風に吹かれて

My Life & My Favorite things

Category: 月別観た映画と読んだ本

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今月観た映画と読んだ本(2017年3月)

観た映画

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「神なるオオカミ」(DVD)
2015年中国/フランス 監督:ジャン=ジェック・アノー 出演:ウィリアム・フォン/ショーン・ドウ/バーサンジャプ


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愛する人(DVD)
2009年アメリカ/スペイン 監督/脚本:ロドリゴ・ガルシア 出演:ナオミ・ワッツ/アネット・ベニング/ケリー・ワシントン/ジミー・スミッツ/サミュエル・L・ジャクソン/デヴィッド・モース


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「消えた声が、その名を呼ぶ」(DVD)
2014年ドイツ/フランス/イタリア/ロシア/ポーランド/カナダ/トルコ 監督/脚本:ファティ・アキン 出演:タハール・ラヒム/シブン・アブカリアン/マクラム・J・フーリ/モーリッツ・ブライプトロ


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バクマン(DVD)
2015年 監督/脚本:大根仁 出演:佐藤健/神木隆之介/小松菜奈/桐谷健太/新井浩文/皆川猿時/宮藤官九郎/山田孝之/リリー・フランキー/染谷将太


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「お盆の弟」(DVD)
2015年 監督:大崎章 出演:渋川清彦/光石研/岡田浩暉/河井青葉/渡辺真起子/田中要次


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「イニシエーション・ラブ」(DVD)
2015年 監督:堤幸彦 出演:松田翔太/前田敦子/木村文乃/森田甘路/三浦貴大


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「テレマークの要塞」(BSプレミアム)
1965年アメリカ 監督:アンソニー・マン 出演:カーク・ダグラス/リチャード・ハリス/ウラ・ヤコブソン/マイケル・レッドグレー/デイヴィッド・ウェストン


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「ディーパンの闘い」(DVD)
2015年フランス 監督:ジャック・オディアール 出演:アントニーターサン・ジェスターサン/カレアスワリ・スリニバサン/カラウタヤニ・ヴィナシタンビ/ヴァンサン・ロティエ/マルク・ジンガ


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「キングコング 髑髏島(どくろとう)の巨神」(イオンシネマ試写会)
2017年アメリカ 監督:ジョーダン・ヴォート=ロバーツ 出演:トム・ヒドルストン/サミュエル・L・ジャクソン/ジョン・グッドマン/ブリー・ラーソン/ジン・ティエン/トビー・ケベル/ジョン・オーティス/コーリー・ホーキンス/ジェイソン・ミッチェル/MIYAVI/シェー・ウィガム/ジョン・C・ライリー


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「私の男」(DVD)
2013年 監督:熊切和嘉 出演:浅野忠信/二階堂ふみ/高良健吾/藤竜也/モロ師岡/三浦貴大/河井青葉


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起終点駅 ターミナル(DVD)
2015年 監督:篠原哲雄 出演:佐藤浩市/本田翼/尾野真千子/中村獅童/和田正人/泉谷しげる


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「リベンジ・マッチ」(BSプレミアム)
2013年アメリカ 監督:ピーター・シーガル 出演:ロバート・デ・ニーロ/シルベスタ・スタローン/キム・ベイシンガー/ケヴィン・ハート/アラン・アーキン/ジョン・バーンサル


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「隠し砦の三悪人」(BSプレミアム)
1958年 監督/脚本:黒澤明 出演:三船敏郎/千秋実/藤原鎌足/藤田進/上原美佐/志村喬/三好栄子/上田吉二郎/藤木悠/土屋嘉男/加藤武


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最愛の子(DVD)
2014年中国/香港 監督:ピーター・チャン 出演:ヴィッキー・チャオ/ホアン・ボー/トン・ダーウェイ/ハオ・レイ/チャン・イー/キティ・チャン


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フランス組曲(DVD)
2014年イギリス/フランス/ベルギー 監督/脚本:ソウル・ディブ 出演:ミシェル・ウィリアムズ/マティアス・スーナールツ/クリスティン・スコット・トーマス/サム・ライリー/マーゴット・ロビー/ルース・ウィルソン/ランベール・ウィルソン/トム・シリング


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「愛を積むひと」(DVD)
2015年 監督/脚本:朝原雄三 出演:佐藤浩市/樋口可南子/北川景子/野村周平/杉咲花/吉田羊/柄本明


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「生きる」(BSプレミアム)
年 監督:黒澤明 出演:志村喬/小田切みき/千秋実/藤原鎌足/金子信雄/左卜伝/田中春男/日守新一/中村伸郎/渡辺篤/伊藤雄之助/宮口精二/加東大介/菅井きん



読んだ本


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指の骨(高橋弘希 戦争小説)


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本格小説 上・下(水村美苗 現代小説)


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ロゴスの市(乙川優三郎 現代小説)


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物語の向こうに時代が見える(川本三郎 評論)


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高く手を振る日(黒井千次 現代小説)


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九十歳。何がめでたい(佐藤愛子 エッセイ)


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氷平線(桜木紫乃 短編小説集)


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「日が沈むのを」(野呂邦暢 短編小説集)


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ニッチを探して(島田雅彦 現代小説)


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「JR上野駅公園口」(柳美里 現代小説)


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活版印刷三日月堂 海からの手紙(ほしおさなえ 短編小説集)


hosibosi-s.jpg
星々たち(桜木紫乃 短編小説集)


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起終点駅(桜木紫乃 短編小説集)



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桜木紫乃「起終点駅」

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「かたちないもの」「海鳥の行方」「起終点駅」「スクラップ・ロード」「たたかいにやぶれて咲けよ」「潮風の家」の6篇の短編が収められている。
「海鳥の行方」と「たたかいにやぶれて咲けよ」は連作だが、他の4編はそれぞれ独立した短編になっている。
表題作「起終点駅」は先日観た映画の原作である。
読んでみるとラストが少し違っているだけで、ほぼ原作通りに映画化されていることが分かった。
映画を思い出しながら読んだ。

それ以外で印象に残ったのは、「たたかいにやぶれて咲けよ」と「潮風の家」の2編である。
「たたかいにやぶれて咲けよ」は道報新聞の記者、山岸里和が取材した歌人中田ミツについての話である。
「恋多き歌人」といわれ、全国的にも名が知られた82歳の歌人中田ミツが、特養老人ホームで余生を過ごしている。
そのことに興味を持った山岸里和はインタビューを申し込むが、こてんぱんにやりこめられ、記事にできないまま終わってしまう。
そのとき彼女から言われたのは「記事にするなら、わたしが死んでからになさい。」
その中田ミツが亡くなった。
知らせを受けた山岸里和は、追悼記事を書くために再び取材を始める。
その取材のなかで中田ミツの在りし日の姿が浮かび上がってくる。
ミステリーのような展開と中田ミツの特異な人物像が面白い。
そして彼女の人生を知ったことで、生き方に迷っていた山岸里和の胸に確かな覚悟が芽生えてくる。
題名は中田ミツの詠んだ「たたかいにやぶれて咲けよひまわりの種をやどしてをんなを歩く」という歌からとっている。

