風に吹かれて

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Category: 読書

Tags: 藤沢周平  時代小説  短編小説集  

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藤沢周平「長門守の陰謀」

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藤沢周平の小説を読む毎日が続いている。
「日暮れ竹河岸」「麦屋町昼下がり」「時雨のあと」そして「闇の梯子」と続いて、5冊目の今回は「長門守の陰謀」である。
こちらもこれまでと同じく短編集であった。
「夢ぞ見し」「春の雪」「夕べの光」「遠い少女」「長門守の陰謀」の5篇が収められているが、初出は「長門守の陰謀」だけが1976年で、あとの作品は1977年である。
すなわち藤沢周平の作家生活も、ようやく5年目を迎えた頃の作品ということになる。
このころになると、初期の暗い作風から抜け出して、ユーモアを感じさせるような明るい作品が目につくようになってくる。
そのことについて藤沢周平は次のように書いている。
<「用心棒日月抄」あたりからユーモアの要素が入り込んできた。北国風のユーモアが目覚めたということだったかも知れない。>
「用心棒日月抄」が、1976年からの連載開始となっているので、これらの作品と同時期ということになる。
そんな明るいユーモアが、もっともよく表れているのが、「夢ぞ見し」という作品である。

昌江は小寺甚兵衛と18歳で結婚して10年が経つが、まだ子どもには恵まれていない。
甚兵衛の禄高は二十五石という微禄で、さらに風采があがらず、おまけに口が重く話し相手にもならない。
帰宅は毎晩遅く、帰れば飯を食べ終わるとさっさと寝てしまう。
そんな毎日に昌江の不満はつのる一方である。
ところがある日、この家にひとりの若者が転がり込んでくる。
そしてそのまま居候として居ついてしまう。
最初は胡散臭く思っていた昌江だったが、どこか育ちの良さを感じさせる美男の若者を、次第に好ましく思うようになってゆく。
そして変化がなく平凡な毎日に飽き飽きしていた昌江の日常が、急に生き生きと華やいだものになっていくのであった。
実はこれには意外な事実が隠されており、さらにその話の中で夫甚兵衛が実は藩内では並ぶ者のない剣客であることも分ってくる。
読みながらニヤリとさせられるようなユーモアがあり、まるでかつての東映映画に出てきそうな明朗時代劇といった趣きであった。

続く「春の雪」は山本周五郎の「さぶ」を連想させるような内容で、女心の不可思議さを題材にしたものである。

「夕べの光」は、死んだ亭主の連れ子を、乳飲み子の時から育てているおりんに縁談が持ち上がる。もう若くはないおりんの心が揺れるという話である。

「遠い少女」は、順調に歩んできたはずの自らの人生に、ふと疑問や悔恨を感じた中年男が、昔好きだった女と会い、失った青春を取り戻そうとする話。

いずれもありふれた日常に、思いがけない出来事がふと訪れて、戸惑ったり思い煩ったり、といった話である。
その後にまた元通りの日常に帰っていくことになるわけだが、それは同じような日常に見えても、けっして同じというわけではない。
そこにちょっとだけ新しい要素が加わわることで、それまで見えていた日常とは、また少しだけ違った色彩を帯びて見えてくるのである。
そうした庶民の暮らしの機微から滲み出てくる哀歓は、時に苦くもあり、また哀しくもある。

そして最後は表題作の「長門守の陰謀」である。
これは藤沢周平の故郷、山形庄内藩で実際に起きたお家騒動を題材にしたものである。
「長門守一件」と呼ばれるこの事件は、藩主酒井忠勝の弟、長門守が自らの嫡子を次期藩主に据えようと、お家乗っ取りを企てたものである。
雑誌「歴史読本」が「徳川300藩騒動録」という特集を組んだ際に原稿依頼されたもので、これを書くために藤沢周平は残された資料をかなり入念に調査したようだ。
そしてこれを書いたことで、後のお家騒動物の骨格が出来上がったというのが定説だ。
そうしたことからこれは藤沢周平の著作集のなかでも、重要な位置を占める作品ということになっている。

