風に吹かれて

My Life & My Favorite things

Category: 月別観た映画と読んだ本

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今月観た映画と読んだ本(2015年10月)


観た映画


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バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)
2014年アメリカ 監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 出演:マイケル・キートン/ザック・ガリフィアナキス/エドワード・ノートン/アンドレア・ライズボロー/エイミー・ライアン/エマ・ストーン/ナオミ・ワッツ


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「J・エドガー」
2011年アメリカ 監督:クリント・イーストウッド 出演:レオナルド・ディカプリオ/ナオミ・ワッツ/アーミー・ハマー/ジュディ・デンチ/リー・トンプソン/ジョシュ・ルーカス


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「親愛なるきみへ」
2010年アメリカ 監督:ラッセ・ハルストレム 出演:チャニング・テイタム/アマンダ・サイフリッド/ヘンリー・トーマス/スコット・ポーター/リチャード・ジェンキンス


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セッション
2014年アメリカ 監督/脚本:デイミアン・チャゼル 出演:マイルズ・テラー/J・K・シモンズ/ポール・ライザー/メリッサ・ブノワ/オースティン・ストウェル/ネイト・ラング/クリス・マルケイ


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「モホークの太鼓」
1939年アメリカ 監督:ジョン・フォード 出演:ヘンリー・フォンダ/クローデット・コルベール/エドナ・メイ・オリヴァー/エディ・コリンズ/ジョン・キャラダイン


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「はじまりのうた」
2013年アメリカ 監督/脚本:ジョン・カーニー 出演:キーラ・ナイトレイ/マーク・ラファロ/アダム・レビーン/ヘイリー・スタインフェルド/ジェームズ・コーデン



読んだ本


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抱く女(桐野夏生 現代小説)


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アイネクライネナハトムジーク(伊坂幸太郎 現代小説)


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漢方小説(中島たい子 現代小説)


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55歳からのハローライフ(村上龍 現代小説)


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1973年のピンボール(村上春樹 現代小説)


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ノルウェイの森(村上春樹 現代小説)


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女のいない男たち(村上春樹 現代小説)


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職業としての小説家(村上春樹 エッセイ)



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Category: 読書

Tags: 村上春樹  

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村上春樹「職業としての小説家」

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紀伊國屋書店が、初版10万冊のうち9割を、出版社から直接買い取ったことで話題となった本である。
図書館で20人待ちだったのが、ようやく順番が回ってきた。

村上春樹は、あまり世間にその姿を晒さない作家として知られている。
また文壇や文芸業界とは適当な距離をとり、あまり多く関わりを持たないようにして、独自の立場を守っている。
また小説は基本的には雑誌掲載よりも、書下ろしが多い。
それは「自由に書きたい」という思いから生み出したスタイルであるが、これも文芸業界のなかにあっては、かなり特殊なことである。
そうした姿勢を一貫して持ち続け、それでいて35年にも及ぶ作家活動を維持してきた村上春樹の考えや素顔が、率直に、そしてほんの少しのユーモアを交えながら語られていく。
読んでいて興味が尽きない。

よく知られているように、村上春樹は小説家になる前は、国分寺駅前で「ピーター・キャット」というジャズ喫茶をやっていた。(後に千駄ヶ谷に移転)
これは大学時代に学生結婚をしたという成り行き上、必要に迫られたあげくの選択であった。
その生活はなかなかに厳しいものではあったが、また同時に楽しいものでもあった。
そしてその生活のなかで様々な面白い人間、興味深い人間たちとの出会いがあった。
そうした社会勉強をすることで、「いくぶんタフになり、そしていくぶん知恵もついてきた」と言う。
そしてある日、(正確にいうと、1978年4月1日)明治神宮野球場でヤクルトの開幕戦を観戦中に、突然小説を書くことを思い立ったのである。
その時のことを次のように書いている。

<広島の先発ピッチャーはたぶん高橋(里)だったと思います。ヤクルトの先発は安田でした。一回の裏、高橋(里)が第一球を投げると、ヒルトンはそれをレフトにきれいにはじき返し、二塁打にしました。バットがボールに当たる小気味の良い音が、神宮球場に響き渡りました。ぱらぱらというまばらな拍手がまわりから起こりました。僕はそのときに、何の根拠もなく、ふとこう思ったのです。「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と。>

<それは、なんといえばいいのか、ひとつの啓示のような出来事でした。英語にエピファニー(epiphany)という言葉があります。日本語に訳せば「本質の突然の顕現」「直観的な真実把握」というようなむずかしいことになります。平たく言えば「ある日突然何かが目の前にさっと現れて、それによってものごとの様相が一変してしまう」という感じです。それがまさに、その日の午後に、僕の身に起こったことでした。>

