風に吹かれて

My Life & My Favorite things

Category: 月別観た映画と読んだ本

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今月観た映画と読んだ本(2016年2月)

観た映画


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「レフト・ビハインド」
2013年アメリカ 監督:ヴィク・アームストロング 出演:ニコラス・ケイジ/チャド・マイケル・マーレイ/キャシー・トムソン/ニッキー・ウィーラン/リー・トンプソン/マーティン・クレバ/ウィリアム・ラグズデール


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「ロング・キス・グッドナイト」
1996年アメリカ 監督:レニー・ハーリン 出演:ジーナ・デイヴィス/サミュエル・L・ジャクソン/パトリック・マラハイド/クレイグ・ビアーゴ/ブライアン・コックス/ブライアン・コックス


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「罪の手ざわり」
2013年中国/日本 監督/脚本:ジャ・ジャンクー 出演:チャオ・タオ/チアン・ウー/ワン・バオキアン/ルオ・ランシャン


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「冬の華」
1978年 監督:降旗康男 出演:高倉健/田中邦衛/三浦洋一/池上季実子/藤田進/北大路欣也/夏八木勲/小池朝雄/峰岸徹/小林稔侍/寺田農/小沢昭一/倍賞美津子/天津敏/山本麟一/小林亜星/大滝秀治/池部良


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「5デイズ」
2011年アメリカ 監督:レニー・ハーリン 出演:ルパート・フレンド/エマニュエル・シュリーキー/リチャード・コイル/ヘザー・グラハム/ジョナサン・シェック/アンディ・ガルシア/バル・キルマー


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おとなのけんか
2011年フランス/ドイツ/ポーランド 監督/脚本:ロマン・ポランスキー 出演:ジョディ・フォスター/ケイト・ウィンスレット/クリストフ・ヴァルツ/ジョン・C・ライリー


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「スパルタカス」
1960年アメリカ 監督:スタンリー・キューブリック 出演:カーク・ダグラス/ローレンス・オリヴィエ/ジーン・シモンズ/トニー・カーティス/チャールズ・ロートン/ピーター・ユスティノフ



読んだ本



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スプートニクの恋人(村上春樹 現代小説)


afterdark-s.jpg
アフターダーク(村上春樹 現代小説)


kaminokodomo-s.jpg
神の子どもたちはみな踊る(村上春樹 短編小説)


tokyokitan-s.jpg
東京奇譚集(村上春樹 短編小説)


alex-s.jpg
その女アレックス(ピエール・ルメートル  ミステリー)


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Category: 愛犬

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ロシェルの最期

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愛犬ロシェルが息を引き取った。
2月22日午前2時のことである。
そのことはFacebookにも書いたが、思いがけず大勢の人たちから励ましの言葉をいただいた。
有難いことである。
更新も途絶えがちで、あまり熱心なFacebook愛好者というわけではないが、こういう時にはFacebookをやっていてよかったとつくづく思う。
改めてお礼を言いたいと思います。
ほんとうにありがとうございました。
そこでこのことを忘れないように、ブログにも書いておくことにした。

ロシェルは2005年4月18日に、黒石市の「ル・グレ」というレストランのオーナーの元で生まれた。
ラブラドール・リトリバーのオスである。
名前は、オーナーの家にホームステイしていたフランス人学生の出身地から採ったもの。
調べてみるとフランス西部の、ポワトゥー=シャラント地域圏の都市で、シャラント=マリティーム県の県庁所在地となっている。
西海岸最大の漁港であり、また重要な貿易港でもある。
どういう経緯でこの名前をつけたのかは定かではないが、なかなか珍しい名前である。
名前を聞かれて答えると、大概の人は一度だけでは覚えられず、「え?らしぇる?」とか「ろし・・え?!」とか「・・・・」とか、その都度相手が面食らったものだが、それも今となっては楽しい思い出のひとつである。
そのロシェルが満1才の時に、レストランのオーナーから譲り受けたのである。
その半年前、わが家で飼っていたラブラドール・リトリバーが亡くなった。
そのことを何気なく話したことがきっかけで、オーナー夫妻から譲ってもいいという話を戴いたのである。
有難い申し出に、ペット・ロス状態から抜け出せていなかった家内は、一も二もなく飛びついたが、飼うことの大変さを考えると二の足を踏むばかりであった。
強硬に反対はしたものの、結局は家内の強引さに押し切られ、また彼女の気持ちが少しでも癒されるのならと、同意することにしたのである。
しかしそうはいっても、いったん飼うとなるとやはり情が湧いてくるのは、自然の流れというもの。
あっという間にロシェルは、わが家の一員となってしまったのである。
それはまるで最初からわが家の一員であったかのような素早さであった。
そうなると、ロシェルはわが家に来るべくしてやって来た犬なんだと、都合よく解釈するようなぐあいであった。
性格は穏やかでフレンドリー、そして少しばかり怖がりなところがあった。
しかし大きな病気をすることもなく、これといって手を煩わされることもなかった。
そうやって過ごした穏やかな10年間であった。

