風に吹かれて

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「半沢直樹」最終回

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数々の話題を呼んで迎えた「半沢直樹」の最終回、その視聴率が昨日発表された。
関東地区で42・2%、関西地区で45.5%。
さらに瞬間最高視聴率は50・4%というもの。
驚異的な数字である。
そしてその数字通りに、最終回は緊迫感あふれる展開だった。
なかでも大和田常務(香川照之)の不正を暴く取締役会でのシーンは最高の見せ場であった。
100倍返しがどうやってなされるのか、固唾を呑んで見つめた。
そして最後は半沢が大和田常務に土下座を迫る。
しかし容易に応じようとはしない。
苦悶に全身を震わせる大和田常務。
そこに半沢の涙を流しながらの絶叫が覆いかぶさる。
「やれー!大和田!」
息を飲む圧巻のシーンであった。



そしてラストの中野渡頭取(北大路欣也)の裁決へと続いていく。
ここで思いもよらない人事が言い渡される。
大和田常務は、取締役として残留、半沢は子会社「東京セントラル証券」へ出向というもの。
これには正直驚きととまどいがあった。
これほどの働きをした半沢に、なぜこのような仕打ちがなされるのか。
そうした感想は多くの人が抱いたようで、ネット上でもこのことについての意見が飛び交った。
続編があるかもしれないという含みを持たせた演出なのではないか。
いちばんの悪は、実は中野渡頭取なのではないのか。
そうしたさまざまな感想や憶測が寄せられていたが、実際この裁決には首を傾げざるを得ないものがある。
それでもこれは原作どおりの結末だそうだ。
そうは言っても、どうしても割り切れないものが残ってしまう。
そんな時、ネットで次のような解説に出会った。
それを読んでなるほどこういう見方もあるのだと、幾分もやもやしたものが晴れた。
参考までに引用しておくことにする。
同じような感想を持った人たtには、幾分かでも参考になるのではなかろうか。

まず大和田常務の降格残留だが、金融庁検査のあと、定例の役員異動でもない時期に常務の更迭ということになれば大問題である。
またそのことで内部スキャンダル発覚となれば、全体への影響があまりにも大きい。
大和田常務は問題も多いが、銀行員としては実績もあり、仕事も出来る。
そこで寛大な措置をとって残留させ従順な部下として使うことができれば、彼の出身母体の行員たちも大和田同様上司に従順になり、中野渡政権は安定する。

いっぽう頭取の制止を振り切り、多くの役員の前で大和田に土下座させた半沢は、いかに能力はあろうとも銀行という組織においては異分子であり、危険このうえない人物ということになる。
また金融庁からも問題視された彼をいったん異動を命じることで、金融庁への申し開きもできる。
またこうした冷却期間を置くことで、本人への反省を促すことにもなる。
そしてその後昇格をさせて銀行に戻すことで、より強力な銀行マンとして腕を振るわせることができる。
そうした含みがこの人事にはあるのではないかという。

結果的に見れば、半沢はやり過ぎたということになるのかもしれない。
しかしそれこそがこのドラマの魅力であり、ここまで視聴者を惹きつけてやまなかった最大の要因でもある。
大人しい半沢直樹など見たくもないのである。
銀行という組織においては現実にはここまでのことができないからこそ、やり過ぎるほどの男、半沢直樹に惹きつけられたのである。
どこまでも型破りの男でいてほしい、そして自分たちにはけっして出来ないことを、とことんやって不正を正して欲しいというのが、視聴者の偽らざる願いなのである。

いずれにしても、このままでは終わらないのではないと予感させるものが、このラストからは伝わってくる。
果たして続編が作られることになるのかどうか、確かな情報はまったくないが、ファンとしては、さらなるドラマが展開されることを期待を込めて願っているのである。


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Category: 日本映画

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映画「横道世之介」

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特別何かが起きるというわけではない。
普通の若者のごく当たり前な大学生活が描かれるだけ。
それなのに見終った後は、ほっこりと心温かくなる。

横道世之介は長崎県生まれの18歳、純でお人好しな田舎の若者である。
彼が東京の大学に入学するところから物語は始まる。
時代は1980年代中頃。
入学早々友達もでき、サークルにも入り、アルバイトをし、さまざまな人たちと巡り合い、恋もする。
そんなありふれた大学生活だが、それがもう二度と手にすることのできない貴重でかけがえのない瞬間だったことに気づかされるという仕掛けがされている。
それに気づかされた時、胸が締めつけられるような切ない気持ちにさせられる。