「潮風の家」は北海道西北部にある小さな漁村、天塩町を舞台にした物語。
30年ぶりに久保田千鶴子が故郷の天塩町に帰ってくる。
両親と弟の墓の永代供養をするためで、帰る家のない彼女が頼ったのは、亡くなった母親のたったひとりの友人、たみ子であった。
浜のあばら家にひとりで住むたみ子は85歳になる。
彼女は若い頃家族のために吉原で女郎として働いていたことがある。
家族の生活を支えるための身売りであったが、両親が亡くなった後、故郷に帰ってきた。
だが帰郷と同時に妹弟は町を出てしまい、<「赤線あがり」という言葉と彼女だけがこの町に残された>
いっぽう千鶴子が故郷を出たのは、弟が強盗殺人事件を犯し、拘留中に自殺をしたためであった。
その時たみ子は千鶴子に1万円を握らせ、すぐに町を出て行くようにと諭したのである。
そのまま町に留まると、自分と同じように千鶴子もまた蔑みと好奇の目に晒されると考えたからであった。
そして時間が流れ、30年ぶりにふたりは再会したのである。
千鶴子は故郷を出た後、水商売の世界で生きてきた。
そして2度の結婚にも失敗した。
そんな千鶴子にたみ子は言う。

「売れるもん売ってなぁにが悪い。ワシもお前のおっ母さんも、みんな同じだ。泥棒してきたわけでもねぇ。あるもん売ったんだべよ。金でなくたって、なんかもらったら同じだ。そんなことしたことねぇ女がどこの世界にいるってよ、千鶴子。体は壊さなけりゃ好きに使えや」

「ワシの父親は津軽からひとりで流れてきた漁師だったんだ。次男坊だから船もなくてよ。もう二度と故郷には戻らんつもりでこっちさ来たんだべ。ニシン場にくれば景気もええべと思ったらしいが、結局船のひとつも持てんかった。毎日必死で生きてても、人間どうにもならんことがある。ワシはそんなことを生まれながらに知ってたような気がする。だからワシらに身寄りがないこと、誰も気の毒がるひつようなんかねぇんだわ。みんな親兄弟捨ててきた人間の子や孫なんだからよ。」

「体はええよ、減らんもの。東京じゃええことなんかひとっつもなかったけど、田舎に戻って自分が送った金で家が建ってたのを見たときは、なんか誇らしく思えたな。ワシは吉原にいたときがいちばん親孝行できたんだ。この家と自分の過去を捨てたら、なんだかワシのたったひとつの孝行もなくなるような気がしてなんねぇのよ」

そして別れぎわに「これはお前が焼くなりなんなり、うまいこと処分してくれんべか」といって古ぼけた冊子を渡された。
それは『新吉原女子保険組合 機関紙 婦人新風』という冊子で、その文芸欄に、ひらがなしか読み書きできないたみ子の書いた「ニシン場の娘が吉原に売られて、朋輩から魚くさいと馬鹿にされている、といった内容から始まる」詩が掲載されていた。

だれもうらまず わらってはたらく
いもうと おとうとに あったかいめしをくわせ
かあちゃんに かくまきを
とうちゃんには あったかいくつしたを
かってあげるんだ
まいにち わらってはたらいているうちに
とうちゃんも かちゃんも しにました
わたしはもう にしんのにおいがしません

暗く悲惨な小説なのに、何でこうも桜木紫乃の小説に惹かれてしまうのか。
普通こうした種類の小説の場合、次第に読むのが辛くなるものだが、桜木紫乃の小説はそうではない。
逆にもっともっと読みたくなってくる。
このあともまた続けて読もうと、もうすでに図書館から何冊か借りて用意している。
まだしばらくは桜木紫乃の小説との付き合いが続くことになる。


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桜木紫乃「星々たち」

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連作短編集ではあるが、どの話も塚本千春という女性と彼女と関わりをもった人たちの物語になっている。
また同時に彼女の母親、そして娘と繋がる女三代の物語にもなっており、そういう意味では長編小説として読むこともできる。
なかなかユニークな構成である。

塚本千春の母親、咲子は奔放な女である。
娘の千春を実家に預けたまま、遠く離れた街で水商売の女として生きている。
そうした母親と娘の暮らしを描いているのが、冒頭の「ひとりワルツ」と「渚のひと」である。
そして続く「隠れ家」「月見坂」「逃げてきました」では、その後の千春の姿が描かれ、「冬向日葵」では咲子の最期の日々が描かれる。
さらに「トリコロール」「やや子」では千春の娘のやや子の人生が描かれていく。
結局三代の女たちは家庭という共通の場を持つことなく、離れ離れのまま生きていく。
千春もやや子もどちらも親に捨てられた子供である。
世間一般の常識からいえば、親の愛情を知らずに育った不幸な人たちということになる。
しかし、そんな常識とは無縁に、自分たちの人生をただただ愚直に生きていく。
どんな相手に対しても過剰な期待はしない。
傷つけ傷けられながらも、誰を恨むでもなく、嘆くでもない。
それはどこまでも堕ちてゆくしかない不器用な人生である。
だがそこには悲惨というだけではない力強さと温かさがある。
人とは何と脆いものか、そしてまた何と強いものであるか。
そうした脆さ強さが、抱きしめたいほど愛しく思えてくる。
桜木紫乃のうまさ、巧みさに心底唸らされたのである。

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ほしおさなえ「活版印刷三日月堂 海からの手紙」

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埼玉県川越市にある小さな活版印刷所「三日月堂」を訪れる様々な人たちの姿を描いた連作短編集である。
この「海からの手紙」は「星たちの栞」に続いて出された「活版印刷三日月堂」シリーズの第2弾になる。
主人公は二十代の女性、月野弓子、「三日月堂」という名の活版印刷所を、ひとりで切り盛りしている。
「三日月堂」は彼女の曽祖父が昭和初期に創業した印刷所で、それを祖父が継いで営んでいた。
だが5年前、祖父が亡くなると同時に店は閉じられてしまったのである。
それを孫の弓子が継ぐことを決心、再開1年目の出来事を書いたのが、「星たちの栞」である。
そして続く2年目の出来事を書いたのが、この「海からの手紙」である。
順番から行けば「星たちの栞」を先に読むべきところだが、図書館の予約の順番が「海からの手紙」のほうが先になり、順番が逆になってしまったのである。