前に飼っていたラブラドールは、14歳まで生きた。
そうしたこともあって、当然この子もそれ位までは元気でいるのだろうと、勝手に考えていた。
ところが昨年末に急に体調を崩し、正月が明けるのを待ちかねて病院に行ったところ、腎不全という診断を下されたのである。
さらに検査した数値から考えると、いつ死んでもおかしくない状態なのだと告げられたのである。
まさに青天の霹靂であった。
そんなに悪いのだ、これはもう覚悟を決めるしかない。
後は出来るだけ穏やかに最期を迎えられるよう願うしかないと自分自身に言い聞かせるだけであった。

医者から指示されたのは、皮下輸液と腎臓サポート用のドライフードに変えるというふたつの治療法であった。
皮下輸液というのは、背中に針を刺し、それに繋げたチューブから輸液を体内に注入するというもので、点滴のようなもの。
犬猫の治療では比較的よく使われる治療法のようで、腎不全の場合は主に水分補給のために行うのだという。
当初は通院してやっていたが、やがてやり方を教わり、自宅で自分たちでやるようになった。
そうした治療の効果が現れたようで、一時は元気を取り戻したが、それでもやはり1か月半が限度であった。
死ぬ4、5日前くらいからは、もう何も口にすることができなくなってしまった。
そして2月22日の夜中に、とうとう力尽き、息を引き取ってしまったのである。
最期を看取ったのは家内であった。
前のラブラドールは我々が眠っている夜中に、誰にも看取られず孤独に息を引き取った。
そのことが彼女には悔やまれてならなかったようで、今回は必ず自分が看取ってやるのだという強い思いをもっていたようだ。
そして念願が叶い、そうすることができたのである。
息を引き取った後、彼女は娘に伝えるためにメールを送った。
それを読むとロシェルの最期の様子がよく分かる。
ここにそのメールを書き写しておくことにした。
次のような文面である。


ロシェルは夜中2時に息をひきとりました。
夕べはママも10時に寝て12時に目が覚めました。
ロシェルの息づかいが荒く、大きなイビキでもかいてるみたいで、でも起きてみたら、なんとなく今までと様子が違うので、もうママも服に着替えてずーっと首のところ撫でてた。
何回も茶色の液体吐いて、とても苦しそうにママの膝に顔を載せようとして、多分朝までには逝くかもしれないと思った。
ママは、この子は優しい子で何も悪い事してないんだから、お願いですから苦しめないでくださいって摩りながら祈ってた。
2時に大量にまた茶色の液体を吐いて、もうのたうちまわる感じで、本当に辛かった。
そして痙攣が始まった。
手足を突っ張らせて尻尾を床にトントン叩きつけて、その後カクンカクンと痙攣した。
でも全然怖くなかったよ。
これでやっと死ねるんだと思ってホッとした。
吐いた液体でアゴとか手とか汚れたから、お湯で綺麗に拭いて、それからパパを起こした。
全然涙出なかった。
ロシェルと供に闘った感じで、良かったと思う感じです。
きっと後から来るのかも。
用意してた白いタオルケットにくるんで、今はリビングの方で何時もの優しい顔でまるで眠ってる様です。
なんか興奮してママは眠れそうにありません。


死んだ後、これを見せられ読んだ時には泣かなかったが、今これを書きながら読んでいると、思わず泣いてしまった。
まさに不意打ちである。
悲しみはこんな形で、突然やってくるのである。