世之介を演じた高良健吾の脱力系演技が素直でいい。
こうした演技には、どことなくわざとらしさがつきまとうものだが、彼の演技にはそれがない。
ごく自然に世之介を演じている。
さらに世之介と付き合うことになる良家の娘、与謝野祥子を演じた吉高由里子のキャラクターにも魅了された。
彼女も世之介に負けず劣らぬおかしな娘で、世間ズレしていない無邪気さで世之介にまとわり着いてくる。
ふたりは今の言葉で言えば「バカップル」ということになるのだろう。
友達づきあいなのか、それとも恋愛なのか、本人たちにもよく判らないような関係である。
しかしそのふたりの変な付き合いはけっして嫌味なものではなく、微笑ましく、笑いながらもふと涙してしまう。
そして見ているうちに、いつしかふたりを応援したくなってしまうのである。

おそらくこうした大学生活を経験した人は少なからずいるはずだ。
そうした人たちは、これを見ることで、自分の大学生活を思い出し、しみじみとした感慨に耽ることになるだろう。
そして忘れていた友人たちの顔を思い出し、またもういちど彼らと会ってみたいと思うにちがいない。

何でもない事がやたら面白かった時代、今思えば何と愚かで自由だったことか。
そのモラトリアムな自由をどう使えばいいかも判らず、ただ無為にやり過ごすだけの日々。
そんな愚かで無防備な日々の何と貴重で楽しかったことか。
そしてそれが永遠に続くかのように錯覚していたのである。
しかしそれはいつか終わり、そして過ぎ去った時代は、けっして戻ってくることはない。
だからこそ、それはいつまでも輝きを失うことがない。
そんなことをこの映画はしみじみと思い出させてくれたのである。


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Category: 日本映画

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映画「風立ちぬ」

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何よりも絵が素晴らしい。
大正から昭和にかけての東京の町並みの美しさ、ノスタルジックでどこか異国情緒を感じさせる佇まい。
さらに物語の発端となる関東大震災の凄まじい迫力。
地震が獣のように襲いかかってくる様は、先の東北大震災を連想させて思わず身が引き締まった。
そしてそのなかを逃げ惑う大群衆の精緻な描き方。
手書きアニメの究極ともいえるような描写に心底圧倒されてしまった。
こうした力強い映像に引きずられ、あっという間に物語の世界へと没入していった。

また美しい自然描写や空飛ぶ浮遊感はこれまでの宮崎アニメ同様で、いやそれ以上に楽しませてくれた。
なかでもさまざまに表情を変える風の描写はとくに印象的だ。
見えない風を描く事が宮崎アニメの重要なファクターだと、どこかで読んだ記憶があるが、なるほどそれが納得できる描き方である。
さらにその風を物語の重要な道具立てとして使う演出もニクい。
風で飛ばされた帽子を掴まえる出会いのシーン、さらに再会のシーンでは突風に飛ばされたパラソルがその仲介をする。
使い古された描写ではあるが、それが主人公ふたりの古典的な恋愛によく似合う。

考えてみればジブリの最初のオリジナルが「風の谷のナウシカ」であったが、「風」のついたタイトルはそれ以来のことになる。
しかも宮崎アニメの最初と最後の作品にそれが使われたところに、特別の意味を感じてしまう。
そういえば、スタジオの名前である「ジブリ」も「熱風」という意味で、これも風に関連したものである。
まさに風の集大成ともいえる作品である。
さらにいえば空を飛ぶことの集大成でもある。

物語は零戦の設計者である堀越二郎の半生と、堀辰雄の小説「風立ちぬ」を合わせて紡ぎ出されたものである。
戦争という激動の時代に、飛行機の設計を夢見た青年がそれを着々と実現していく姿が描かれている。
そのなかで魅力的な人物たちと出会う。
飛行機設計の夢のきっかけとなったイタリアの飛行機設計家ジャンニ・カプローニ、飛行機設計のライバルであり親友でもある本庄、上司の黒川、謎のドイツ人カストルプ、そうした人物たちとの幸せな出会いが二郎の技術と成長を支えていく。
そしてもっとも重要な恋人、菜穂子との出会いと別れ。
この部分は堀辰雄の小説「風立ちぬ」をベースに展開されていく。

その愛の物語は、これがアニメかと思わせるような叙情性と官能性に満ちている。
なかでも上司の黒川の屋敷であげるふたりだけの婚礼は、息を飲むような美しさであった。
これは間違いなく宮崎アニメが初めて描いたメロドラマである。
そうした意味でも、この作品はこれまでのジブリ作品とはいささか肌合いを違えている。
さらに堀越二郎の半生に宮崎駿のアニメ人生をダブらせたような描き方も、これまでの宮崎アニメとは一線を画すものである。
もちろんこれまでの作品においても宮崎駿個人の趣味的なもの、拘りの数々が詰め込まれてはいるが、今回はそれとはまた違った人間・宮崎駿の心情が覆い隠すことなく吐露されているのである。
堀越二郎の美しいもの、より良いものを作り上げようとする情熱と努力、好きなことを精一杯追求しようとする姿勢、そこに同じ技術者としての宮崎駿の共感と賛同が込められている。
それは宮崎駿の50年に渡るアニメ人生ともダブるものである。