そうやって書いたのが「風の歌を聴け」であった。
そしてそれが「群像」新人賞を受賞し、作家となるキップを手にすることになったのである。
これが出発点。

もちろんそれまでに小説などいちども書いたことがなかった。
それが突然原稿用紙に向かって小説を書くのである。
当然、書いたものは面白くない。
小説を読むことは好きで、かなりの本を読んでいた。
しかし書くことは初めてである。
そこで彼は考えた。
「最初からすらすら優れたものが書けるわけがない。」
「どうせうまい小説なんて書けないんだ。小説とは、こういうもんだ、文学とはこういうもんだ、という既成概念みたいなものを捨てて、感じたこと、頭に浮かんだことを好きに自由に書いてみればいいじゃないか」と。
「そして試しに英語で書いてみることにした」のである。「とにかく何でもいいから、普通じゃないことをやってみようと」いうわけである。
さっそく「押し入れにしまっていたオリベッティの英文タイプライターを持ち出し」、「限られた数の単語を使い」「限られた数の構文で」書き、それをさらにもういちど日本語に移し変えていく。
そうやって出来上がったのが、彼独自の文体であった。
そして気づいたのは、「何もむずかしい言葉を並べなくてもいいんだ」、「人を感心させるような美しい表現をしなくてもいいんだ」ということ。
面白いエピソードである。
これだけで小説ひとつが書けそうだ。

当初は、ジャズ喫茶のマスターとの二足のわらじを履いていた。
だが、やがて作家一本でやっていくことを決意する。
1981年のことである。
<後戻りできないように「橋を焼いた」わけ>である。
そして書き始めたのが、長編小説『羊をめぐる冒険』であった。
この時、それまで吸っていた煙草をやめ、ランニングを始めるようになった。
これは小説を集中して書き続けるためには、基礎体力をつけることが必要だと考えたからであった。
以来30年以上にわたって、ほぼ毎日1時間程のランニングを欠かさず行っている。
そうやって維持した体力を基に、毎日5時間机に向かって原稿を書いているのである。
これについて「フィジカルな力とスピリチュアルな力は、バランス良く両立させなければならない。それぞれがお互いに補助しあうような体勢にもっていかなくてはならない。戦いが長期戦になればなるほど、このセオリーはより大きな意味あいを持ってきます。」と書いている。
そしてその規則正しい生活リズムは、ほぼ崩すことなく続けられている。
このことは彼のエッセイ「走ることについて語るときに僕の語ること」にも、さらに詳しく書かれている。
いずれにしても、これはこれまであった不健康で自堕落な生活をするという反社会的な文士のイメージとは、まったく正反対のものである。
そうした従来のイメージから遠く離れたところにある彼の姿が、多くの読者の共感を呼ぶ魅力のひとつにもなっているように思われる。

この他にも「文学賞について」や、「オリジナリティについて」、「学校について」、さらに「何を書けばいいのか?」や「誰のために書くのか?」といったことが、独自の視点で書かれている。

また「海外へ出ていく。新しいフロンティア」という回では、アメリカでいかにしてマーケットを広げ、読者を増やしていったかが詳しく書かれてている。
そしてそれを手がかりに、ヨーロッパをはじめとした世界各国へと読者層を広げていった経緯も。
それを読むと、けっして自然発生的に世界中に読者が増えていったわけではないということがよく分かる。
そこには、それなりの絶え間のない努力の積み重ねがあったのである。
そして何によらず、そうした地道な積み重ねこそが、村上春樹の小説を書く上での大きな下支えになっているのである。
それを知ったことが、今回この本を読んだいちばんの収穫であったように思う。


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Tags: 村上春樹  短編小説集  

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村上春樹「女のいない男たち」

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村上春樹には珍しく、この本には「まえがき」が書かれている。
その書き出しは、次のようなもの。

<長編小説にせよ短編小説にせよ、自分の小説にまえがきやあとがきをつけるのがあまり好きではなく(偉そうになるか、言い訳がましくなるか、そのどちらかの可能性が大きい)、そういうものをできるだけ書かないように心がけてきたのだが、この『女のいない男たち』という短編小説集に関しては、成立の過程に関していくらか説明を加えておいた方がいいような気がするので、あるいは余計なことかもしれないが、いくつかの事実を「業務報告」的に記させていただきたいと思う。偉そうにもならず、言い訳がましくもなく、邪魔にならないようにできるかぎり努めるつもりだが、結果には今ひとつ自信が持てない。>

村上春樹が短編小説を書くのは久しぶりのこと。
「東京奇譚集」以来9年ぶりになる。
彼は自分のことを基本的には長編小説作家だと考えている。
そして短編小説を書くのは、長編小説を書いた後のペース配分の変更のようなものだと書いている。
また短編小説を書く<大きな喜びは、いろんな手法、いろんな文体、いろんなシチュエーションを短期間に次々に試していけることにある。ひとつのモチーフを様々な角度から立体的に眺め、追求し、検証し、いろんな人物を、いろんな人称を使って書くことができる。>
今回のコモチーフは、題名にあるように「女のいない男たち」である。
<どうしてそんなモチーフに僕の創作意識が絡め取られてしまったのか(絡め取られたというのがまさにぴったりの表現だ)、僕自身にもその理由はよくわからない。そういう具体的な出来事が最近、自分の身に実際に起こったわけではないし(ありがたいことに)、身近にそんな実例を目にしたというわけでもない。ただそういう男たちの姿や心情を、どうしてもいくつかの異なった物語のかたちにパラフレーズし、敷衍してみたかったのだ。それは僕という人間の「現在」の、ひとつのメタファーであるのかもしれない。あるいは遠回しな予言みたいなものかもしれない。それとも僕はそのような「悪魔払い」を個人的に必要としているのかもしれない。そのあたりは僕にも説明できない。>

