自らの鎮魂歌としたのではなかろうか。
そしてそれは同時に古きよきアメリカへの鎮魂歌でもある。
「年寄りの冷水」と笑うなかれ。
老いたりと云えども、イーストウッドは、やはりイーストウッドなのである。
その男としての価値は、どんなふうな姿になろうともけっして揺らぐことはない。
そのことを改めて確信しなおした映画であった。


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