「ちょうちょうの朗読会」「あわゆきのあと」「海からの手紙」「我らの西部劇」の4編が収められているが、どれも心温まるいい話ばかり。
おそらく若い女性を主なターゲットにしているのだろうが、自分のようなおじさんが読んでもウルッときてしまう。
泣かせのツボを心得ているのである。
読み終わった後は、誰かに無性に勧めたくなってしまう。

ところでこの小説を読んで、活版印刷についていろいろと勉強になった。
それぞれの話のなかで、活版印刷に興味を持った人たちが訪れて、案内状、名刺、豆本、本などが印刷されていくが、その過程で活版印刷独自の印刷方法や魅力が、懇切丁寧に説明されていく。
そして活版印刷の世界の向こうに、思いがけず豊かな世界が広がっていることに気づかされるのである。
そうした奥深い世界に触れることができたことも、この小説を読んでよかったことのひとつである。
近々「星たちの栞」のほうも読むつもりである。

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映画「フランス組曲」

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1940年、第二次世界大戦下のフランス。
ナチスによってパリが陥落、さらにその侵攻の鉾先は地方にも及び、フランス中部に位置する街ビュシーもナチスによって占拠される。
そこに住むヒロインのリュシルは、大地主の姑アンジェリ夫人とともにフランス軍の兵士として出兵した夫の帰りを待っている。
厳格で気難しく、小作人に対する態度も容赦のない姑との生活は陰鬱なものでしかない。
自分を押し殺しての毎日である。
その邸宅にナチの将校ブルーノが宿舎として住むことになる。
ブルーノは作曲家でピアニストである。
彼は夜ごとリュシルのピアノを弾くようになる。
微かに聴こえてくるその曲は、聴いたことのない曲であった。
その曲にリュシルの心が癒されていく。
やがてこの曲はブルーノが作曲した「フランス組曲」ということを彼から教えられる。
それがこの映画の題名である。

敵対する相手ということで一定の距離を置いていたリュシルだが、次第にブルーノに関心を覚えるようになっていく。
やがてそれが道ならぬ恋となっていくのである。
ふたりが愛し合うということは、同胞からすれば裏切り者ということになる。
先には悲劇だけしか見えない望みのない恋である。
それでも互いに惹かれてゆく姿が切なくもあり、スリリングでもある。
カーテン越しに相手の姿を見つめたり、ドアの隙間から隠れ見するようなショットが繰り返されるのは、そうした恋の危うさを表しているからである。

ヒロインのリュシルを演じるのは、ミシェル・ウィリアムズ。
けっして美人というわけではないが、控えめな中に意志の強さや情熱を秘めており魅力的。
穏やかなブルーノが惹かれるのがよく分かる。
そしてブルーノを演じるのがマティアス・スーナールツ。
以前観た「リリーのすべて」で、主人公の幼馴染の画商を演じていたのが印象に残った俳優であるが、ここでもまた新たな魅力を見せている。

この映画はアウシュビッツで亡くなったイレーヌ・ネミロフスキーの未完の小説を映画化したものである。
この小説は60年間開けられることのなかったトランクの中に眠っていたもので、それを彼女の娘が母親のためにと発表したものである。
そして出版されるや一躍ベストセラーとなった。
それを出版後10年を経て映画化されたのがこの作品である。
こうした事実はタイトルバックを見て初めて知ったことだが、それを知ることでこの映画がまた一段と深い彩りを帯びて見えてきた。

映画の中でパリから逃れてきたユダヤ人母子が出てくるが、おそらくこれがネミロフスキー母子なのだろうと思う。
ユダヤ人であることを隠していたが、最後は見つかり、収容所送りとなってしまう。
だが幼い娘だけは逃れることができ、アンジェリ夫人の邸にかくまわれることになる。
そうした添景として挟み込まれたエピソードが、この映画のさらなる悲劇性を高める要素になっている。


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映画「最愛の子」

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中国では毎年数多くの幼児誘拐事件が発生、大きな社会問題となっている。
背景にあるのは、1979年から始まった「一人っ子政策」である。
急激な人口増加を緩和するために中国政府が行った抑制策である。
この政策により、原則として子供は1人に制限され、違反した場合は罰金が科せられることになった。
そのため働き手や跡継ぎとなる男児の価値がよりいっそう高まり、養子をとるケースが増えていった。
その結果、非合法な人身売買市場が生まれ、誘拐事件が多発するようになったのである。
さらに幼児誘拐事件の裏には、現代中国が抱え持つ様々な問題が絡まっており、問題解決のためには多くの難問をクリアしなければならないという現実が大きく横たわっている。
その絡まった糸をひとつひとつ根気強く丁寧にほぐしていく様を、誘拐された親と、我が子として育てる母親の、両方の姿を通して浮き彫りにしていくのが、この映画である。
トップシーンに現れる裏路地の頭上で複雑に絡み合った電線は、これから始まる物語の複雑さを暗示している。
簡単にシロクロをつけられるといった問題ではない。
何が正義で何が悪か、判断に迷うことになる。
日本ではとうてい考えられないような深刻な社会問題が、ドキュメンタリーのようなリアルさで描かれていく。
近くて遠い現代中国、その複雑に歪んだ断面を真正面から切り取った力作に、時に言葉を失い、涙を誘われたのである。

監督は「あなたがいれば 金枝玉葉」「ラヴソング」といった90年代の香港映画で知られるベテラン、ピーター・チャン。
久々のこの映画で、いまだ健在というところを存分に見せてくれたのである。


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映画「起終点駅 ターミナル」

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桜木紫乃の小説、初の映画化作品である。
先日桜木紫乃の「氷平線」を読んだ後、彼女のことを調べているなかで、この映画の存在を知ったのである。
さっそく借りてきた。

主演は佐藤浩市。
ひとり暮しの初老の弁護士、鷲田完治を演じている。
20年前には新進の裁判官だったが、ある事情から裁判官をやめ、今は国選弁護しか引き受けない弁護士として、ひっそりと生きている。
そんな彼の元に弁護を担当した若い女性が、頼みごとと称して訪ねてくるが、仕事以外での人との関わり合いを極力さけようとする鷲田は、その依頼を受けようとはしない。
しかし心ならずも彼女と深く関わることとなり、そのことがきかけとなって新しい一歩を踏み出していこうとする。