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Tags: ミステリー  

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ピエール・ルメートル「その女アレックス」

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村上春樹の全小説読破の後は、以前から読みたかったミステリー「その女アレックス」を読んだ。
この小説は「このミステリーがすごい!2015」、「週刊文春ミステリーベスト10」、「ミステリが読みたい!」などの海外部門で軒並み第1位を獲得した話題の小説である。
物語の発端は、ある看護師の女性が誘拐され、残酷な状態で監禁されるという事件から始まる。
猟奇事件かと思わせられるが、実はそうではない。
その裏には隠された秘密があるようだ。
しかしそれが明かされることがないまま犯人は警察に追いつめられ、その挙句に橋の上から身を投げて自ら命を落としてしまう。
そして誘拐された女性は監禁されたまま救出されることはない。
読み始めた当初は誘拐監禁がこの小説の本筋かと思って読んでいたが、ここで大きく肩すかしをくってしまった。
結局この事件は序章に過ぎず、これに続いてさらなる事件がつぎつぎと持ち上がり、捜査のなかで誘拐監禁事件の裏に隠された謎が次第に解明されていくことになる。
このように予想もつかないような展開が、ダイナミックに二転三転していくのが、この小説の見所のひとつである。

事件を追うのが、パリ警視庁犯罪捜査部班長のカミーユ・ヴェルーヴェンという警部。
身長145センチという小男で、その身長ゆえに初対面の相手からは軽く見られがちだが、外見とは違って優秀なヤリ手の警部である。
彼の亡くなった母親は著名な画家で、彼自身も絵を描くことを得意としている。
また妻を誘拐されて殺されるという辛い過去を背負っている。
その事件については、この小説の前作である「悲しみのイレーヌ」で詳しく書かれているようだ。
そうした傷から未だ癒えないカミーユに、この事件を担当させることで立ち直らせようと仕組んだのが、大男の上司ル・グエンである。
小男のカミーユと大男のル・グエンという組み合わせが、なかなか秀逸。
上司と部下という立場を越えたふたりの歯に衣着せぬやり取りが面白い。
さらに彼をサポートする部下が、資産家でハンサムなルイと、ケチで「守銭奴」のアルマンというまったく対照的なふたり。
こうした個性あふれる面々が、タッグを組んで捜査を進めていくことになる。
その過程で、謎の女アレックスの様々な姿が浮かび上がり、事件の裏に隠された真相が次第に解き明かされていくことになるが、それとともに謎の女アレックスに対するわれわれ読者の印象も、二転三転と変化していくことになる。
そうしたストーリーのさじ加減が、なかなか見事である。
読後の印象は苦く重いものがあるが、さすが話題作というだけあって、濃い内容をもった読み応えのあるミステリーであった。

著者ピエール・ルメートルについては、カバー裏の紹介記事を転載しておく。
<1951年、パリに生まれる。教職を経て、2006年、カミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズ第1作 Travail soigne でデビュー、同作でコニャック・ミステリ大賞ほか4つのミステリ賞を受賞した。本作『その女アレックス』はヴェルーヴェン・シリーズ第2作で、イギリスで話題となり、イギリス推理作家協会インターナショナル・ダガー賞の受賞作となった。2013年、はじめて発表した文学作品 Au revoir la-haut で、フランスを代表する文学賞ゴンクール賞を受賞する。>


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Category: 外国映画

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映画「おとなのけんか」

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先日のBSプレミアムで観た映画。
出演者4人(ジョディ・フォスター、ケイト・ウィンスレット、ジョン・C・ライリー、クリストフ・ヴァルツ)がアメリカ映画でお馴染みの俳優たちで、舞台がニューヨークということで、これはてっきりアメリカ映画とばかり思っていたが、実はフランス、ドイツ、ポーランドの合作映画である。
しかも撮影場所がパリということである。
なんでそんな面倒なことをと思ったが、監督がポランスキーということで、納得。
彼は事情があってアメリカに入国できない身なのである。
その結果こういうややこしい映画製作になったというわけだ。
いずれにしてもこの映画は、限定されたひとつの場所を舞台にした映画を、数多く撮ってきたポランスキーらしい映画である。
長編デビュー作の「水の中のナイフ」はヨットのなか、「袋小路」は外界と遮断された古城、「ローズマリーの赤ちゃん」はニューヨークの古いアパート、「赤い航路」は豪華客船、「死と処女」は人里離れた一軒家、といったぐあいである。
そしてこの映画ではニューヨークのアパートの一室が舞台になっている。
きっかけは子供同士のけんか、その後始末に加害者側の夫婦が訪れて円満に和解が成立したと思ったところから映画は始まる。
最初は寛容と忍耐で紳士的に振る舞っていた二組の夫婦だが、次第にホンネ丸出しの言い合いへと変わっていってしまう。
しかもそのバトルが、夫婦間の問題にまで及ぶに至っては、もう収拾がつかなくなってしまう。
こう言えば、ああ言う、といったぐあいに、お互いの主張にとどまるところがない。
よくこんなに次々と言いたいことが言えるもんだと感心してしまう。
こういう自己主張の強さ、けっして後に引かない態度を見ていると、やはり文化の違いを強く感じてしまう。
いつ果てるともない「おとなのけんか」に、ただただ苦笑するばかりであった。