この小説には、「ドライブ・マイ・カー」、「イエスタデイ」、「独立器官」、「シェエラザード」、「木野」、そして「女のいない男たち」という6つの短編が収録されており、「いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち。」の話が書かれている。
いつもと同じように、ちょっと風変わりな人物たちの、ちょっと変わった話ばかり。
心の迷宮に足を踏み入れ、そして話が突然終わってしまうところも、またお馴染みの春樹節である。
幾分戸惑いがあるが、それじゃあ、面白くないかといえば、そうではない。
間違いなく今回も、どんどんと物語の中に引き込まれていき、あっという間に時間が過ぎ、気がつくと読み終わってしまっていた。
ムラカミ・マジックである。
まるで「シェエラザード」で軟禁状態の主人公が、世話係の女性からベッドの上で、興味深い話を聞くような時間を過ごしたのである。
そういえば先日読んだ「ノルウェイの森」のなかにも
<「もし話のつづき聞きたいんなら明日話してあげるわよ。長い話だから一度には話せないのよ」と言うレイコさんに、「僕」は「まるでシエラザードですね」と答える>
という一節があった。

村上春樹の小説には、背後に目に見えない大きな力が働いているのを感じる。
それは「自分ではどうしようもない無意識なもの」である。
そして人はそれに押されるように、人生の破局へと突き進んで行ってしまう。
そんな不気味な気配が、濃厚に漂っている。


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Tags: 村上春樹  

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村上春樹「ノルウェイの森」

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村上春樹の「ノルウェイの森」を再読。
この小説を始めて読んだのは、出版後1、2年経った頃だったと思うから、今から25、6年ほど前のこと。
感動したことを覚えている。
だがそれでいて何に感動し、どんな内容だったかなどということは、今ではもうすっかり忘れてしまっている。
そこで、村上春樹が話題に上ったのを機会に、もういちど読んでみることにした。

この小説が出版されたのは、1987年。
村上春樹、38歳の時である。
彼は本書について次のように書いている。
「この話は基本的にカジュアルティーズ(うまい訳語を持たない。戦闘員の減損とでも言うのか)についての話なのだ。それは僕のまわりで死んでいった、あるいは失われていったすくなからざるカジュアルティーズについての話であり、あるいは僕自身の中で死んで失われていったすくなからざるカジュアルティーズについての話である」
喪失の物語である。
そしてその言葉が示すように、この小説では多くの「死」が満ちている。
親友キズキ、キズキの恋人で「僕」が愛する直子、永沢の恋人のハツエさん、そして大学の同級生であり恋人でもある緑の父親。
多くの死が主人公のワタナベの前を通り過ぎて行く。
そうした身近な死の様子を見ているうちに、これは村上春樹にとっての「青春の墓碑銘」なのだと思えてくる。

物語は37歳の僕が、ハンブルグ空港に降り立ち、その飛行機のなかで流れるビートルズの「ノルウェイの森」を聴いたことから、突然18年前の出来事を思い出すというもの。
その舞台となるのは1969年の秋、僕が「もうすぐ二十歳になろうとしていた」頃のことである。

同時に自分自身の当時のあれこれを思い出した。
1969年といえば、大学3年生の時である。
その年の春、それまで住んでいた県人寮を出て、目白台の下宿に移り住んだ。
後年知ったことだが、この下宿の近くには村上春樹氏が住んでいた「和敬塾」という寮があった。
この時村上氏は、すでに退寮した後だったようだが、この小説の第二、三章には、この寮生活のことが詳しく書かれている。
そしてこれは先に書かれた短編小説「蛍」とリンクした物語でもある。

ちなみに「和敬塾」と隣の「椿山荘」の間には、胸突坂という小道があって、よくそこを行き来した。
ある夏の夜、そこを通りかかった時、飛び交う蛍と遭遇した。
都会のど真ん中でまさか蛍と出会うとは。
まったく予想もしなかった出来事に心底驚いたが、これは椿山荘が夏の呼び物として養殖している蛍なのだということを後に知った。
その蛍が登場するのが、この章と短編小説「蛍」である。
またワタナベはこの後、2年間住んだ寮を出て、吉祥寺郊外の借家に住むようになる。
それと同じく自分もこの頃、目白台の下宿を出て吉祥寺の郊外の一軒家の離れを借りて住むことになった。
そういう偶然の一致もあって、特別深い思い入れをもって読むことになったのである。

この年の1月には全共闘が占拠していた東大安田講堂から学生が排除されるという事件があり、依然大学紛争の真っただ中にあった。
そして大学は封鎖や休講続きということもあって、もっぱらアルバイトに精を出していたような記憶がある。
小説のなかでもワタナベは大学紛争を横目に見ながら、レコード店やレストランでアルバイトをしている。
そんな時代であった。

この小説とは違って、自分の周りでは、身近な死というものはなかったものの、それでもどこにも行き場のない痛みや寂しさといったものは、少なからずあったように思う。
それは青年期特有の迷いや憂鬱といったものがもたしたものかもしれないが、それだけではなく、人間が本来抱え持つ哀しみから滲み出たものが、含まれていたように思う。
同じものがこの小説の底にも、色濃く流れているのを感じる。