舞台は桜木紫乃の地元である釧路。
その雪景色のなかに人生を早々と降りてしまった孤独な男として佐藤浩市が立つと、もうそれだけでふつふつと悲しみが滲み出してくる。
こういうシチュエーションで真っ先に思い出されるのは、高倉健である。
しかし彼がいない今、佐藤浩市はそれを表現できる数少ない俳優のひとりであろう。
そしてこの映画はまさに彼あってこその映画でもある。
罪の意識を抱え、まるで自分を罰するようにひたすら自分を抑えて生きる男のたたずまいを見ているだけで、胸が熱くなってくる。
映画としては、いくつか疑問を呈したくなる部分がなきにしもあらずだが、佐藤浩市の抑えた演技を味わえただけで大満足であった。


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島田雅彦「ニッチを探して」

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ニッチ(Niche)とは「隙間」や「くぼみ」のこと。
もともとは古代ローマ時代の建築で造られた、花瓶や彫刻などを置くためのくぼみのことであったが、現在ではビジネス用語として使われることが多い。
また生物の「生息域」という意味でも使われることがあり、そのことについて小説では次のように書いている。

<地球上には生物の多様な生息環境があり、それぞれの生息に適した場所を占める。その場所もしくは条件を「ニッチ」と呼ぶ。草原、山林、砂漠、海、地中、空などの諸環境の違いはもとより、寒冷地を好むか、熱帯を好むかの気象帯の違い、昼行性か、夜行性かの行動時間帯の違いによって、生物は棲み分けを行っている。>
そして
<生物界に起きることは人にも当てはまるし、多くの都市でも見られる。都市生活者たちは誰しも自分に適ったニッチを見出し、ハッピーに暮らしたがっているが、誰もが似たような欲望を追求し、同じような生活スタイルを求めるので、競争が激しい。しかし、多少好みをずらせば、まだまだ空きニッチはある。元のニッチを追い出された人も、新たなニッチに潜り込み、別種の生き物に変わり得る。たとえば、環境の変化や排除を受けた者は、移住したり、転職したり、出家したり、ドロップアウトしたり、リセットしたりして、別のニッチに進出しようとする。>

こうした前説の後、物語は始まる。

主人公は某銀行で副支店長をしている藤原道長。
彼がある日突然何の前触れもなく、家族や人々の前から姿を消してしまう。
銀行内で行われている不正融資にからんで、彼に容疑がかけられたことから、身を隠す必要に迫られたからだ。
そこから警察や銀行から逃れながらのホームレス生活が始まることになる。
そしてホームレス初心者の彼が、どのようにして自分なりの「ニッチ」を見い出していくかが描かれるのである。
そのプロセスには、路上生活の手引書といってもいいほどの詳しいノウハウが書かれている。
ひょっとすると作者自身が、こうした生活を実際に体験したのではと思えるほどリアルである。
同時にそこには路上生活者の視点から見た、東京という街の新たな魅力が蘊蓄を交えながら紹介されている。
そうした「ニッチ」探しにつき合うことで、主人公といっしょに様々なことを学んでいくことになる。
謂わば一種の街歩きの書でもある。

これを読みながら思い出したのは、子供の頃、夢中になって読んだロビンソンクルーソーの物語である。
知恵と勇気を振り絞り、無人島生活を生き延びていったロビンソンクルーソーの姿に重なるものを見たのである。
そしてその時に味わったのと同じようなスリルと面白さを、この小説でも味わったのである。
現代のロビンソンクルーソーは無人島ではなく、都市生活のなかで生きている。

ちなみにこの小説も、先日読んだ川本三郎の「物語の向こうに時代が見える」で知った小説である。


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桜の剪定枝の配布

今日から彼岸の入りである。
昨日から岩木山ではスカイラインの除雪が始まった。
また市内の多くの学校では卒業式も行われるなど、春の訪れを感じさせる話題が聞こえてくる。
今年は雪が多く、今でも積雪は66センチと平年の倍近い量だ。
それでも春は確実に近づいている。

そんななか今日弘前公園の桜の剪定枝の配布が行われた。
配布開始が8時半ということなので、少し早めに家を出て、8時には配布場所である緑の相談所に着いたが、もうすでに40人ほどが並んでいる。
その列に並んだが、そのあともつぎつぎと集まり、配布開始時間になると100人近い行列になっていた。

IMG_0167.jpg

待つこと数分で順番がやって来た。
配布はひとり3本までと決められている。
枝ぶりのいいのを選んで持ち帰った。

IMG_4403.jpg

さっそく花瓶に挿した。
蕾はまだまだ小さい。
それでも花が開くのは、公園の桜よりはかなり早い。
ひと足先に桜の花を楽しめる。
咲くのが今から待ち遠しい。



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桜木紫乃「氷平線」

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川本三郎の「物語の向こうに時代が見える」のなかで、

< 桜木紫乃の第一作品集「氷平線」をはじめて読んだ時の新鮮な驚き、感動は強いものがあった。北海道の寒々とした風景にも、確かに、子供の自分が見た風景とつながるものがあった。
 年齢から言って新しい作家のものを読むのはもう無理とあきらめていた時に、桜木紫乃の作品に出会って、現代の小説に引き戻された。 >

と書いており、この評論集のなかで彼女についての評論を3つも書いている。
他の作家はすべてひとつだけというなかにあって、これは異例のこと。
いかに彼女の作品に肩入れしているかが窺える。
桜木紫乃の小説は読んだことがないが、これを読むと興味を持たざるをえなくなる。
どこがそれほど惹きつけるのか、さっそく「氷平線」を読んでみた。

収録されているのは、「雪虫」「霧繭」「夏の稜線」「海に帰る」「水の棺」「氷平線」の6篇。
いずれも北海道オホーツク海沿いの町を舞台にした物語である。
釧路市生まれの作者にとっては地元である。
この短編集について、出版元である文芸春秋社の担当編集者は次のように書いている。

< 桜木作品の読みどころはふたつ。ひとつは、北海道の道東を舞台とし、普通の田舎町とは一味違う渇いた閉塞感を見事に描いていること。もうひとつは、北の大地の生活感あふれる性を描いていること。跡継ぎを作る重圧、ムラの男に身体を売って生活する女性、フィリピンから嫁として買われた少女、牧草の上での性行為など、『楢山節考』を髣髴させるような、陰々とした中にもある種の明るさと諦念が漂う北の大地の現実が活写されている。 >

さらに川本三郎は
< 寂れ、すたれてゆく町。しかし、桜木紫乃は決してその町を、そこに住む人々を見捨てない。彼らのいまをクールに距離を取りながら、しかし、あくまでも切実にとらえてゆく。「氷平線」「雪虫」「凍原」と寒々とした言葉がこの作家を通して身近に思えてくる。 >

そして
< 主人公の多くは格差社会の現代の片隅に生きている。華やかな表通りから一歩奥に入った裏通りでひっそりと生きている。桜木紫乃はそうした人間たちこそを主人公にする。 >