原作はフランスの劇作家ヤスミナ・レザの戯曲「God of Carnage(大人は、かく戦えり)」。
ヤスミナ・レザ自身がこの映画のシナリオも担当している。
ちなみに原題にある「Carnage」とは「修羅場」「大虐殺」という意味である。
「修羅場」はともかく、「大虐殺」とは。
この言葉に、原作者の大いなる皮肉が込められているようだ。


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デザイン変更

tenplate.gif

久しぶりにテンプレートのデザインを変更した。

これまでのものは、1カラムだったので、長い文章の場合は少し読みづらいように思っていた。

そこで今度は2カラムのものに変更することにした。

少しは読み易くなったかな。

こうやって目先を少し変えるだけでも、いい刺激になる。

ブログを長く続けていくためには、こうしたちょっとした変化は、必要不可欠だ。

これでまた気分を新たにブログを書いていこうと思っている。




Category: 読書

Tags: 村上春樹  

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村上春樹「東京奇譚集」

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村上春樹は短編集『神の子どもたちはみな踊る』を書いて以来4年間、短編を書いていなかったが、久しぶりにまとめて書いたのが、この『東京奇譚集』である。
「偶然の旅人」、「ハナレイ・ベイ」、「どこであれそれが見つかりそうな場所で」、「日々移動する腎臓のかたちをした石」、「品川猿」の5本の短編が収められており、「週に一本のペースで、一ヵ月のあいだに五本の作品を書き上げた」のである。
そして<書く前にポイントを二十くらいつくって用意しておき>そこから<三つを取り出し、それを組み合わせて一つの話を>作り出したのである。
謂わば落語の「三題噺」のようにして書いていったわけである。
<そういう一見して脈絡のないランドマークみたいなものを、ところどころにポッと浮かべて話を書いていくというのが、自分でもすごく刺激的で、おもしろいんです。自分の中で浮かび上がってきたブイには、それだけ内的な必然性があるわけだから、結果的にすべては自然におさまっていくというか、そのブイの存在によって話がどんどんインスパイアされていく。ものごとの連動性が明らかになっていく。今回はとくにそういう書き方をしたんです。>
一見安易で出鱈目のようにも思えてしまうが、やはりそこは村上春樹、一流作家の手にかかると、こうした人を魅了してやまない小説が、出来上がってしまうのである。
そういえば古典落語の名作といわれている『芝浜』や『鰍沢』なども、三題噺から生まれたものである。
いいものが生まれる時には、手法の如何は問わないということなのであろう。

この短編集も、これまで同様「喪失」と「救済」が大きなテーマになっている。
まず最初の短編「偶然の旅人」では、前置きとして作者自身が体験した不思議な出来事について語っているが、これがなかなか面白い。
ひとつ目は、ケンブリッジのジャズ・ライブの店でトミー・フラナガンの演奏を聴いた際に体験した不思議な出来事、そしてふたつ目は、中古レコード屋でペパー・アダムズの『10 to 4 at the 5 Spot』を買った際に体験した話。
こうした偶然の一致というものは、その不思議さの程度の違いはあるにしても、だれでもいちどくらいは経験したことがあるのではなかろうか。
それだけに身近な話として親しみをもって物語に入って行くことが出来る。
これらのエピソードは、この短編集全体の導入部ともなっている。
そして本題へと移っていくのだが、そのつながりが何ともうまくて、シャレている。
どんな話が始まるのだろうかと、ワクワク感が掻き立てられる。
そして期待を裏切らない話が、展開されていくことになる。
けっして肩ひじ張った話ではなく(もちろん村上春樹がそんなものを書くはずはないが)、ごくありふれた日常のなかで展開される、ちょっと奇妙で不思議な話ばかりである。