冒頭に「多くの祭り(フェト)のために」と書かれているように、青春とはまさに祭り(フェト)である。
しかしその祭りは決して華やかでも煌びやかでも、また心楽しいものでもない。
むしろ暗く虚ろで空しいものが付きまとう。
そしてまるで運命に導かれるように人は人と出会い、影響を与え合い繋がっていく。
まるで目に見えない糸に操られるように。
そして気がつくと、時はあっという間に過ぎ去っている。
決して後戻りは出来ないのである。

久しく忘れていた感傷を呼び起こされながら小説を読み終わった。


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Category: 弘前

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弘前城菊と紅葉まつり

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弘前公園で開催中の「弘前城菊と紅葉まつり」に行ってきた。
紅葉は色づき始めで、ひと足早かったが、秋の日差しが心地いい。

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まずは主会場になっている植物園に入場、菊人形を見た。
今回は「弘前城 人は石垣 人は城」をテーマに、藩政時代の武将などの姿が再現されている。
いつも思うが、菊人形はちょっと不気味。

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次に見たのは、中央広場に設けられた舞台で演奏される津軽三味線の演奏である。
これは平日の1時半から2時の間に行われるイベントだが、そのことは知らずに、たまたまその時間にそこを通りがかっただけである。
思わぬ出会いに感謝である。
演奏されたのは、「津軽じょんがら節」「津軽あいや節」など馴染のある曲ばかり。
久しぶりに津軽三味線のライブを楽しんだ。

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その後は今回のメインイベントである本丸の曳家工事の見学である。
9月に行われた「曳屋ウィーク」を見に来て以来の本丸訪問である。
「曳屋ウィーク」で動かされた距離は、わずか5m30cmだけであったが、その後工事が行われ、本丸中央に拵えられた臨時の石垣の上まで無事到着している。
しかし石垣と天守閣の間はまだ鉄骨で支えられたままである。
これが引き下ろされて石垣に固定されるのは24日のことである。
その日には、またもういちど見学に来ようかなと思っている。
100年に一度の大工事は、何回見ても見飽きることがない。

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弘前城の散策の後は、同じエリアにある市民会館内の喫茶「バトン」でコーヒーを飲んでひと休み。
ここのコーヒーは格別美味い。
コーヒーを飲みながら、店内に置かれた雑誌を読む。
ゆったりとした時間が流れていく。
歩いた後の気怠い疲れが、ゆっくりと癒されていく。

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先週の八甲田に続いて、秋の行楽を楽しんだ一日であった。


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Category: 読書

Tags: 村上春樹  

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村上春樹「1973年のピンボール」

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「風の歌を聴け」に続く、村上春樹の長編第2作目の小説である。
毎年この時期になると、恒例のように村上春樹のことが話題になる。
それに誘われるように、彼の小説が読みたくなる。
そこで読んだのが、この小説と「ノルウェイの森」である。
まずはこの小説のことから。

登場人物は「風の歌を聴け」と同じく「僕」と「鼠」のふたり。
「風の歌を聴け」の続編ともいえるような小説である。

時代は1973年の秋、大学を卒業して翻訳で生計を立てながら、東京で生活をしている「僕」と、大学を放り出され、地元神戸(おそらく)で無為な日々を過ごす無職の「鼠」という二つの物語が交互に描かれていく。
しかし物語といっても、ほとんど何も起こらず、筋と云えるほどのものはなく、ふたりの生活の断片が、まるで夢の中の出来事のように語られていくだけである。
退屈きわまりないといえば、確かにそうだが、そこには村上春樹独特の味付けがされており、その文体にひきづられるまま、心地よく読み進んでいってしまう。
そして「僕」が大学時代に夢中になったピンボール・マシーン「スペースシップ」と巡り合う終盤では、不思議な感動すら湧いてくる。
それはまるでかつての恋人との再会を思わせるようなものだが、同時にそこから感じられるのは深い喪失と虚無である。
そしてそうした感覚の基となるのが、彼らが抱える世界とのどうしようもない乖離、それが形を変えて繰り返し語られていく。

<しかし、ピンボール・マシンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイ(再試合)のランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ……、まるでピンボール・ゲームそのもがある永劫性を目指しているようにさえ思える。
 永劫性については我々は多くを知らぬ。しかしその影を推し測ることはできる。
 ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。
 もしあなたが自己表現やエゴの拡大や分析を目指せば、あなたは反則ランプによって容赦なき報復を受けるだろう。

 HAVE A NICE GAME(良きゲームを祈る。)>

謎が多く、読み解くのが難しい。
それは安易に答えが見出されるといった類のものではない。
いや、もしかするとそんな答えなど、どこにも存在しないかもしれないのである。
だからこそ、強く惹きつけられるという逆説が、村上春樹の小説にはある。
その魅力に、だんだんと嵌っていく。