印象に残ったのは冒頭の「雪虫」。
これがデビュー作であり、オール讀物新人賞受賞作でもある。
嫁の来てのない息子のためにと、父親が強引に話を進め、やって来たフィリピン人の18歳の少女。
今は人妻となっている幼馴染の恋人との束の間の逢瀬を続けている男にとって、強引にお膳立てされただけのフィリピン人妻の存在は煩わしいだけである。
いつまでも無視し続けるが、生きるために買われてきた中学生のようなフィリピーナの嫁マリーと暮らすうち、「自分しか頼る人間のいない場所で、少女が不幸になるのだけは嫌だと思った。」
そして「出来る限りマリーが幸福であることを祈」るようになってゆく。
逃れようがなく先の見通せない生活のなかで、次第に少女に心を寄せるようになる姿が、確かな表現によって刻み込まれてゆく。
切ない中にも人と人との出会いや結びつきの不思議さ、やるせなさを、しみじみと感じた。
そして川本三郎が惹かれる理由の一端を、少しだけ垣間見ることができたような気がしたのである。


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佐藤愛子「九十歳。何がめでたい」

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大正12年生まれ、九十歳を越えた作家、佐藤愛子が書いたベストセラー。
図書館で予約したのがいつだったか、忘れてしまうほど長く待たされたが、ようやく順番がまわってきて借りることができた。

女性セブンに連載されたエッセイをまとめたものである。
2014年に始まった連載だが、、当時彼女は作家生活の集大成として長編小説『晩鐘』を書き上げたばかりで、これを最後に筆を断ち、のんびりと生活しようとしたところ。
「書くべきことは書きつくして、もう空っぽになりました。作家としての私は、これで幕が下りた」という心境であった。
ところがその「のんびりとした生活」のせいで、やることがなくなると、とたんに老人性ウツ病のような状態になってしまった。
そんなとき、この連載の依頼が舞い込んだのである。
そして
<この秋には九十三歳になる私には、もうひとに勇気を与える力はなくなりました。なくなった力をふるい起すために、しばしば私はヤケクソにならなければなりませんでした。ヤケクソの力で連載はつづき、そのおかげで、脳細胞の錆はいくらか削れてなくなりかけていた力が戻って来たと思います。人間は「のんびりしよう」なんて考えてはダメだということが、九十歳を過ぎてよくわかりました。>
という結論に至ったのである。

ヤケクソで書いたエッセイは怒りや嘆き、毒舌のオンパレード。
少々八つ当たり気味のところがなきにしもあらずだが、一本筋が通っているだけに思わず納得、艱難辛苦を乗り越え、満身創痍の人生を生きてきた人ならではの強さである。
そうしたヤケクソぶりは、本書の題名を見れば一目瞭然。
いかにも佐藤愛子らしい意表を突く題名である。
このインパクトのある題名にひかれて、本書を手に取った人も多いのではなかろうか。
この題名は連載が始まったとき、すでに考えていたそうで、本書の最初のエッセイ「こみ上げる憤怒の孤独」のなかでも、
<「九十といえば卒寿というんですか。まあ!(感きわまった感嘆詞)おめでとうございます。白寿を目ざしてどうか頑張って下さいませ」満面の笑みと共にそんな挨拶をされると、「はあ・・・・ありがとうございます・・・・」これも浮世の義理、と思ってそう答えはするけれど内心は、「卒寿?ナニがめでてえ!」と思っている。>
と書いている。
始まりから、もうすでに愛子節炸裂である。
しかし、そうはいってもそこはやはり九十歳。
最後は
<讀者の皆さま、有難う。ここで休ませていただくのは、闘うべき矢玉(やだま)が盡(つ)きたからです。決してのんびりしたいからではありませんよ。>
となる。
それでいてそれが弱音を吐いたようには聞こえない。
まだまだ余力を残しているように感じるのは、やはり佐藤愛子という作家の魅力ゆえのことであろうと思う。


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黒井千次「高く手を振る日」

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先日読んだ川本三郎の「物語の向こうに時代が見える」のなかでとりあげられていた小説である。
そのなかで <この小説の主人公、嶺村浩平は七十代。大学時代、ゼミが同じだった女性と何十年ぶりかで再会し、恋らしきものをするが、結局は・・・・と老いの悲しみがにじみ出た小説になっている。といって決して湿っぽくはない。自分の老いを客観視しようという適度の距離感があり、それが軽いユーモアを生むし、ゆとりも感じさせる。>と書かれた一文にひかれて読んでみた。

ほのぼのとした小説である。
「老いらくの恋」ではあるが、ある部分では青春真っ只中の少年の恋となんら変わるところがない。
ときめきや恥じらい、狼狽や戸惑い、逸る心がある。
瑞々しい。
恋に年齢は関係ないということだ。
それでもやはりそこには老いた者としての慎みがある。
自分の正直な気持ちを抑え込もうとする力が働いている。
いっぽう、それに抗おうとするもうひとりの自分がいる。
そうした揺れる気持ちを、川本三郎は<「まだ若い」と「もう若くない」のあいだ>と書いている。
そしてそんな心の動きが、老いの独居生活のなかで感じる「行き止まり」感に風穴をあける力にもなっている。
娘がケイタイを持つことをしきりに勧めても頑なに拒んでいたのに、重子(恋の相手)に勧められるとそれまでの態度を変え、すぐにケイタイを使い始めるというのもその表れである。
新しい世界へと一歩を踏み出していく。
するとその先に思いがけない風景が広がっている。
古ぼけた日常が、俄然輝いたものに見えてくる。
だがその輝きは、まさに一瞬のものでしかない。
そのことは誰よりも主人公自身がよく判っている。
そしてその予感通りの結末を迎えることになるが、そこに悲しみはなく、「行き止まり」ではない日々が始まる気配を残して物語は終わる。

主人公はある日散歩の途中で、道に落ちていた葡萄の枝を拾う。
持ち帰って試しにコップの水に浸けていたところ、新しい枝が伸び始める。
さらにそれを庭に移植する。
大して期待もせずにいたが、次第にその葡萄の木のことが心の中で大きな位置を占めるようになっていく。
そうした何気ないエピソードを挟みこむことで、老いの日々の描写に淡い色どりと変化を与えており、これからの生活も暗示させている。

人生の最晩年に思いがけず訪れた心泡立つ日々、それが抑えた筆致で淡々と描かれて、静かな感動がある。

黒井千次には「老いのかたち」「老いの味わい」をはじめとした「老い」に関するエッセイや小説が数多くあるようだ。
これをきっかけに次はそうしたものも読んでみようかなと思っている。


