風に吹かれて

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Category: 読書

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乙川優三郎「ロゴスの市」

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脊梁山脈」「トワイライト・シャッフル」「太陽は気を失う」に続く乙川優三郎の現代小説である。
昭和55年、大学で出会ったふたりの男女「成川弘之と戒能(かいの)悠子」が、ともに翻訳家と同時通訳者として言葉の世界で生きていくことになる。
そしてお互いに刺激し高め合いながら、それぞれの世界で着実に実績を積んでいく。
いずれふたりは一緒になるのだろうとの予感があったが、なぜか彼女は突然別の男と結婚してしまい、ふたりの関係は途絶えてしまう。
残された男もまた別な女性と結婚し家庭をもつことになるが、数年後、再び彼の前に現れ、また以前のような関係を取り戻すことになる。
言ってみれば不倫だが、そこに見られるのは、背徳の匂いやどす黒い欲望や葛藤といったものではなく、ともに言葉の海に漕ぎ出した者同士ならではの連帯感のようなものである。
それはこの小説が男女の恋愛よりも、言葉の海に漂うふたりの、言葉との懸命で真摯な格闘を主に描いているからだ。
そしてそうした言葉との取り組み方は、また作者自身の姿でもあるのだろう。
研ぎ澄まされた言葉が、どのように生み出されていくのか、そんな作者の内側を覗き見させてくれる面白さも味えるのである。
たとえば次のような描写からそれは窺える。

<彼は食料を買い溜めし、気晴らしの散歩と風呂と食事以外の時間は書斎に籠るようになっていった。一冊の短編集のために辞書と資料とで変貌したアパートの一室は新生の場でもあった。寝ても覚めてもサラの文章に揺すられ、顔を上げる日が続くと、作家の冷徹な目に自分までもが見られているような錯覚を起こすことがある。
「化け物め、この文章で何が言いたい。」
 夜更けに壁を仰いでいると、やがて日本語の言葉が救ってくれる。学んだ記憶のない言葉をなぜ知っているのかと思うことがよくあり、それが母語というものだと気づいた。そういう何気ない言葉によって、直訳では味も素っ気もない文章が同じ意味でありながら柔らかく生きてくるのであった。>

<変化のない一日を繰り返すうちに彼は変化のないことにも鈍感になって、ひたすら翻訳という作業におぼれた。必要な刺激は訳している小説世界の中にあって、飽きるということがない。悩まされた挙句、平凡な表現に落ち着くこともあるが、まれに生まれる芸術的な訳文は静かな驚喜と充足をもたらした。その一瞬を求めて翻訳家は闘うのかもしれない。>

<走り過ぎて躓くと、顔を上げて、英語の空想に日本語の石を投げてみる。石が消えなければ彼女の小説世界にふさわしい言葉となって落ち着く。空想が過ぎて、自分の訳文を反訳しても彼女の英文に還るような不可能を夢見ることもあった。
 ひとつの描写、ひとつの表現に数十通りの和訳を用意しながら、どれひとつ嵌らないことがある。変幻自在な日本語が英語に負けることなど考えられないが、作家によって絞り出された英文も魔物なのであった。恐ろしく長い時間を費やし、言葉の泉もつきてぼんやりするときが翻訳家にはあって、この無意味な休息のあとに前触れもなく覚醒する。どうしても思いつかなかった言葉がどこからかやってきて、重たい瞼の上に下りるのであった。>

また翻訳の担当者である原田が口にする次のような言葉。

「一章にひとつ、原文の意味を違えずに美しい言葉の欠けらでも組み込めたら上出来と言っていい、優秀な翻訳家はオリジナルを意識しながら、どこかで勝とうとする、そして大抵は負ける、当然だろう、原作者とは遣う言葉が違うのだから、しかしまた闘う、勝てる見込みなどないのに闘って、何とか引き分けに持ち込む、連戦連敗よりはましだし、そのうち奇跡のような名訳が生まれる」

「苦しくてもよい仕事をすることだ、その積み重ねがいずれ生活も精神も鍛える」

さらに文章修行のなかで何人かの作家の小説が採り上げられているのも興味深い。
向田邦子、芝木好子、スタインベック、ヘミングウエイ、そしてインド系アメリカ人のジュンパ・ラヒリといった人たちである。
なかでも向田邦子は悠子が好きな作家となっており、向田邦子が飛行機事故で亡くなったニュースを聞いてショックを受ける場面が出てくるが、そのことが後の出来事の伏線にもなっている。
さらに芝木好子の「隅田川暮色」は、弘之がスランプに陥った時、図書館で何気なく手に取って出会った小説である。
それに導かれて芝木好子の小説を次々とむさぼり読む。
そして「性根を据えて自分の日本語を磨くことに集中したい」と考えるようになる。
芝木好子の小説が読みたくなった。

ところでこの小説の題名「ロゴスの市」とは何か。
それは主人公、弘之が翻訳修行のためにアメリカ、ヨーロッパと旅した際、ドイツのフランクフルトで行われた世界最大規模のブック・フェアのことである。
三日間開催されるこのブック・フェアには7千もの業者が集まり、世界中から15万人以上の人が訪れる。
そこで主人公は原田とともに翻訳するに足る小説の原石を見つけようとする。
さらに数年後、悠子を伴って再度訪れ、ふたりして「ロゴスの世界」に心ゆくまで浸るのである。

この小説によって、乙川文学がさらなる高みへとのぼったことを感じた。
そして乙川優三郎はひとつのことを地道に追い求める一途な生き方をする人たちを、ひたすら描き続ける作家なのだということを、また改めて思ったのである。


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