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なつかしの映画ポスター展

NHK弘前のギャラリーで開催されている「なつかしの映画ポスター展」に行ってきた。
同文化センターで行われている映画講座に通う有志の方たちが開いたものである。
展示されているのは、昭和30~40年代にかけての映画全盛期のポスターである。
「日活アクション」や「時代劇」、そして「母もの」や文芸映画など、その時代の匂いを感じさせるものばかり。
こういうポスターを大切に保管している映画ファンが、少なからずいるのである。
懐かしく、かつ珍しいものばかり。
なかでも川島雄三監督の「わが町」と「洲崎パラダイス 赤信号」があったのが目を引いた。
やはり県出身の監督ということからなのか。
それにしても思いがけない出会いであった。
どちらも大好きな映画だけに、ポスターを見ることができてよかった。

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紅葉の八甲田

毎年この時期になると、八甲田の紅葉見物に出かけている。
今年も見頃を迎えた八甲田の紅葉見物に出かけた。

昨年は黒石、滝ノ沢、御鼻部山、そして奥入瀬渓流を抜けて十和田湖というコースだったが、今年はそれとは逆のコースで行くことにした。
まず国道102号線で黒石まで出るのは昨年と同じだが、そのまま直進せず、中野もみじ山の手前を左折、国道349号線に入って城ケ倉大橋まで出る。
そこから酸ヶ湯、蔦温泉、奥入瀬を通って十和田湖まで。
帰路は御鼻部山を上って滝ノ沢まで、そこから黒石方面へと下って行くという南八甲田周回コースである。
走行距離154キロ、朝9時に出発して帰宅したのが午後4時。
八甲田の秋を、たっぷりと堪能した。

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岩木山に初雪

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昨日の弘前の最高気温は、13度までしか上がらず寒い一日となった。
これは11月初め頃の気温だそうだ。
この寒さで岩木山に初雪が降った。
これは昨年より15日、平年より7日早い初雪である。
また八甲田山でも初雪となった。
こちらは平年より3日、昨年より14日早い初冠雪である。
今年は冬の訪れが早そうだ。


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村上龍「55歳からのハローライフ」

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村上龍の小説を読むのはこれが初めて。
これまでは過激でセンセーショナルな小説を書く作家というイメージがあって、あまり読む気になれなかったが、これを読んで、それがかなり偏見に満ちた見方だったということに気がついた。
こういう身近な人間を題材に書くこともあるのだということを、あらためて知ったのだ。
この本を読もうと思ったのは、その題名に引かれたからである。
身近で切実な響きが伝わってきたのである。

そして読んでいるうちに、以前これがドラマ化されていることに気がついた。
調べてみると、昨年6月にNHKの「土曜ドラマ」として5回シリーズで放送されていた。
観ることはなかったが、度々流されていた予告を見て、少しばかり関心をもったことを思い出したのである。

この小説は60歳前後の世代の人たちの、人生の再出発を巡る姿を描いた連作短編集である。
「結婚相談所」、「空を飛ぶ夢をもう一度」、「キャンピングカー」、「ペットロス」、「トラブルヘルパー」の5編から成り、「結婚相談所」と「ペットロス」は女性が主人公、あとの3篇は男性が主人公である。
また「キャンピングカー」は悠々自適層、「結婚相談所」と「ペットロス」は中間層、そして「空を飛ぶ夢をもう一度」と「トラブルヘルパー」は困窮層と色分けされており、いずれの主人公も人生の再出発に際して、今後どう生きるべきかを模索している。
そしてそのいずれもが、予想に反した厳しい現実と直面せざるをえなくなるのである。
そのなかで彼らが、どのように行動し解決策を見出していくのかが描かれている。

どの話もよく出来ており、いつ身近で起きても不思議ではないような話ばかりである。
なかでも「空を飛ぶ夢をもう一度」は身につまされて、深く感動させられた。
いつか自分はホームレスになってしまうのではないかという不安をもつ男の話である。
出版社を54歳でリストラされ、今では道路工事の交通誘導員をやりながら、細々と暮らしている。
そんな彼の前に、中学時代の同級生と名乗るホームレスの男が現れる。
そしてひょんなことから、その男の人生最期の幕切れに関わることになったことで、様々なことに気づかされることになる。
「生きてさえいれば、またいつか、空を飛ぶ夢を見られるかも知れない。」
重苦しい話だが、最後にかすかな希望を残して終わる。
「体力も弱ってきて、経済的にも万全ではなく、そして折に触れて老いを意識せざるを得ない、そういった人々は、この生きづらい時代をどうやってサバイバルすれば良いのか。」
そうしたことがリアルに、そしてしみじみと書かれているのである。

この5編のいずれにも共通するものとして、飲み物への拘りがある。
順番に書くと、まず蜂蜜を入れたアールグレイの紅茶、そしてイタリア産の発泡性ミネラルウォーター、ドイツ製のミルで自ら豆をひきパーコレーターで入れたコーヒー、中国式のガラスの茶瓶に詰めた良質のプーアル茶、佐世保の三川内焼の茶碗で飲む狭山の新茶と続く。
こうした飲み物についての効用を、「結婚相談所」のなかでは次のように書いている。

<誰にでも、辛いときがある。精神的に不安定になったとき、まず飲み物をゆっくりと味わうことができれば、どんな人でも気持ちが鎮まるはずだ。それは儀式のようなもので、しかも誰かに頼る必要もない。>