さてこの次に控えているのは、「隠し剣 孤影抄」「隠し剣 秋風抄」「驟り雨」の3冊である。
正月休みは3日間だけだが、その間に読もうと先日図書館で借りてきたものだ。
そういうわけで、引き続き正月も、藤沢周平三昧の日々になりそうだ。


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Category: 弘前

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クリスマス・イルミネーション

クリスマス・シーズンのイベントとして、全国各地ではさまざまなイルミネーションがお目見えしている。
わが弘前市でも、この時期になると街角にさまざまなイルミネーションが飾られ、市民の目を楽しませてくれている。
そんなイルミネーションのいくつかを写真に撮ったので、紹介しようと思う。
以下のようなものである。

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これらのイルミネーションの多くは、市民のボランティアによって支えられているようだ。
年々少しづつ設置箇所が増えており、今ではなくてはならない冬のイベントになっている。
このまま順調に育っていってほしいものである。


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Category: 読書

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藤沢周平「闇の梯子」

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先日の「時雨のあと」に続いて読んだのが、この短編集である。
こちらも「時雨のあと」同様初期に書かれたものであるが、1973年から74年にかけてのものなので、「時雨のあと」の前年、前々年の作品ということになる。
「暗殺の年輪」「又蔵の火」に続く第3作品集で、「父と呼べ」「闇の梯子」「入墨」「相模守は無害」「紅の記憶」の5篇が収められている。

よく知られているように藤沢周平の初期の作品は、暗く救いのない話が多い。
それは藤沢周平が「ひとには言えない鬱屈した気持ちをかかえて暮らしていた」ことの反映であり、「胸のうちにある人の世の不公平感に対する憤怒、妻の命を救えなかった無念の気持ちは、どこかに吐き出さねばならないものだった。」からである。
それがもっともよく表われているのが、表題作の「闇の梯子」である。

主人公の清次は、いつか売れっ子の板木師になるという夢を抱いて、女房のおたみとふたり裏長屋でつましく暮らしていた。
そこに昔の仕事仲間である酉蔵という男が、ある日突然訪ねてきた。金の無心であった。
昔は腕利きの板木師だった酉蔵だが、博打に溺れ、それがもとで身を持ち崩し、今ではまともな世界では生きていけない男になっていた。
そんな男だと分っていながらも清次は金を貸す。
そしていちど貸した金は返ってくることはなく、それどころかつぎつぎと理由をつけては金をむしりとっていくようになる。
清次には弥之助という兄がいる。
優しかった兄だが、身を持ち崩し、今は行方知れずのままである。
清次が酉蔵の無心を断り切れず受け入れてしまうのは、そんな兄の面影と重なってしまうからである。

<「酉蔵という人はな」
鑿(のみ)を動かす手を休めて、清次は壁に眼を投げた。
「行方が知れねえと話した兄貴に似てるんだな。顔が似てるというんじゃなくて、どう言ったらいいか、つまりまともに世渡り出来ないたちだということだ。兄貴もそうだった。」
「・・・・・」
「一町三反歩の田畑と家屋敷を潰しても立ち直れなかった。悪くなってゆくばかりだった。梯子を下りるように、だんだんにな」>

そんな気持ちで酉蔵に金を貸し続けるが、しかし貧しいなかでの金の工面にも限度があり、次第に清次の手に余るようになってゆく。
さらに悪い時には悪い事が重なるもので、女房のおたみが突然病で倒れてしまう。
そしてそれが不治の病だと医者から告げられるのである。

<おたみがいない人生というものは考えられなかった。それがどういうものか、想像もつかなかった。身体がひとりでに膨らんでくるような、たっぷりと希望が溢れていた時期があったのだ。一枚絵の注文もとって、江戸で押しも押されもしない板木師になる。弟子を養い、やがて彫清の看板をあげる。おたみはおかみさんと呼ばれ、小まめに弟子たちの面倒をみて慕われるだろう。子供は男と女が一人ずついる。
 半年前まで、そんな希望が確かにあったことが、ひどく残酷に思われた。
 荒涼とした、見たこともない風景が眼に見えてきた。頭上には一面の黒い雲がひろがり、遥かな地平線に血のような夕映えがあり、夕映えは頭上まで雲の腹を染めていた。地上には夜ともつかず、日暮れともつかないほのかな光が満ちているばかりで、枯れた草と黒い土がどこまでも続いている。まれに立つ樹は、一枚の葉もない黒い裸木で、その幹を地平から来る光が赤く染めている。どこまで歩いても、四方のひろがりには人影もなく、物音も聞こえなかった。>

