北村薫「太宰治の辞書」

文学探訪、書評、エッセイ、論文、さらにはミステリーといった要素を合わせもった小説である。
幻惑されそうな内容だが、読み進むうちに曰く言い難い魅力に絡めとられてしまう。
こうした小説を読むのは初めてである。
主人公の《私》は小さな出版社に勤める40代の女性。
無類の読書家であるが、小説の細部が気になる性質。
そしていったんそれが気になると、とことん追求せざるをえなくなる。
そんな《私》が芥川龍之介の『舞踏会』を評した三島由紀夫の「ロココ的」という言葉に触発され、その繋がりから太宰治の『女生徒』のなかで書かれた「ロココ料理」という言葉に行きあたる。
さらに太宰が辞書で調べた「ロココ」という語彙の意味「華麗のみにて内容空疎の装飾様式」という文章に辿りつくが、果たしてそれがほんとうに太宰が辞書を引いて調べた言葉なのかどうかという疑問が沸き、その真偽を確かめるための探索が始まることになる。
そうした流れの中で三島由紀夫、江戸川乱歩、萩原朔太郎、江藤淳、ピエール・ロチ、フランソワ・モーリアックといった様々な文学者や文学作品が採り上げられる。
さらに助言や協力を仰ぐ人たちが登場、例えばそれは会社の上司であったり、出版を担当する大学の教師であったりするが、なかでも重要なのは大学時代からの友人・高岡正子と落語家の春桜亭円紫のふたり。
高岡正子からは「ロココっていえば、太宰だな」という助言があり、愛読した文庫本『女生徒』を手渡される。
それをきっかけに太宰文学の世界へと入り込んでいくことになる。
また円紫の場合は、寄席で彼の落語を聴いて楽しんだ後、行きつけの居酒屋でふたりで酒を酌み交わす。
そこで交わされる太宰についての話題のなかで、円紫から「太宰治の辞書」についての助言をもらうことになる。
それが次なる探索へと繋がっていく。
またこの会話のなかでさらに興味深い話を聴かされる。
それは太宰の言葉としてよく知られている「生まれて、すみません」が、実は太宰の言葉ではないということ。
そのことについては小説の中で詳しく書かれているが、太宰らしいエピソードで非常に興味深い。
そして同時にそのことは『女生徒』が太宰のファンだった有明淑から贈られた日記を下敷きに書かれたという事実とも重なるものがあり、そうした考察のなかから太宰文学の本質に迫ろうとする。
非常にミステリアスで知的好奇心を大いに刺激された。
贅沢で豊かな時間だった。
そして小説を深く読むとは、こういうことなのだということを教えられたのである。
調べてみると、これは「円紫さんと私」シリーズの6作目ということだ。
作者のデビュー作である『空飛ぶ馬』がシリーズの第1作目で、以後『夜の蝉』、『秋の花』、『六の宮の姫君』、『朝霧』と続き、この作品が16年ぶりの新作ということだ。
そういうわけで後追いになるが、他の5作品もぜひ読んでみたいと思っている。
そしてもちろん太宰の小説も。


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