また「ペットロス」のなかでは、犬を通して知り合ったヨシダさんに次のように言わせている。

「ほら、よくテレビドラマとか映画とかで、パニックというか、あまりに悲しかったり、苦しかったりして、自分を失いそうになった人に、深呼吸しなさいとか言って、水を飲ませるでしょう。何かね、心が揺れて、自分自身を失っているときって、お茶を楽しむ余裕がないんですよね。ぼくは、だからお茶っていうか、飲み物は、単に水分を補給するだけじゃなくて、もっと意味があるんだと思うんですね。悲しいことや苦しいことがあるときに、ゆっくりとお茶を飲んで救われることって、多いと思うなあ。」

なるほど、そういうこともあるのだなと心底納得させられた。
そしてこうした不安を和らげてくれるものを持つことの大切さを、改めて考えさせられた。
同時にいい小説を読んだという満足感に、しみじみと浸ったのである。
村上龍の別な小説も、読んでみようと思っている。


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映画「セッション」

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主人公ふたりは、どちらも偏った人間同士。
一般社会では、決して受け入れられないような性格考えの持ち主だ。
とくに教師の桁外れの授業ぶりには、目を見張らされる。
差別用語とスラングを連発しながら生徒たちを容赦なく罵倒する。
その狂気じみた激しさには、思わず目を背けたくなってしまう。
パワハラの際たるもの。
いかに完璧を目指そうとするためとはいえ、これではまるでサディストではないか。
果たしてこれが教えるということなのか、なぜそこまで生徒たちを追いつめるのか、そんな疑問が浮かんでくる。

一方主人公の生徒も、相当の変わり者。
偉大なミュージシャンになることだけを夢見ており、そのこと以外は目に入らないという若者である。
親戚が集まった席では、田舎の大学のフットボールのスター選手である従兄に向かって、「所詮田舎のフットボール。一流じゃない。」と言ってのける。
また付き合っているガールフレンドに向かって、練習の邪魔になるから付き合いをやめるようにと一方的に宣言する。
そしてスティックが血まみれになるほどの激しい練習を、憑かれたように積んでいく。
ともに独善的なふたりのぶつかり合いが、エネルギッシュに描かれていく。
そして圧巻は、凄まじいラストシーン。
そこでふたりのぶつかり合いが最高潮に達する。
「悔しさをバネに」という教師の言葉そのままのシーンである。

それにしてもこんな展開になるとは予想もしていなかった。
観る前は、よくあるサクセスストーリーなのだろうと思っていたが、その予想は見事に覆された。
これぞ映画的快感、そして驚きのラストシーンでは、これ以上はない映画的興奮を、たっぷりと味わされたのである。

原題である「Whiplash(ウィップラッシュ)」は、劇中「Caravan(キャラバン)」とともに演奏される曲名だが、「ムチうつ」「鞭撻」という意味がある。
まさにその通りの内容であった。
ちなみに主人公の若者が、尊敬するジャズ・ドラマーとして「バディ・リッチ BUDDY RICH」を設定しているが、「Whiplash」は「バディ・リッチ」の得意とする曲目。
そのドラムテクニックが、この映画でも再現されているのである。

それにしてもこれを作ったのが、ダミアン・チャゼルという、まだ28歳の監督である。
脚本も彼自身の手によるもの。
しかもこれが初の長編監督作品というから驚きだ。
素晴らしい才能の出現である。
この監督から目が離せなくなった。


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中島たい子「漢方小説」

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先日の「院内カフェ」に続いて読んだ中島たい子の小説である。
今回も同じく病院ものというか、病気に関連した小説であったが、書かれたのは、こちらが先である。

これが2冊目になったので、参考のために著者の略歴を書いておく。

1969年生まれで東京都出身。
文化学院の高等課程美術科卒業後、同校の専門課程の建築科に入るが、多摩美術大学芸術学部映像コースに転学し、卒業。
建築家・毛綱毅曠の事務所でアルバイトをしていた経験がある。
1996年、「チキチキバンバン」で第1回日本テレビシナリオ登龍門・大賞受賞。
1997年、「宇宙のペン」で第23回城戸賞準入選。
2004年、「漢方小説」で第28回すばる文学賞受賞。
2005年、「漢方小説」で第132回芥川賞候補。
2006年、「この人と結婚するかも」で第133回芥川賞候補。
ちなみに先日読んだ「院内カフェ」は、今年出版された最新作である。

もともとは脚本家として出発した作者と同じように、この小説の主人公である「私」も、31歳の脚本家であり、作者自身がモデルとなっているようだ。
その「私」が、ある日突然原因不明の痙攣を起こして、救急車で病院に運び込まれる。
だが、検査をしても特に異状は見つからず、症状も改善されない。
そして病院を転々とした末にたどり着いたのが、ある漢方診療所であった。
そこで受けた診察と治療により、症状は徐々に改善され、回復へと向かっていく。

特別目立った出来事が起きるわけでもなく、31歳の女性のごくありふれた日常が淡々と過ぎていくだけの話だが、その語り口の軽快さに、面白く読まされる。
なかでも東洋医学の奥深さに魅せられた主人公が、関連の本を読んだり、物知りの知人から話を聞いたりしながら、漢方の世界を知って行くくだりでは、主人公とともに興味をひかれる。
勉強のためにそのくだりをいくつか書いておくことにする。