「偶然の旅人」は作者の知人のピアノ調律師の話である。
彼は41歳のゲイである。
自分がホモセクシュアルであることをカミングアウトした時、家族との間にぎくしゃくとしたものが生まれた。
とくに仲の良かった姉との関係に大きくヒビが入ってしまった。
以来家族とは離れてひとりで暮らしている。
火曜日になると郊外のショッピング・モールに行き、そこにあるカフェでコーヒーを飲みながら本を読むのがいつもの過ごし方だった。
ある日ディッケンズの『荒涼館』を読んでいると、見知らぬ女性が声をかけてきた。
偶然にも彼女も同じ本を読んでいたのである。
それがきっかけとなって、彼女と親しくつきあうようになる。
そしてある出来事が起き、そこで出会った偶然の一致に背中を押されるように、断絶していた姉に連絡をとると、そこでもまた新たな偶然の一致があり、それによって姉との和解がなされることになる。
村上春樹はこの短編の終わりに次のように書いている。

「きっかけが何よりも大事だったんです。僕はそのときにふとこう考えました。偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりで、しょっちゅう日常的に起こっているんです。でもその大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされてしまいます。まるで真っ昼間に打ち上げられた花火のように、かすかに音はするんだけど、空を見上げても何も見えません。しかしもし僕らの方に強く求める気持ちがあれば、それはたぶん僕らの視界の中に、ひとつのメッセージとして浮かび上がってくるんです。その図形や意味合いが鮮やかに読みとれるようになる。そして僕らはそういうものを目にして、『ああ、こんなことも起こるんだ。不思議だなあ。』と驚いたりします。本当はぜんぜん不思議なことでもないにもかかわらず、そういう気がしてならないんです。どうでしょう、僕の考えは強引すぎるでしょうか?」

「日々移動する腎臓のかたちをした石」は『神の子どもたちはみな踊る』のなかの「蜂蜜パイ」の淳平という主人公の前日譚ともいうべき小説である。
この話は、主人公の父親の次のような言葉から始まる。
「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない。それよりも多くないし、少なくもない」
以来父親のこの言葉がいつまでも心につきまとい、知り合った女性がそうした女性なのかどうかと考えるようになる。
そしてあるパーティで知り合った謎を秘めたキリエという女性が、果たしてそうした女性のひとりなのかどうかということを中心にしながら物語が展開していく。
小説家である淳平は現在ある小説を執筆中である。
それは、「日々移動する腎臓の形をした石」という小説である。
その小説は、腕のいい内科医の30代前半の女性が主人公である。
彼女はある大きな病院に勤めており、独身で同僚の外科医の男性と不倫関係にある。
ある時彼女は旅行先の温泉で、腎臓の形をした石を見つけて持ち帰る。
そしてそれを文鎮として使っていたが、それが夜のうちにあちこちへと移動するようになる。
小説はそこで止まったままで、先には進めないでいる。
そのことをキリエに話すと、彼女は「その腎臓石は自分の意思を持っているのよ」と言う。
そして続けて「腎臓石は、彼女を揺さぶりたいのよ。少しづつ、時間をかけて揺さぶりたいの。それが腎臓石の意思」
さらに「この世界のあらゆるものは、意思を持っているの」「私たちはそういうものとともにやっていくしかない。」「それらを受け入れて、私たちは生き残り、そして深まっていく」のだと言う。
こうしてキリエと淳平の現実と小説内小説の世界が同時進行していくが、ある日突然キリエは姿を消してしまう。
そして後日ある偶然から彼女の正体を知ることになり、それによって彼自身が激しく揺さぶられることになる。
ところでこれを読んでいるうちに丸谷才一の「樹影譚」という小説のことを思い出した。
それは村上春樹の「若い読者のための短編小説案内」という本の中で採りあげられていた小説である。
この小説は「日々移動する腎臓のかたちをした石」と同じく、小説家が主人公で、その小説家が書く小説内小説と同時進行で物語が進んでいくというものである。
「日々移動する腎臓のかたちをした石」が書かれたのが2005年、そして「若い読者のための短編小説案内」が1997年ということから考えれば、この小説の骨格は、「樹影譚」を参考にしたものと考えてよさそうだ。
それを村上春樹独自の世界へと移し変えたのである。
そして最後には<カウントダウンには何の意味もない。大事なのは誰か一人をそっくり受容しようという気持ちなんだ、と彼は理解する。そしてそれは常に最初であり、常に最終でなくてはならないのだ。>との結論へと至るのである。
なるほど見事な手腕である。
そして同時に村上春樹の成熟をそこに感じる。