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Tags: 川本三郎  エッセイ・評論  

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川本三郎「物語の向こうに時代が見える」

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川本三郎のおそらく最新の単行本であろうと思う。
図書館で予約しておいたが、短期間で借りることができた。
どちらかといえば地味な部類に属するこうした評論集は、新刊であってもあまり待たずに借りることができるのでありがたい。

今回の評論は映画ではなく、文芸評論である。
題名からも判るように、小説のなかから今という時代を読み解こうとするものだ。
とりあげた小説は24編、いずれも読み巧者である川本の目にかなった作家ばかりだが、そのなかに乙川優三郎、角田光代、車谷長吉、佐藤泰志、水村美苗といった好きな作家の名前があるのがうれしい。
なかでも先日読んだばかりの乙川優三郎と水村美苗がとりあげられているのが、偶然とはいえ格別うれしい。
その評論が身近なものとして頭に入ってくる。
逆に知らない作家や馴染のない作家のものは、興味深く、いちど読んでみたいと思うようになってくる。
ちなみに知らない作家のなかに平岡敏夫という人がいる。
香川県仲多度郡広島村(現丸亀市)生まれである。
広島というのは瀬戸内海に浮かぶ塩飽諸島のひとつ。
同じ郷土出身者にこういう人がいることを初めて知った。
これもこの本を読んだ収穫のひとつ。
こういうところにまで目が行き届いているのである。
改めて守備範囲の広さを認識させられた。
そしていつもながら巧みな読み解きに、唸らせられ、何度も頷きながら読み進んでいった。

たとえばそれは<自分の故郷、土地、場所を持っている作家は強い。その町を文学の生まれるところと思い定めて、静かに町に暮らし、作品を生み出していく。>といった書き出しではじまる「『鳥たちの河口』とミステリと」と題された野呂邦暢論の次のような文章。

<諫早に住んだからといって野呂邦暢は、郷土作家とは少し違う。代々、そこに根を下ろしていたわけではないし、土地の人間と濃い関係を作ろうとしたわけではない。当初は、経済的事情さえ許せば東京に出たいという気持ちもあったようだ。
 それが次第に諫早に落ち着くようになった。町の中心を本明川が流れ、それが有明海へと注ぐ。河口には茫漠たる干潟が広がる。その町の風景に心惹かれていった。
 土着の作家とは違う。いわば他所者である。他人の目で町を見る。第三者の視点で町の風景を見る。観察する。野呂邦暢は諫早の町にあっていつもアウトサイダーの位置に自分を置いた。他所者として生きる。そこから見えてくる風景を心にとめてゆく。そこに野呂邦暢の新しさ、面白さがあった。>

いかにも川本三郎好みの作家である。
こういう表現を読んでいるだけで、ドキドキと心拍数が上がってくる。
ぜひその小説を読んでみたいという気持ちにさせられる。
そしてそれを読んだ後、もういちどこの本を読み返してみようと思うのである。
いい本に巡り合えた。


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映画「バクマン」

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かつてマンガ少年だった。
小学生の頃の愛読書は月刊マンガ雑誌「少年」。
その他にも「少年クラブ」「冒険王」「少年画報」「少年ブック」「ぼくら」といった月刊誌があり、手塚治虫をはじめ横山光輝、竹内つなよし、桑田次郎、関谷ひさし、ちばてつや、石ノ森章太郎といった漫画家たちのマンガを夢中になって読んでいた。
やがて月刊誌は衰退をはじめ、それに代わって登場したのが、「週刊少年サンデー」と「週刊少年マガジン」。
昭和34年(1959年)のことである。
またそれらの陰でひっそりと存在していたのが貸本マンガ。
そこで出会った白土三平、さいとうたかお、小島剛夕、辰巳ヨシヒロ、池上遼一、平田弘史といった漫画家たち。
ちなみに「劇画」という言葉はこの貸本マンガから生まれたものだ。
そしてその貸本マンガが、後の「ガロ」へと引き継がれていく。
60年代、70年代のことである。
そこまでが自分のマンガとの付き合いである。
以後あまり読むこともなく、今に至っている。
そういうわけで現在のマンガ界の状況やマンガについての知識はなく、まったくの門外漢である。

そこでこの映画である。
舞台になるのは、週刊少年ジャンプの編集部である。
少年ジャンプの創刊は1968年。
「少年サンデー」や「少年マガジン」に遅れて創刊されたが、次第に部数を伸ばし、やがて600万部を超えるほどの雑誌に育っていった。
当然のことながらこの雑誌に馴染はない。
調べたところその特徴は、次のようなもの。
対象とする主な読者層は、小学校高学年から高校生。
キーワードは「友情」「努力」「勝利」。
掲載するすべての作品に、このテーマに繋がるものを、必ずひとつ入れることが編集方針になっている。
またもうひとつの大きな特徴としては、「アンケート至上主義」がある。
読者から寄せられるアンケートを最重要視しており、それを参考に編集の方針を決めていく。
そしてアンケートの人気投票の結果が悪ければ、即打ち切りということを大前提としている。
当然激しい生存競争が毎週のように繰り広げられるわけで、映画でもそれがストーリーの大きな柱になっている。
その弱肉強食の洗礼を浴びながら、マンガ家の世界に足を踏み入れた高校生ふたりが必死になって頂点を目指そうとする姿が、コミカルかつ熱気あふれるスタイルで描かれていく。
これまでにも「トキワ壮の青春」や「黄色い涙」といったマンガ家を主人公にした映画はいくつかあったが、そのどれとも違って、様々な映像を駆使することで動きのあるダイナミックなエンターテインメントとなっており、大いに楽しませてくれる。
またマンガが出来上がるまでのプロセスや、業界内部の仕事の仕組みといったバックグラウンドも、かつてのマンガ少年としては興味津々であった。

監督は大根仁(ひとし)。
「モテキ」で見せた切れの良さが、ここでも如何なく発揮されている。
実はこの映画を観たのは、監督が大根仁ということが決め手であったが、その選択に間違いはなかった。
また俳優陣も適役ぞろい。
主役ふたりの高校生役の佐藤健と神木隆之介をはじめ、ライバル役の染谷将太、さらには桐谷健太、新井浩文、皆川猿時といったマンガ家たち。
また佐藤健のおじさんでマンガ家が宮藤官九郎、ジャンプの編集者が山田孝之と編集長がリリー・フランキー。
そして紅一点のマドンナ役が小松菜奈。
こうして並べてみると芝居上手な旬な役者ばかりである。
適材適所で生き生きと演じているのが伝わってくる。
やはりいい映画の俳優は輝いて見える。