それでも清次は何とかおたみの病を治そうと、金策に走り廻る。
そして手をつけてはいけない金にまで手をつけてしまう。
それでも足りず、高い手間賃を出すという禁制本の板木彫りにまで手を染める。
しかしおたみの病は治る兆しもなく、最後には医者からも見離されてしまう。

絶望的な気持ちの清次の眼の前に、一本の梯子の幻影が立ち現れる。

<日の射さない闇に、地上から垂れ下がる細く長い梯子があった。梯子の下は闇に包まれて何も見えない。その梯子を降りかけている自分の姿が見えた。兄の弥之助が降りて行き、酉蔵が降りて行った梯子を。>

暗く切ない話である。
どこにも救いの光は見られない。
ただ何も見えない暗闇だけが、不気味に口を広げて横たわっているだけである。

おそらくこれは前妻が誕生前の娘を残して、28歳という若さで亡くなった藤沢周平自身の身の上が、色濃く投影されているのであろう。
その時の絶望感が、そのまま主人公の気持ちとなって吐露されたのに違いない。
腹の底にズシンと響く話であった。

さらにこの他の短篇も、いずれ劣らぬ力作ぞろい。
「父(ちゃん)と呼べ」は、行く当てのなくなった子供を引き取った長屋の夫婦の話。
最初はお荷物だった子供が次第に愛しくなり、ついには手放せないほどになってしまう。
小津安二郎監督の映画「長屋紳士録」を彷彿させるような話であった。

「入墨」は江戸版「父帰る」である。
姉妹で切り盛りする飯屋の店先に、いつかひとりのみすぼらしい老人が立つようになる。
それは放蕩の末、幼かった姉妹を捨てて行方知れずになっていた父親の、落ちぶれた姿であった。
姉のお島はそんな父親を許さず、店に入れようとはしない。
だが妹のおりつは姉の反対を押し切って店に招き入れ、酒を呑ませてやる。
以来店を訪れるたびに酒を出してやるようになるが、お島は見てみぬふりをする。
そんな折、お島のかつての情夫である乙次郎というやくざ者が帰ってくる。
そして事件が起こる。その結末は切なく哀しい。身につまされる。

最後は「相模守は無害」と「紅の記憶」という武家物2篇である。

「相模守は無害」は海坂藩を舞台にした隠密もの。
藩と幕府が放った隠密との攻防戦が読み応えがある。

そして「紅の記憶」は武家の次男坊で一刀流の達人である主人公が、婿養子となるはずだった娘とその父親の無念を晴らすため、ひとり敵に立ち向かっていくという話である。

いずれも短篇ながら中味の濃い物語であった。


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藤沢周平「時雨のあと」

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「雪明り」「闇の顔」「時雨のあと」「意気地なし」「秘密」「果し合い」「鱗雲」の7篇からなる短編集。
いずれも初期の作品で、1975年から76年にかけて書かれたものである。
「時雨のあと」「意気地なし」「秘密」が市井物、「雪明り」「闇の顔」「果し合い」「鱗雲」が武家物という構成である。

登場人物は、いずれも貧しい町人や下級武士たち。
一生陽の当たることのない人たちである。
貧しさのなかで日々の糧を得るためだけに懸命に生きている。
そんな彼らにさらなる困難が襲い掛かる。
それをいかに乗り越えていくか、どうやり過ごすことができたのか。
そうした顛末が人と人との触れ合いのなかで、丁寧に描かれていく。
そして出口の見えなかった暗闇に一筋の光が射す。
そうした一瞬の輝きに、心和ませられる。

人は思うようには生きられない。
ごく当たり前の生活さえも、ままならない時がある。
そんな時、人はどんな選択をし、どう生きていけばいいのか、そうしたことを藤沢周平の小説は優しく教えてくれるのである。