これで村上春樹の小説はすべて読んだことになる。
小説は全作品読破したが、この他にもエッセイ、紀行文、さらには数多くの翻訳本がある。
それらは機会があれば、いずれ読むことになるだろうが、とりあえず村上春樹の本を続けて読むのは、これでいったん終りとする。
10月からの5ヶ月間、これほど長期間にわたって、ひとりの作家の小説ばかりを集中的に読んだのは、久しぶりのこと。
当初は途中で投げ出してしまうかもしれないなどと考えたこともあったが、そうはならなかった。
それは村上春樹の小説がもつ独特の魅力に引っ張られたからであろう。
その魅力とはどんなものなのか、それを考えながら、こうした文章を書き続けてきたが、未だその核心を掴めていないように思う。
しかしいずれにしてもそうした読書と思索の時間をもてたことは、貴重な経験であり、また楽しく充実した時間であった。
またいつかこうした時間を持ちたいものだと切に思う。
そして今後も一読者として、また同世代の人間として、彼の動向に注目していきたいと、思っているのである。


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村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」

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これらの短編は、当初「地震のあとで」というタイトルで、1999年8月から12月まで雑誌『新潮』に連載されたものである。
「UFOが釧路に降りる」、「アイロンのある風景」、「神の子どもたちはみな踊る」、「タイランド」、「かえるくん、東京を救う」の5篇、それに書下ろしの「蜂蜜パイ」を加えて出したのが、この短編集である。
いずれも1995年2月が舞台となっている。
それはこの年の1月に阪神大震災が、そして3月には地下鉄サリン事件が起きており、このふたつの未曾有の出来事に挟まれた2月という月に、人々はどう生きたかということを書いているからである。
いずれも阪神大震災との関連のもとに書かれているが、直接的にはそれらの被害について描いているわけではない。
というよりも、地震とはまったく関係のないように思えるものもあるが、詳細に読んでいくとそれは巧みに隠されている。
そのことについて村上春樹は次のように書いている。

<僕は『アンダーグラウンド』と『拘束された場所で』で、地下鉄サリンガス事件及びオウム教団を扱ったあと、どうしても阪神大震災についての本を書いてみたくなった。どちらかひとつだけでは片手落ちだという気がしたからだ。それら二つをあわせることによって、戦後日本の五十年の歴史に、ひとつのはっきりとした終止符が打たれることになるのだ。それはあくまで二つで一組の、巨大な不吉な里程標なのだ。しかし僕は神戸の地震についてのノンフィクションを書きたいという気持ちには、どうしてもなれなかった。そこは僕が少年時代を送った思い出の深い場所であるし、たくさんの知り合いもいる。そこに行って本を書くために事実を集めて回るというのは、僕にとってはいささか気の重いことだし、あまりにも生々しいことだった。それに僕としては、オウム事件とはまったくべつの切り口でこの出来事を取り上げ、語ってみたいという気持ちもあった。
 それで今回はフィクションの形式を使おうと決めた。それも短編小説の連作がいい。そして地震という題材を直接には取り扱わないことにしよう。物語の場所も神戸から遠く離れたところに設定しょう。その地震がもたらしたものを、できるだけ象徴的なかたちで描くことにしよう。つまりその出来事の本質を、様々な「べつのもの」に託して語るのだ。僕はそう決心した。>

どんな素材を扱う場合でも、彼は生のままで表現しようとはしない。
そうした直接的で荒々しいもの、洗練されていないものは、生理的に受け入れられないということなのだろう。
そしてそれを<「べつのもの」に託して語る>、それこそが村上春樹が村上春樹たる所以なのである。