まずは「陰陽五行説」について。

<「五行説」とは古代の中国で生まれた理論で、自然界や世の中の事物を解釈したり把握しようとするときに、この五つの基本要素(木、火、土、金、水)を用いて説明づけたという。万物はこの木火土金水、西洋で言うところのエレメンツからできていて、その五つは互いに影響を与えて作用し、変化を生み、宇宙、事象、そして人間の体をも創りだしていると考える。>

<木は燃えて火を生む。火は燃えた後に土を生む。その土から金属が生まれ、金属に水滴がついて水が生まれる。そして水は気を育てる。>(『生み出す』関係)

<水は火に勝つ。火は金に勝つ。溶かすから。金は木に勝つ。これは斧が木を切るから。木は根をはって土に勝つ。土は水を堰き止めて水に勝つ。>(『抑制する』関係)

そしてこれを木→肝、火→心、土→脾、金→肺、水→腎と、五臓にあてはめて考えていく。

<この五臓は、西洋医学で言う肝臓、心臓、腎臓、肺などとは必ずしも一致しない。なぜなら中医学では、この五つの臓だけで体の基本的な生命維持機能をほとんど説明してしまっているからだ。なので必然的に西洋医学でいう脳や他の臓器の働きも、この五臓に振り分けられている。例えば東洋医学で言う『腎』は、西洋医学と同じように体液の調節をしている役割に加えて、生命力の源となるエネルギー『精』を蓄える臓器でもあるとされている。腎が弱ると、発育不全や老化現象が現れるとなっていて、それは西洋医学的に言えば内分泌系のことを指しているともいえる。『肝』にも血を蓄えるという働きの他に、自律神経的な要素がふりわけられている。
 そして生命維持の為に欠かすことができないとされている『気』『血』『水』というものがあり、五臓はこれらを滞りなく体中に巡らせる為に働いていることになっている。気功ブームがあったりして『気』という言葉も怪しげなイメージがぬぐえないけれど、『気』も西洋医学に翻訳するならば代謝、消化吸収、神経系機能と言うことができるらしい。『血』も、単なる血液とは違い、西洋医学でいう循環器や内分泌系の概念までが含まれている。これらの気血水が滞ったり不足したりすると身体のバランスが崩れて病気になるのだ。>

さらに「七情」というのがある。

<『七情』とは、代表的な七つの情緒反応『喜、怒、憂、思、悲、恐、驚』のことで、驚いたことに中医学ではこれらの感情も例の五臓に振り分けて考える。心は喜を、肝は怒を、脾は思を、肺は悲と憂をと、それぞれの臓が担当する感情が決まっている。そして各臓器と各感情は互いに影響を与える密接な関係にあるという。>

「七情」とはすなわちストレスのことで、西洋医学と同様に病因のひとつと認めている。
そしてその病因について、次のように書いている。

<病気の原因となる要素や、それが身体をおかすことを『邪気』というのに対して、『正気』はそれに負けない力、身体の防御機能が正常に働いていることを指す。相対的に邪気が正気を上まわったときに病気になるとある。『邪気』は、いくつかに分類されている。気候の変化やウィルスなど外界からくる病因。体内の調節機能の失調などによる内的な病因。そして生活習慣などによる社会的な病因、等々。『七情』も、その中の病因の一つとして取り上げられている。この七つの情緒反応が過度になったりすると、五臓を痛めて病気になるとある。怒ると肝が傷ついて血が上昇し、眩暈、頭痛などをもたらす、とか、思いすぎると脾が傷ついて消化機能が弱り、食欲減退、胃もたれが生じる。>

さらに

<万物は気からできていると考える『気一元論』が中医学の基盤をつくっている。ここでの『気』は、私たちの持っている曖昧なイメージとは違って、あくまでも存在が確かな『物質』を意味する言葉だ。気から生じ、気で動いている五臓から精神意識は生まれていると言っている。ということは精神も気であり、物質なのだ。>

斯様にこの小説によって、東洋医学の奥深い世界を垣間見ることができたわけだが、物語の面白さだけでなく、こうした雑学を知ることができるのも、小説を読む楽しみのひとつである。
いい勉強になった。


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Tags: 伊坂幸太郎  

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伊坂幸太郎「アイネクライネナハトムジーク」

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4年ぶりに読んだ伊坂幸太郎の小説である。
ここで書かれているのは6つの短編だが、それが微妙に重なり合って、最後にはすべてが繋がるという連作短編集である。
伊坂作品でいえば、以前読んだ「終末のフール」と似たような構成である。
ただし今回は、<強盗や泥棒、殺し屋や超能力、恐ろしい犯人、特徴的な人物や奇妙な設定、そういったものがほとんど出てこない>
本の惹句を借りれば、<奥さんに愛想を尽かされたサラリーマン、他力本願で恋をしようとする青年、元いじめっこへの復讐を企てるOL……。情けないけど、愛おしい。そんな登場人物たち>である。
しかし話の内容は、変わらずいつもの伊坂節。
軽妙な会話や巧妙な伏線、そしてラストにそうしたものすべてがジグゾーパズルのように見事に収まっていく。
いつもながらのサプライズに満ちた小説である。