初号試写を観て宮崎駿は涙を流したそうだ。「自分の作った映画を観て泣いたのは初めて」だという。
言葉に尽くせぬさまざまな思いが去来したのだろう。
きわめて印象深いエピソードである。
そうしたことを考えてみても、宮崎アニメの最後を飾るのにこれほど相応しい作品はないのではないか。
そして72歳という年齢にもかかわらず、まだまだ少年のような瑞々しい感性を持ち続けている宮崎駿の引退は惜しんで余りある。
と同時にそこにはやり遂げた後の清々しさも感じられる。
それは物語の最後で二郎とカプローニが草原の風に吹かれながら語り合うシーンともダブってくる。
この映画のキャッチコピー「生きねば。」が自然と胸に染み入ってくる。
「風立ちぬ、いざ生きめやも」(ポール・ヴァレリー)なのである。





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Category: 読書

Tags: 村上春樹  

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村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、 彼の巡礼の年」

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図書館で長く予約待ちをしていたが、ようやく順番が廻ってきた。
出版されたのが今年の4月だから、4ヶ月近く待ったわけである。
それでも予約を入れたときには、すでに30数人の予約待ちがいたので、もっと時間がかかるものと思っていた。
おそらく半年以上は待つのではないかと覚悟をしていただけに、予想外に早かったなというのが実感である。
さっそく読んでみた。

主人公は多崎つくる、36歳、東京の鉄道会社に就職し、駅舎を設計管理する仕事をしている。
彼は大学2年生のとき、高校時代に親しくしていた友人4人から理由も告げられないまま突然絶交を言い渡された。
以来それがトラウマとなって人と自然に交われないものを持ち続けている。
2歳年上の恋人沙羅はそんな彼の過去を知り、どうして彼らから絶交を言い渡されたのか「あなた自身の手でそろそろ明らかにしてもいいじゃないかという気がするのよ」と告げられる。
「あなたは何かしらの問題を心に抱えている」「あなたはナイーブな傷つきやすい少年としてではなく、一人の自立したプロフェッショナルとして、過去と正面から向き合わなくてはいけない。自分が見たいものを見るのではなく、見なくてはならないものを見るのよ。そうしないとあなたはその重い荷物を抱えたまま、これから先の人生を送ることになる」
その忠告に背中を押されるように、真相を知るための旅が始まるのである。

高校時代の友人は赤松、青海(おうみ)、白根、黒埜(くろの)という4人の男女で、偶然にも全員の名前に色がついており、そのことからお互いをに「アカ、アオ、シロ、クロ」と呼び合っていた。
だが、ただひとり多崎つくるだけが色とは無縁な存在であった。
「そのことでつくるは最初から微妙な疎外感を感じることになった。もちろん名前に色がついているかいないかなんて、人格とは何の関係もない問題だ。それはよくわかる。しかし彼はそのことを残念に思ったし、自分でも驚いたことに、少なからず傷つきさえした。」
それがタイトルにある「色彩を持たない多崎つくる」ということの意味であり、そのことで彼は「人に誇れるような、あるいはこれと示せるような特質はとくに具わっていない。少なくとも彼自身はそのように感じていた。すべてにおいて中庸なのだ。あるいは色彩が希薄なのだ。」と感じていた。
そしてその思いは絶交を告げられたことで決定的なものとなり、その後は色を失った人生を生きていくことになる。
そんな彼が巡礼の後に、果たしてどこかにたどり着くことができるのか、またたどり着くことができないのか、そうした姿が静かに描かれていく。

これは「ノルウェイの森」や「国境の南、太陽の西」に連なるリアルな世界の物語である。
そしてそれらの小説同様に、10代後半の苦い記憶がその後の人生の核になっている。
それが繰り返し語られている。
いったい村上春樹の青春前期に何があったというのだろう。
拘らずにはいられない強烈な何かがあったということなのか。
いずれにしろ、そこが彼にとっての原点ということになるのだろう。
しかし考えてみれば、自分にもそれに近いものがあることに気づく。
具体的に何がどうだというわけではなくとも、私にとってもその時代が出発点であり、原点であることに思い至るのである。
何か事がある度に思考がその時代に行く着く。
それが習い性のようになっている。
ましてや主人公の多崎つくるの場合、それが生死を分かつほどの苦しみであったのだからなおさらのことである。
そして巡礼の旅のなかで謎が少しずつ紐解かれてゆき、そして溶解し、古い傷が癒されていく。

<人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。>

<生き残った人間には、生き残った人間が果たさなくちゃならない責務がある。それはね、できるだけこのまましっかりここに生き残り続けることだよ。たとえいろんなことが不完全にしかできないとしても>