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Category: 外国映画

Tags: 西部劇  

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映画「ワイルド・レンジ 最後の銃撃」

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2005年にいちど観て感銘を受けた映画である。
それが昨日のBSプレミアムで放送されたので、またもういちど観直した。
そしてやはりこれは隠れた名作であるとの認識を新たにしたのである。
これほどいい映画でありながら、ほとんど話題にもならず、また賞とも無縁の映画である。

2005年にこれを観た後、この映画について書いている。
参考までに載せておく。

<「ポストマン」以来6年ぶりにケヴィン・コスナーが製作、監督、主演した西部劇である。
 ケヴィン・コスナーといえば過去に「ダンス・ウイズ・ウルブス」、「ワイアットアープ」、さらにはSF仕立ての西部劇「ポストマン」と、製作、主演、監督した西部劇が3本もある。
(後に調べて判ったことだが、「ワイアットアープ」は彼の監督作ではなく、製作、主演のみ、監督はローレンス・カスダン。なおこの監督が1985年に撮った西部劇「シルバラード」にもケヴィン・コスナーは出演している。)
 西部劇が作られることの少なくなった近年のハリウッドにおいて、この数はかなりのものだ。
 彼の西部劇へのだわりのほどがうかがえる。
 それはおそらくインディアンの血をひくといわれる自らのルーツに対するこだわりからくるものに違いない。
 そんなケヴィン・コスナーらしい本格的西部劇である。
 
 牛を追うカーボーイ4人の一行がある町を通り過ぎようとするが、その町の悪徳牧場主から道理に合わない言いがかりをつけられて、仲間のひとりが殺され、さらにひとりが瀕死の重傷を負わせられる。
 そして牛まで奪われそうになってしまう。
 残されたふたりは圧倒的な不利を承知で、悪徳牧場主一家との対決に立ち上がる。
 ストーリーは西部劇にはありがちの、ごくありふれたものである。
 だがこの映画のいいところは味わいのあるデティールを丹念に積み重ね、西部に生きる男の心意気を描き切ったところだろう。

 カーボーイ一行のボスを演じているのが名優ロバート・デュバル。
 ケヴィン・コスナーとは10年来の相棒で、「ボス」「チャーリー」と呼び合うが、未だにお互いの本名も、過去も知らない。
 チャーリーは南北戦争の帰還兵で、その後はガンマンとして幾たびか修羅場をくぐりぬけ、だがそんな殺伐とした生き方にも疲れ果て、荒野に身を投じたという過去がある。
 いっぽうボスもかつては妻も子供もある牧場主だったが、何らかの事情で家族を失い、以後放牧を生業としたカーボーイ生活を続けている。
 ともにわけありの過去があるものの、あえてそのことに触れようとはしない。
 お互いを思いやる優しさと、今現在のお互いが人間的な信頼で結ばれていればいいという暗黙の了解がそこにはある。
 そして師弟愛とも呼びたいような良好な関係がふたりの間に築き上げられている。
 長年西部の荒野を生き抜いてきた無骨な男どうしの節度ある友情が心地良い。
 さらにアネット・ベニング演じる町の気丈な女性とケヴィン・コスナーとの不器用な恋がこの映画にもうひとつの色合いを付け加えている。
 もうけっして若くはないふたりの木訥な愛情表現がほほえましい。
 そしてそれを見守るボスの慈愛に満ちた眼差し。
 血なまぐさい決闘を前に、一服の清涼感を与えている。
 だがそんな平和なひとときを振り払い、正義を貫くためにふたりは決闘の場へと赴く。
 「生命と財産を守る権利は持っている」と言い切るボスの潔さ、決闘を前にボスがスイス産のチョコレートとキューバ産の葉巻を奮発、お互いの本名を教え合うエピソード、死を覚悟しながらもユーモアを忘れないボスとチャーリーの心意気、また雨で洪水になった町の大通りで流された子犬をチャーリーが助け、そのことで町の人々の信頼を得るといったエピソードなどが挿入されることで物語をさらに豊かなものにしている。
 また西部の大自然の雄大さ、厳しさが美しい映像で捉えられていることも、この映画を印象深いものにしている大きな要素だ。
 いい西部劇には詩情がある。
 この作品もその例に洩れない。
 西部劇にこだわり続けるケヴィン・コスナーの集大成ともいうべき作品である。 >