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乙川優三郎「ロゴスの市」

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脊梁山脈」「トワイライト・シャッフル」「太陽は気を失う」に続く乙川優三郎の現代小説である。
昭和55年、大学で出会ったふたりの男女「成川弘之と戒能(かいの)悠子」が、ともに翻訳家と同時通訳者として言葉の世界で生きていくことになる。
そしてお互いに刺激し高め合いながら、それぞれの世界で着実に実績を積んでいく。
いずれふたりは一緒になるのだろうとの予感があったが、なぜか彼女は突然別の男と結婚してしまい、ふたりの関係は途絶えてしまう。
残された男もまた別な女性と結婚し家庭をもつことになるが、数年後、再び彼の前に現れ、また以前のような関係を取り戻すことになる。
言ってみれば不倫だが、そこに見られるのは、背徳の匂いやどす黒い欲望や葛藤といったものではなく、ともに言葉の海に漕ぎ出した者同士ならではの連帯感のようなものである。
それはこの小説が男女の恋愛よりも、言葉の海に漂うふたりの、言葉との懸命で真摯な格闘を主に描いているからだ。
そしてそうした言葉との取り組み方は、また作者自身の姿でもあるのだろう。
研ぎ澄まされた言葉が、どのように生み出されていくのか、そんな作者の内側を覗き見させてくれる面白さも味えるのである。
たとえば次のような描写からそれは窺える。

<彼は食料を買い溜めし、気晴らしの散歩と風呂と食事以外の時間は書斎に籠るようになっていった。一冊の短編集のために辞書と資料とで変貌したアパートの一室は新生の場でもあった。寝ても覚めてもサラの文章に揺すられ、顔を上げる日が続くと、作家の冷徹な目に自分までもが見られているような錯覚を起こすことがある。
「化け物め、この文章で何が言いたい。」
 夜更けに壁を仰いでいると、やがて日本語の言葉が救ってくれる。学んだ記憶のない言葉をなぜ知っているのかと思うことがよくあり、それが母語というものだと気づいた。そういう何気ない言葉によって、直訳では味も素っ気もない文章が同じ意味でありながら柔らかく生きてくるのであった。>

<変化のない一日を繰り返すうちに彼は変化のないことにも鈍感になって、ひたすら翻訳という作業におぼれた。必要な刺激は訳している小説世界の中にあって、飽きるということがない。悩まされた挙句、平凡な表現に落ち着くこともあるが、まれに生まれる芸術的な訳文は静かな驚喜と充足をもたらした。その一瞬を求めて翻訳家は闘うのかもしれない。>

<走り過ぎて躓くと、顔を上げて、英語の空想に日本語の石を投げてみる。石が消えなければ彼女の小説世界にふさわしい言葉となって落ち着く。空想が過ぎて、自分の訳文を反訳しても彼女の英文に還るような不可能を夢見ることもあった。
 ひとつの描写、ひとつの表現に数十通りの和訳を用意しながら、どれひとつ嵌らないことがある。変幻自在な日本語が英語に負けることなど考えられないが、作家によって絞り出された英文も魔物なのであった。恐ろしく長い時間を費やし、言葉の泉もつきてぼんやりするときが翻訳家にはあって、この無意味な休息のあとに前触れもなく覚醒する。どうしても思いつかなかった言葉がどこからかやってきて、重たい瞼の上に下りるのであった。>

また翻訳の担当者である原田が口にする次のような言葉。

「一章にひとつ、原文の意味を違えずに美しい言葉の欠けらでも組み込めたら上出来と言っていい、優秀な翻訳家はオリジナルを意識しながら、どこかで勝とうとする、そして大抵は負ける、当然だろう、原作者とは遣う言葉が違うのだから、しかしまた闘う、勝てる見込みなどないのに闘って、何とか引き分けに持ち込む、連戦連敗よりはましだし、そのうち奇跡のような名訳が生まれる」

「苦しくてもよい仕事をすることだ、その積み重ねがいずれ生活も精神も鍛える」

さらに文章修行のなかで何人かの作家の小説が採り上げられているのも興味深い。
向田邦子、芝木好子、スタインベック、ヘミングウエイ、そしてインド系アメリカ人のジュンパ・ラヒリといった人たちである。
なかでも向田邦子は悠子が好きな作家となっており、向田邦子が飛行機事故で亡くなったニュースを聞いてショックを受ける場面が出てくるが、そのことが後の出来事の伏線にもなっている。
さらに芝木好子の「隅田川暮色」は、弘之がスランプに陥った時、図書館で何気なく手に取って出会った小説である。
それに導かれて芝木好子の小説を次々とむさぼり読む。
そして「性根を据えて自分の日本語を磨くことに集中したい」と考えるようになる。
芝木好子の小説が読みたくなった。

ところでこの小説の題名「ロゴスの市」とは何か。
それは主人公、弘之が翻訳修行のためにアメリカ、ヨーロッパと旅した際、ドイツのフランクフルトで行われた世界最大規模のブック・フェアのことである。
三日間開催されるこのブック・フェアには7千もの業者が集まり、世界中から15万人以上の人が訪れる。
そこで主人公は原田とともに翻訳するに足る小説の原石を見つけようとする。
さらに数年後、悠子を伴って再度訪れ、ふたりして「ロゴスの世界」に心ゆくまで浸るのである。

この小説によって、乙川文学がさらなる高みへとのぼったことを感じた。
そして乙川優三郎はひとつのことを地道に追い求める一途な生き方をする人たちを、ひたすら描き続ける作家なのだということを、また改めて思ったのである。