作中たびたび登場してくる、路上で歌を売る「斉藤さん」は、歌手、斉藤和義がモデルである。
伊坂ファンならすぐそのことに気づいただろうが、残念ながらあとがきを読むまで気がつかなかった。
そして「斉藤さん」が提供する歌は、すべて斉藤和義の歌からの引用になっている。
こうしたところにも伊坂幸太郎の手の込んだサプライズが、用意されているのである。
いろんな角度から楽しめる小説である。


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桐野夏生「抱く女」

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大学時代に1年間ほど吉祥寺に住んだことがある。
1969年から1970年にかけての頃である。
今でこそ吉祥寺は、「住みたい街」1位に選ばれるほどの人気の街だが、その当時は今ほど賑わった街ではなく、駅前に古びた商店街が一筋あるだけのごく普通の落ち着いた街であった。
ただ近辺に成蹊大学があったことから、学生の姿は多く、そうした学生たちを目当てにした個性的な店も数多くあり、後に「中央線文化」と呼ばれるようなサブカルチャーの芽がいくつか見られる街であった。
この小説はそんな時代の吉祥寺を舞台にした物語である。
時代は1972年、あさま山荘事件と連合赤軍のリンチ事件があった年。
それがきっかけで、学生運動は急速に下火になりつつあった。
一方、セクト間の争いはより過激なものとなり、内ゲバが頻発するという重苦しい時代であった。

主人公は20歳の女子大生。
大学にも行かず、雀荘にたむろする男たちと酒や麻雀に現を抜かし、ジャズ喫茶でバイトをしながら無為な日々を過ごしている。
まだ何者にも成り得ていない自分には本当の居場所はなく、やり場のない焦燥を抱え、生きづらさに喘いでいる。
生きることに不器用で、しかも一面では潔白なほど生真面目で、その一方で怠惰、そんな矛盾だらけの生活を送っている。
脆く傷つきやすく未熟、そして愚かなことばかりを繰り返してしまう。
青春とは何と生き辛いものなのか。
そんな作者の思いが伝わってくる。

当時の吉祥寺には、「FUNKY」というよく知られたジャズ喫茶があった。
そしてそれに対抗する後発のジャズ喫茶「MEG(メグ)」があった。
それが小説のなかに登場するふたつのジャズ喫茶「COOL」と「CHET」のモデルになっている。
どちらも当時何度か足を運んだ場所である。

斯様に記憶の重なる部分がいくつかあり、親しみを覚えるものの、それでも懐かしさよりもむしろ、苦さの方を強く感じてしまう。
青春とは輝かしく楽しいばかりではない。
いやむしろ暗く苦しいことの方が多い。

作者の桐野夏生にとってこの時代は、避けて通り過ぎることのできない時代、どうしても一度は書かなければならない時代ということのようだ。
そうした切実さが、この小説からは伝わってくる。

題名の「抱く女」は、当時盛んになり始めたウーマンリブ運動の「抱かれる女から抱く女へ」というスローガンから採られている。
自立を果たすためには、人は何と多くの関門を潜り抜けねばならないことか、そんな感慨を持ちながら、小説を読み終えた。


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Category: 外国映画

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映画「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」

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哲学的な言葉を散りばめて、時空間を自在に行き来する、現実と幻想が入り混じり、どれが現実なのか、幻想なのか、判然としない。
しかしそうした疑問を軽く躱し、物語はどんどんと進んでいく。
その内容に戸惑いながらも、置いてきぼりを食わないようについていくのに懸命である。
途中息切れしそうになるものの、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督独特の映画マジックに乗せられて、いつしか目が離せなくなったしまった。
実験精神溢れた映画である。
主演は久々に見るマイケル・キートン。
バットマンで名を馳せたものの、その後長く低迷が続く彼が、現実の彼自身と重なるような役柄を演じているのが、いかにも皮肉である。
演じるリーガン・トムソンは、当たり役バードマンで一世を風靡した俳優である。
しかしその人気は今はなく、落ち目からの起死回生を図ろうと、ブロードウエーの舞台で主演を務めるものの、いかにも前途多難、その涙ぐましい悪戦苦闘ぶりが描かれていく。

マイケル・キートンの老醜を曝け出した鬼気迫る演技が見応えある。
さらに彼に絡むエドワード・ノートンが、それに負けず劣らずの切れっぷり。
ふたりの演技合戦と、舞台での演技合戦が重なって、奇妙な面白さに笑える。

まるでワンカットで撮られたような撮影方法(まさにこの映画が一幕ものの舞台であるかのような)、全編に流れるドラムスの音、しかもそのドラマーの姿が時々挿入されていくという驚きの撮影スタイルは、いかにもイニャリトゥ監督らしい実験精神に満ち溢れている。
彼の映画はこれまで「21グラム」、「バベル」、「BIUTIFUL ビューティフル」と観てきたが、作品ごとに違った手法を駆使して、斬新な映像を見せてくれる。
理屈で観るというよりは、感覚で観る映画、まるで前衛ジャズを聴くかのようなとでも謂おうか。
一筋縄では行かない監督である。

果たしてリーガン・トムソンは起死回生を図ることができるのか?
それは映画を観てのお楽しみだ。


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年齢:今年(2008年)還暦です。
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還暦という節目を迎え、何か新しいことを始めようとブログを開設しました。
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末永くおつき合いください。

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