ここでは、すべてが三人称で書かれているが、それはこれまで多くの小説を一人称で書いてきた村上春樹にすれば珍しいことである。

<こういう書き方をしたことには、やはり『アンダーグラウンド』を執筆した影響があったように思う。僕はそこで様々な物語の採集をし、人々のボイスをそのまま文章にする作業を一年間にわたって辛抱強く行ってきた。そのボイスは実に多様なものであり、ひとつひとつが取り替えのきかない固有のものであり、世界はそれらの無数のボイスの集積によって成り立っていた。そしてその世界を一人称だけでしめくくることは、現実的にもうほとんど不可能になっていた。そしてその三人称という語り口は、僕の短編小説のスタイルを多かれ少なかれ変えていったという気がする。>

この小説でまた新たな一歩を踏み出したというわけである。
そのことに関連するかどうかわからないが、この短編集のなかの唯一の書下ろしである「蜂蜜パイ」で、小説家である主人公・淳平は、次のようなことを考える。

<これまでとは違う小説を書こう、夜が明けてあたりが明るくなり、その光の中で愛する人々をしっかりとだきしめることを、誰かが夢見てまちわびているような、そんな小説を>

もちろん村上春樹は、これを自分と重ね合わせて書いたわけではなく、淳平と自分とはまったく違ったタイプの作家なのだと言うが、それでもやはりここには村上自身の新しい物語を紡ごうとする、新たな決意表明のようなものがあることを感じずにはいられない。
またそうであってほしい、そうであるはずだとの思いもある。
この本を読み終わって、そんな感慨が自然と湧いてきたのである。


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村上春樹「アフターダーク」

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昨年の10月以来、村上春樹の小説ばかりを読んできたが、長編小説はこれが最後になる。
ちなみに村上春樹の長編小説はぜんぶで13冊あるが、これは11冊目の長編小説である。
出版されたのは、2004年。
小説を書くたびに、新しい試みを模索していくのが、村上春樹の創作スタイルであるが、この小説ではかなり実験的な試みをしている。
それはこの小説が、まるで1本の映画のようにキャメラ目線で書かれていることだ。
そのことを著者は
<最初に会話だけをスクリプトのように書いた。><そのあとで地の文を書き込んでいった。><映画を作っていくような感じで書いた。>
と語っている。
<大学時代はシナリオばかりを読んでいた。>という村上春樹らしい。

そして小説の中では次のように書く。

<私たちの視点は架空のカメラとして、部屋の中にあるそのような事物を、ひとつひとつ拾い上げ、時間をかけて丹念に映し出していく。私たちは目に見えない無名の侵入者である。私たちは見る。耳を澄ませる。においを嗅ぐ。しかし物理的にはその場所に存在しないし、痕跡を残すこともない。言うなれば、正統的なタイムトラベラーと同じルールを、私たちは守っているわけだ。観察はするが、介入はしない。>

こうやって映し出されるのは、都会の真夜中の出来事である。
時間で言うと23時56分から、6時52分まで。
その真夜中を、異空間として扱っている。

映画関連でいうと、物語の舞台のひとつとして登場してくるラブホテルの名前が「アルファヴィル」となっているが、これはゴダールの映画の題名から採ったもの。
1965年に公開された映画で、アンナ・カリーナ主演、未来都市・アルファヴィルを舞台にしたSF映画で、個人の自由が剥奪された世界を描いている。
ちなみに村上春樹は、ゴダールからかなり大きな影響を受けたと語っている。

さらにもうひとつ映画関連でいえば、映画『ある愛の歌』が会話の中の話題として登場してくる。
そしてそこで語られるストーリーは、映画のそれとは少し違っている。
というか間違っている。
それは故意に間違ったものにしたのだと思われるが、それがなにを意図しているのか、ちょっと考えてみるのも面白い。

ところでこの小説のタイトルである「アフターダーク」は、トロンボーン奏者カーティス・フラーが1959年に録音したアルバム「ブルースウェット(BLUES ette)」に収められた、「ファイブ・スポット・アフターダーク」から採ったもの。
確かこのアルバムは、昔買ったことがあるのではないかと、探してみると出てきた。

bluesette.jpg
さっそく聴いてみたところ、なるほどこれは昔よく聴いた馴染の曲ではないか。
久しぶりに聴いたが、なかなかノリがいい。
都会の夜の頽廃的な気分が、そこはかとなく漂ってくる。
聴きながらこれを書いていると、小説の世界がまた違った色彩を帯びて見えてきた。