<人生は複雑な楽譜のようだ、たくさんの奇妙な記号と、意味不明な書き込みとで満ちている。それを正しく読み取ることは至難の業だし、たとえ正しく読み取れたとしても、またそれを正しい音に置き換えられたとしても、そこに込められた意味が人々に正しく理解され、評価されるとは限らない。それが人を幸福にするとは限らない。>

印象的な言葉が続く。

「巡礼の年」とはリストのピアノ曲のことである。
そしてそのなかの一曲「ル・マル・デュ・ペイ」が物語の背景にBGMのように静かに流れ続けている。
曲名の意味は、「田園風景が人に思い起こす、理由のない悲しみ。ホームシック、あるいはメランコリー。」
いつものようにここでも音楽が主要なテーマになっている。

「しかしいずれにせよ後戻りはできない。封を切ってしまった商品の交換はできない。これでやっていくしかない。」のである。
そのことをこの小説は改めて実感させてくれたのであった。


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Category: 外国映画

Tags: 西部劇  

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映画「ジャンゴ 繋がれざる者」

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映画オタクのタランティーノが、マカロニ・ウェスタンを復活させた。
現代版マカロニ・ウェスタンである。
そういえばタランティーノは「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」(三池崇史監督)にも、出演していたことを思い出した。
こちらは日本版マカロニ・ウェスタンである。
そのころからこの映画の構想を暖めていたのかもしれない。

題名の「ジャンゴ」は、1966年に製作されたイタリア映画「続・荒野の用心棒」の主人公の名前。
演じたのはフランコ・ネロ。
もちろん今回の映画にもカメオ出演しており、ファンを悦ばせてくれる。
こうした遊び心は、タランティーノのもっとも得意とするところ。
その唯一の登場シーンでのジャンゴとのやりとりは、

「名前は?」
「ジャンゴ、D-J-A-N-G-O、Dは発音しない」
「知っている」

思わずニヤリとさせられる。

主役のジャンゴを演じるのはジェイミー・フォックス。
黒人のガンマンとはタランティーノらしい着想である。
そのことで物語の背景となっている当時の「奴隷制度」の非人間性が鮮明に焙り出されることになる。
さらに白人対黒人といった単純な図式だけではなく、両者入り混じっての争いになるところも、タランティーノらしい捻りである。
そのひとりがジャンゴを救い出し、賞金稼ぎの相棒として育てるドイツ人医師・シュルツ。
演じるのは、前作「イングロリアス・バスターズ」でもナチス将校を演じたクリストフ・ヴァルツ。
ひっとすると彼こそが真の主役ではないかと思わせるような魅力的な人物だ。
この演技でアカデミー助演男優賞を受賞している。
「イングロリアス・バスターズ」での受賞に続く連続受賞である。

さらに奴隷農園側で君臨するのが、サミュエル・L・ジャクソン演じるスティーブンという奴隷頭。
レオナルド・ディカプリオ演じる非情な農園主の補佐役で、奴隷という立場でありながらも、ディカプリオの父親の代から仕えたこともあって、ディカプリオを息子のように裏から巧妙に操る男である。
事実上の黒幕といってもいい。
黒人だからといっても必ずしも奴隷の側につくような人間ばかりではないということだ。
そうした皮肉な設定が映画のリアリティーをさらに高めている。
こうした白人黒人が入り混じり、丁々発止のやりとりや抗争が繰り広げられていく。
そして最後はお決まりの、血糊飛び散る大銃撃戦へと突入していくのである。
マカロニ・ウェスタンの面白さを久しぶりで堪能させてくれた。

「パルプ・フィクション」以後の映画では、遊び心や流血の表現が過剰気味で、いささか辟易したものを感じていた。
もちろん、そうしたものがタランティーノの個性であり、ツボに嵌ればこれ以上はない映画的興奮を味あわせてくれるのだということは、充分に承知のうえでのことだが、それでもいささかマンネリ気味ではないかと感じていた。
ところがこの映画では、そうした不満を吹っ飛ばしてあまりある面白さを味あわせてくれたのである。
間違いなく「レザボア・ドッグス」や「パルプ・フィクション」と並ぶ代表作になる。
いやむしろそれ以上の代表作といったほうがいいかもしれない。
そんな面白さを心ゆくまで満喫させてくれる映画であった。


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プロフィール

cooldaddy

Author:cooldaddy
住んでいるところ:青森県弘前市
出身地:香川県
年齢:今年(2008年)還暦です。
性別:男

還暦という節目を迎え、何か新しいことを始めようとブログを開設しました。
趣味のこと、生活のこと、心に残ったことなど、My Favorite thingsを、気ままに書いていこうと思います。
末永くおつき合いください。

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