こんな感想であった。
そしてそれは今回観ても変わりはない。
というよりも前回以上にこの映画のよさを再認識したのである。
この映画は単に西部劇としての面白さだけでなく、人間ドラマさらにはラブ・ストーリーとしても優れており、台詞のひとつひとつが身に沁みて響いてくる。
繰り返し何度でも観たくなる映画である。


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Category: 日本映画

Tags: 小津安二郎  

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小津安二郎 生誕110年、没後50年

昨日12月12日は小津安二郎の命日だった。
同時に小津安二郎の誕生日でもあった。
小津安二郎は1963年12月12日、自らの60歳の誕生日に亡くなっている。
すなわち今年で生誕110年、没後50年になる。
それに合わせて各地で上映会などさまざまな催しが行われている。
そのひとつとして昨日のGoogleのトップページのロゴDoodleは「東京物語」のワンシーンになっていた。
こんな画像である。

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また昨日の朝日新聞の「天声人語」にも小津映画が採り上げられていた。
<苦楽をともにしてきた老妻が死んで、葬式もすんだ。隣家の奥さんが通りかかって「お寂しゅうなりましたなあ」。「一人になると急に日が長(なご)うなりますわい」。つぶやく夫の向こうに瀬戸内の海――。変哲もないシーンながら、映画「東京物語」のラストは何回見ても胸にしみ入る。>から始まるもので、小津映画のなかに描かれた「絆」について書かれたものであった。

また先日出版されたBRUTAS12月1日号では「小津の入り口。」と題した小津特集を組んでおり、写真による小津映像の再現など、さまざまな面白いアプローチが行なわれていた。

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そして昨日NHK BSブレミアムで「小津安二郎・没後50年 隠された視線」というドキュメンタリーが放送された。
女優の司葉子、岡田茉莉子、香川京子、当時助監督であった吉田喜重、篠田正浩、また「早春」「彼岸花」「お早よう」などのプロデューサーであった山内静夫など、小津映画の現場に携わった人たちへのインタビューを通して、小津映画がどのようにして出来上がっていったのか、また小津映画に隠された様々な謎を解き明かそうと試みたものであった。
このなかで興味をひかれたのは、吉田喜重が語った「小津さんの映画のなかで力を持っているのは、見せることではなく、隠されてることなんですね。」という言葉であった。
そして「東京物語」を例にとって、それを解き明かしていく。
映画の冒頭、尾道から上京してきた両親が訪れる長男の病院は、看板が写されるだけで、建物が写されることはない。
また長女が営む美容院も同様である。
さらに東京見物の最後に訪れたデパートの上から眺める東京の街の映像も、観客には示されない。
映画のさまざまな場面で、こうした仕掛けがなされている。
それについて吉田喜重は「見せないことによって観客の想像力をそのまま持続してもらう。映像を見せることよりも観客の想像力のほうが強いんだということを小津さんは主張をしているんですね。」と説明する。
なるほど大いに頷ける話である。説得力充分な分析である。
こうした見方は今回の番組で初めて知った。
これはほんの一例だが、小津映画にはこのように汲めども尽きない深い意味や秘密が、まだまだ眠っていることを、この番組を観ながらあらためて実感した次第である。


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藤沢周平「麦屋町昼下がり」

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先日読んだ「日暮れ竹河岸」は町人を主人公にしたものばかりを集めた短編集だったが、こちらは武家物ばかりを集めた短編集である。
表題作の「麦屋町昼下がり」のほか「三ノ丸広場下城どき」「山姥橋夜五ツ」そして「榎屋敷宵の春月」の4編が収められている。
いずれの題名にも時と場所を表す言葉が入っており、その時と場所が物語のクライマックスになるという共通点がある。
「麦屋町昼下がり」は、料理茶屋に立てこもった因縁ある男、しかも自分よりも明らかに腕の立つ男を相手に討手として決闘を挑む。
「三ノ丸広場下城どき」は、お役目失敗の責任を取らされて落ちぶれ果てた男が、藩内の権力争いに巻き込まれ、かつての同僚で、今は争いの首謀者となっている男と雌雄を決するために戦う。
「山姥橋夜五ツ」では藩の不正が秘かに行われるなか、朋友が自害へと追い込まれる。その無念と、家禄が削られた自らの過去の事件の真相を晴らすため、放たれた刺客と剣を交える。
さらに「榎屋敷宵の春月」では、夫の出世争いに巻き込まれた武家の妻が、正義のため謎の刺客と戦うことになる。
いずれもミステリアスな展開のなか、最後は命をかけた修羅場を潜り抜けることで事件解決へと至る。