これで残すところは、あと2冊、『神の子どもたちはみな踊る』と『東京奇譚集』だけである。


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村上春樹「スプートニクの恋人」

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『ねじまき鳥クロニクル』完結以来、四年ぶりの書き下ろし長編小説である。
主な登場人物は、主人公の「ぼく」とすみれとミュウの三人。
「ぼく」は小学校の教師で、すみれは「ぼく」の大学時代の女友達、小説家を目指している。
ミュウは、すみれが従姉妹の結婚式で知り合った17歳年上の女性である。
そしてすみれは初対面の彼女に激しい恋をした。
すみれはこの時、大好きな小説家ジャック・ケアルックの話をした。
ジャック・ケアルックはアメリカの小説家で、所謂ビートニクを代表する人物であるが、その「ビートニク」という言葉をミュウは「スプートニク」と勘違いしたことから、すみれは彼女のことを「スプートニクの恋人」と呼ぶようになった。
それがこの小説の題名の由来である。
「スプートニク」とは、1957年にソ連が打ち上げた、世界初の人工衛星のことである。
そしてそれは「旅の連れ」を意味する言葉でもある。

「ぼく」はすみれに恋をし、すみれはミュウに恋をする。
そんなちょっと変わった三角関係のなかで、物語は進んでいく。
すみれはミュウの仕事を手伝うようになり、ミュウの秘書としてヨーロッパに行った時、ギリシャの島で突然姿を消してしまう。
そこから「ぼく」のすみれ捜しの旅が、始まるのである。
しかしすみれを捜し出すことはできない。

帰国後、ある事件が持ち上がる。
日曜日の午後、ぼくと不倫関係にある生徒の母親から、突然電話が入る。
クラスで「にんじん」と呼ばれている彼女の息子が、スーパーで万引きをしたというのだ。
彼女と一緒にスーパーに駆けつけ、警備員との間でひと悶着があるが、ようやく身柄を引き取ることができた後、「にんじん」とふたりで喫茶店に入って話をする。
そこでぼくは説教ではなく、ギリシャでの出来事やぼく自身のことについて独り言のように話し始める。
<ぼくはにんじんに向けて話しているのではなかった。自分に向けて話しているだけだった。声に出してものを考えているだけだった。>
そしてその長い話のなかで「にんじん」の態度に少しづつ変化が現れる。
この場面は小説のほぼ終幕において描かれるエピソードだが、深く胸を打つ。
本筋の物語とは直接関わりのない場面ではあるが、重要な場面である。
この小説の中での名場面のひとつである。

<どうしてみんなこれほどまで孤独にならなくてはならないのだろう。ぼくはそう思った。どうしてそんなに孤独になる必要があるのだ。これだけ多くの人々がこの世界に生きていた、それぞれに他者の中になにかを求めあっていて、なのになぜ我々はここまで孤絶しなくてはならないのだ。何のために?この惑星は人々の寂寥を滋養として回転をつづけているのか。>

<ぼくは目を閉じ、耳を澄ませ、地球の引力を唯ひとつの絆として天空を通過し続けているスプートニクの末裔たちのことを思った。彼らは孤独な金属の塊として、さえぎるものもない宇宙の暗黒の中でふとめぐり会い、すれ違い、そして、永遠に別れていくのだ。かわす言葉もなく、結ぶ約束もなく>

これはギリシャを去ることになった「ぼく」が、アクロポリスの丘に上り、白い神殿を眺めながら抱いた感慨である。
人は誰かと深く繋がることを求めている。
しかし人と人は、それほど容易く繋がることはできない。
それがこの小説を貫いている1本の太い幹である。
そこには深い孤独と空虚が漂っている。

そして続く終章で語られる次のような言葉が印象に残る。

<ぼくらはこうしてそれぞれに今も生き続けているのだと思った。どれだけ深く致命的に損なわれていても、どれほど大事なものをこの手から簒奪されていても、あるいは外側の一枚の皮膚だけを残してまったくちがった人間に変わり果ててしまっていても、ぼくらはこのように黙々と生を送っていくことができるのだ。手を伸ばして定めれらた量の時間をたぐり寄せ、そのままうしろに送っていくことができる。日常的な反復作業として。場合によってはとても手際よく。そう考えると僕はひどくうつろな気持ちになった。>


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