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水村美苗「本格小説 上・下」

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「私小説 from left to right」に続いて読んだ、水村美苗の小説「本格小説」。
それにしても何という題名だろう。
「私小説」に続いて「本格小説」とは。
なるほど今回の小説は、確かに本格的な小説というのに相応しい内容の小説である。
エミリー・ブロンテの「嵐が丘」を戦後の日本に置き換えて書いたといわれるだけあって、いかにも劇的な展開を見せる小説になっている。
波乱の人生を生きる「東太郎」なる人物が「嵐が丘」のヒースクリフであり、彼とともに幼少期を過ごし、後に恋愛関係に陥ることになる「よう子」はキャサリンである。
そして「よう子」の夫である「重光家」の「雅之」が、エドガーということになる。
そこによう子の一族である「三枝家」の三姉妹や、三姉妹のひとり夏絵の嫁ぎ先「宇田川家」の人々が絡んで物語が展開していく。
終戦直後から高度成長、バブル、そしてバブル崩壊へと至る時代が背景となっており、そのなかでそれぞれの栄光や没落が語られていくことになるのだが、その語り手となるのが作者、水村美苗自身と「宇田川家」の女中「土屋富美子」、そして作者がこの物語を書くきっかけを作ることになった出版社の編集人である青年・祐介の3人である。
まず導入部で語られるのが、「私小説 from left to right」で書かれたアメリカでの生活のなかに突然現れた若き日の「東太郎」の話である。
彼は当初は知り合いのアメリカ人に雇われたお抱え運転手であったが、事情があって父親の勤める会社に現地採用されることになる。
そこで見る間に頭角を現し、目まぐるしい出世を遂げることになる。
そしてついには伝説的な大富豪へとのし上がっていくのである。
彼には複雑な過去が隠されているようだが、それは謎のまま作者の前から姿を消す。
これが導入部。
そして何年かが過ぎ、出版社の編集者が作者の前に現れ、偶然のきっかけから女中の土屋富美子と東太郎と知り合った経緯を話し出したことから物語は動き始める。
さらにその語り手が女中の富美子へと引き継がれ、過去へと遡っていくことで、東太郎の過酷な少年時代とそれに関わることになった大勢の人々の全貌が明らかになっていくのである。
なるほど「本格小説」の名にふさわしい骨太なドラマである。
ピカレスク・ロマンを思わせる東太郎の出世物語であり、彼とよう子の悲恋物語である。
そして「三枝家」「宇田川家」「重光家」といった昭和の上流階級の栄光と没落の物語でもあり、それに重ねた日本の戦後史でもある。
しかし読み進めていくうちに、ひょっとするとこれはそうした物語を背景に、土屋富美子という女性の半生を描こうとしたのではないかと思うようになった。
そうした多くの要素をもったこの「本格小説」のどの部分に惹かれるかによって、この小説は異なった表情を見せるのである。
時間を忘れて読み耽った。
そしてこのような小説を書いた水村美苗という作家に対して、ますます深い関心を持つようになったのである。


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映画「愛する人」

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原題は『Mother and Child』、2009年製作のアメリカ映画である。
その原題が示すように若くして娘を産んだ母親と、生まれてすぐに養女に出された娘の37年後を描いた映画である。
但しそれを単純な母子再会の話にしないところが、この映画の優れたところ。
老母の介護をしながら暮らす母親と、優秀な弁護士としてキャリアを重ねる娘の今に重ねて、養子を希望する若い黒人夫婦のエピソードを描くことで、さらに物語に深みと厚みをもたらしている。
こうした一見無関係とも思えるエピソードを積み重ねながら物語を進めていく描き方、はロバート・アルトマンの映画などによく見られるものだ。
また新しいところではアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の「21グラム」や「バベル」といった映画も、こうした手法で撮られている。
そんなことを考えながら、何気なくこの映画のスタッフの顔ぶれをみていると、なんとそこにアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の名前があるではないか。
製作総指揮となっている。
なるほどこの映画に深く関わっているわけだ。
そうやって考えてみると、娘役を演じたナオミ・ワッツは「21グラム」でも主役を演じており、イニャリトゥ監督とは深い関わりのある女優である。
そんな繋がりも見えてきて、ますます興味深い。
対して母親役を演じるのは、アネット・ベニング。
年老いた母親の介護に追われるなか、生活に疲れ、他人の好意や親切を素直に受け入れようとはしない頑なな中年女性を好演、ナオミ・ワッツとともに女の強さとその裏に隠された孤独や弱さを絶妙に演じている。
監督はロドリゴ・ガルシア。
父親はあのノーベル賞作家ガルシア・マルケス。
コロンビア生まれであるが、育ったのはメキシコ。
こちらもメキシコ出身のイニャリトゥ監督とは関わりが深い。
さらにそこに「ゼロ・グラビティ」のアルフォンソ・キュアロンや「パンズ・ラビリンス」「パシフィック・リム」のギレルモ・デル・トロ、そして撮影監督のエマニュエル・ルベツキと並べていくと、ここ最近のハリウッドでのラテン・アメリカ出身者の活躍にはめざましいものがある。
そうやって考えているうちに、メキシコとの国境沿いに壁を作るというトランプ大統領の政策が、そうした流れを阻害することにならなければいいがと、そんなところまで考えが飛躍してしまったのである。


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高橋弘希「指の骨」

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三十代の新鋭が書いた戦争文学ということで話題になった小説である。
著者の高橋弘希は1979年12月8日青森県十和田市生まれ。
2014年にこの小説で、第46回新潮新人賞を受賞。
また同作で第152回芥川賞候補、第28回三島賞候補となっている。

戦争文学といえば、ほとんどが戦争経験者の書いたものというのが通り相場だが、これは戦争をまったく知らない世代が書いた戦争文学。
そんな人間に果たして戦争が書けるのだろうかとの疑問が湧くが、考えてみれば小説というものは必ずしも本人が経験したものばかりが書かれるわけではない。
自分が経験したことのないものでも、綿密なリサーチを重ね、それを手がかりに想像力を働かせることでどんな世界でも書くことができる。
そう考えると、戦争と無縁の若い世代が書いたとしても不自然と云うことにはならない。
実際この小説を書くに当たって、作者はかなり綿密な下調べを行っていることが窺える。
そこから作り上げた戦争小説である。

時代は敗色濃い戦争末期、「赤道のやや下に浮かぶ、巨大な島。その島から南東に伸びる細長い半島」が舞台である。
戦場でケガを負った主人公が、ジャングルにある野戦病院に送り込まれる。
そこで過ごす日々が淡々と描かれていく。
華々しい戦闘場面などは出てこない。
しかしそこには常に死が身近にある。
薬品もなく、十分な治療も受けられず、兵士たちはつぎつぎとあっけなく死んでいく。
そして兵士が死ねば、衛生兵が現れて、遺骨として兵士の指を切り落としていく。
それがこの小説の題名の由来である。
明日は我が身といった悲惨な日常が続いていくが、しかしそんななかでも、ふと戦争や死を忘れてしまうような時間が訪れることもある。
そうした描写が抑えた筆致で書かれているだけに、戦争の現実が生々しいものとして迫ってくる。

この小説を読みながら思い出したのは、やはり大岡昇平の「野火」であった。
おそらく誰もがそれを連想するにちがいない。
そして作者もそれを意識しながら書いたのではなかろうか。
昨年、塚本晋也監督の映画「野火」と、市川崑監督の映画「野火」の両方を観たばかりで、その鮮烈な映像が記憶に残っていただけに、よりリアルなものとしてこの小説を読むことができた。


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Author:cooldaddy
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出身地:香川県
年齢:今年(2008年)還暦です。
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還暦という節目を迎え、何か新しいことを始めようとブログを開設しました。
趣味のこと、生活のこと、心に残ったことなど、My Favorite thingsを、気ままに書いていこうと思います。
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