これらの作品が書かれたのは、昭和62年(1987年)から64年(1989年)にかけてのことで、同時期には「蝉しぐれ」「たそがれ清兵衛 」「三屋清左衛門残日録」などが書かれている。
これらの作品からも分るように、もっとも油の乗り切った時期である。
それだけにどの作品も藤沢周平らしい手馴れた腕の冴えが見られ、読み応えじゅうぶんであった。
さらに読み終わった後の余韻も、いつもどおりの爽やかで心地よいものであった。

これまでにも「蝉しぐれ」をはじめ代表作のいくつかは読んではいるものの、まだまだ未読の小説はたくさんある。
これでますます他の小説も読みたくなってきた。
引き続きいろいろと漁って読んでようと思っている。

ところでこれらの作品のモチーフになっている江戸時代の時間について、おさらいの意味も含めてちょっと調べてみることにした。
次のような内容であった。

江戸時代の時刻は一日が12刻である。
基準になっているのは明け六ツ(日の出)、暮れ六ツ(日没)で、それをそれぞれ6等分したのが一刻になる。
すなわち一刻は2時間で、半刻が1時間である。
さらに0時は九ツから始まり、以後2時間ごとに八ツ(2時)、七ツ(4時)、六ツ(6時)、五ツ(8時)、四ツ(10時)と数が小さくなっていき、再び九ツ(12時)へと戻る。
なぜ九ツから始まるかといえば、易学では九がめでたい数ということに由来している。

以上が江戸時代の時間についての大まかな説明である。
こうしたことを豆知識として覚えておくと、時代小説を読むうえで幾分かの手助けになるのではなかろうか。


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藤沢周平「日暮れ竹河岸」

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「江戸おんな絵姿十二景」と「広重「名所江戸百景」より」を合わせた19編からなる小説集である。
いずれの小説も一枚の浮世絵から想を得て書かれたもので、「江戸おんな絵姿十二景」は原稿用紙で10枚程度、「広重「名所江戸百景」より」は10数枚という小品ばかりで、どちらの題名にも「景」の文字が入っているように、江戸の町に生きる市井の人々の何気ない姿をスケッチしたものである。
物語と呼べるほどの劇的な展開はなく、ごくありふれた日常のひとコマを切り取ったものばかり。
しかしその何気ないスケッチのなかから浮かび上がってくるのは、名もなき人たちの哀しみであり、喜びである。
そのようにありふれた生活の断片を切り取るだけで、こうした哀歓を紡ぎ出せるのは、やはり名手藤沢周平のなせる業。
いずれの話もこの後どう展開していくのか、期待に胸膨らませられる。
続きが無性に読みたくなってしまう。
それぞれの登場人物たちのその後がどうなったのかが気になってしかたがない。
だが、それには応えてくれないままに物語は終わってしまう。
その点がいささか残念ではあるが、しかしこれも藤沢小説の芸のひとつなのかもしれない。
短いなかにも情の世界が凝縮されており、それだけに却って情景が深く印象に残ってしまう。
そして名もなき人たちのその後を勝手に想像して余韻を楽しむという余禄にあずかった次第である。
なかでも「雪の比丘尼橋」は絶品であった。
これひとつを読んだだけでも、この小説集を読んだ値打ちがあるというものだ。


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Author:cooldaddy
住んでいるところ:青森県弘前市
出身地:香川県
年齢:今年(2008年)還暦です。
性別:男

還暦という節目を迎え、何か新しいことを始めようとブログを開設しました。
趣味のこと、生活のこと、心に残ったことなど、My Favorite thingsを、気ままに書いていこうと思います。
末永くおつき合いください。

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