映画「東京家族」

山田洋次監督が、齢82にして小津安二郎の「東京物語」をモチーフに映画「東京家族」を撮った。
リメイクではなく、モチーフにした映画というところに、山田監督らしい思いがこめられているようだ。
山田洋次はかつて小津の映画に対しては批判的であった。
それは何も山田洋次だけに限ったことではなく、当時の松竹の若い助監督たちはこぞって小津の映画には批判的であった。
「単なるプチブル趣味の映画」「生活苦と関係のない映画」を相も変わらず繰り返し撮り続ける小津の映画は、若い助監督たちにとっては退屈きわまりないものであったのだ。
しかし年とともに山田洋次は小津の映画に魅せられていくようになる。
そして気づいたときには、自らが小津を代表とする大船調映画の正統的な伝統を受け継いだ立場にいることを自覚するようになったのである。
ある時山田洋次が黒澤明を訪ねたとき、黒澤は小津の「東京物語」を熱心に観ていたという。
その姿が強く印象に残ったと語っている。
そして今回の「東京家族」である。
モチーフにした映画と謳っているものの、間違いなくこれは「東京物語」のリメイクである。
60年前に書かれた話を、現代に移し変えて撮った「東京物語」である。
話の内容も、主人公たちの名前もほぼすべてが「東京物語」と同じである。
だから映画を観始めた当初は、どうしても小津の「東京物語」がチラついて仕方がなかった。
これは別な映画だ、山田洋次の「東京家族」なんだと言い聞かせるものの、どうしても小津の「東京物語」の場面が重なってしまう。
また役者にしてもそうだ。
特に父親役の橋爪功を見ていると、どうしても笠智衆の姿が浮かんでしまう。
橋爪功はおそらくそのことを誰よりもよく判っており、そうした染み付いたイメージを忘れて、自分なりの父親を演じようとしたのだろう。
それは半ば成功したと思う。
笠智衆とはまた違った現代の父親像になっていたと思う。
しかしそれでいてそうした違和感はどこまでも着いて回ったのである。
結局こうした違和感は、リメイクの場合どうしても避けがたいもので、致し方のないものである。
とくにそれが映画史に残るような名作であればなおさらである。
そうした危険を承知の上で、それでも敢えてリメイクをしたわけである。
リメイクはけっしてオリジナルを越えることはない。
たとえ映画としての完成度がいかに高かろうが、越えることはない。
もちろん山田洋次監督はそんなことは百も承知のうえでのことだろう。
それでも敢えてこの世界的名作のリメイクを試みたのである。
そこには単に小津監督に対するオマージュというだけではない、何か特別な意味合いがあるようにも思う。
それが果たして何なのか、じっくりと考えてみなければと思っている。
ところで再度映画のほうに話を戻すと、映画が進むにつれてそうした違和感は次第に払われていった。
吉行和子演じる母親が、次男(妻夫木聡)のアパートを訪れるあたりから、徐々にいつもの山田映画の世界へと足を踏み入れていったのである。
そして父親が旧友の沼田(小林稔侍)と再会し、居酒屋で痛飲する場面では完全に山田洋次の世界に没入してしまったのである。
それまではどちらかといえば、ただ不機嫌な顔をするだけで寡黙を通していた父親が、ここでは思わず羽目を外して本音を漏らす。
家族といえどもその関係は次第に変質し、気がつくとあまりにも遠く離れてしまったこと、そしてそれとともに自分たちの居場所はなくなってしまったのかもしれない、そうした嘆きや苛立ちが酔いの勢いに乗って語られてゆく。
そこからは山田監督自身の時代に対する嘆きや苛立ちの声も同時に聞こえてきそうであった。
これは山田監督にとっては監督生活50周年を記念する作品である。
そしてこの映画化は、どうしてもやり遂げておかなければという山田洋次監督の長年の熱い思いが実を結んだものである。
それを考えるとファンとしては重く受け止めなければならないところだが、何とも複雑な思いのままに映画を観終わったというのが本音である。


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