風に吹かれて

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Category: 日本映画

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映画「かぞくのくに」

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昨年度のキネマ旬報第一位に選ばれた映画である。
だがそれ以上の予備知識はないまま映画を観た。
それでも重い内容の映画だろうという予感はあった。
だからこれを観るには相当のエネルギーが強いられるのではないかと覚悟をしていたが、観始めるとそんな気持ちはどこかに飛んでしまい、終始緊張感を孕む画面に釘付けになってしまった。
そして緊張は最後まで緩むことなく、気がつくと映画は終わっていた。
時間を忘れて見入ってしまうほど強烈な印象を残す映画だった。
なるほどキネマ旬報第一位に選ばれたのは、当然の結果だろうと納得であった。

監督は梁英姫(ヤン・ヨンヒ)、大阪で生まれ育った在日コリアン2世である。
自らの体験をもとにこれを作った。

1970年代に盛んに行われた「帰国事業」で、朝鮮総連の重要なポストにつく父親の勧めに従って北朝鮮に渡った息子のソンホが、病気療養のために25年ぶりで帰国する。
3ヶ月という期限つき、しかも監視員が同行して始終見張りにつくというもの。
久しぶりの再会を喜ぶ両親と妹(監督自身がモデル)、さらに叔父や昔の友人たちも彼の帰国を歓迎する。
だが、口の重いソンホは北朝鮮での生活についてはいっさい語ろうとはしない。
当然そこには複雑な事情がある。それを察して彼らはそれ以上のことは問いただそうとはしない。
そうした思いやりがやりきれないほど切ない。
そして病院での検査の結果、脳に腫瘍が見つかり、治療には半年以上の入院が必要で、帰国許可のある3ヶ月という期間ではとうてい無理だと告げられる。
そこへ追い討ちをかけるように、本国から突然の帰国命令が下る。
家族の悲しみが頂点に達するなか、ソンホは寂しく日本を去っていく。

わずか数日間の出来事を描いただけの映画だが、そこに横たわるものは重く深い。
「国」とは何か、「家族」とは何か、そうした問いかけが鋭く突きつけられる。
こうした理不尽な話は、程度の差こそあれ、いつの時代にあっても尽きることはない。
そしてこうやって国や政治に翻弄されるのは、いつも片隅でひっそりと生きる名もなき庶民たちなのである。
そのことが哀しく胸に迫ってくる。

監督の梁英姫はドキュメンタリー映画出身者である。
この映画で手持ちカメラや長回しが多用されるのは、そうした経験からくるものだろう。
そんな手法が、この映画にドキュメンタリーのようなリアルな肌触りをもたらせている。
そしてそうやって切り取られたものが、自らの家族の切実な現実を題材にしているだけにリアルに迫ってくる。
だが、それでいて決して情緒に流されることなく、作家としての冷徹な眼で捉えている。
そこに限りない共感と好もしさを感じるのである。

主役のソンホを演じた井浦新と妹を演じた安藤サクラが素晴らしい。
安藤サクラはこの映画でキネマ旬報の主演女優賞を受賞している。
さらに監視役を演じたヤン・イクチュンの存在感もまた強く印象に残った。
韓国映画の監督兼俳優である。
以前彼の監督主演作「息もできない」を観て感動したが、今回のこの役が彼だったとは。
映画を観た後に知って驚いた。

心揺さぶられた映画であった。
それだけにまだまだ書き足りないことがあるように思ってしまうが、今のところ、これ以上先には進めそうにない。
少し時間を置けばまた何か新しいものが見えてくるかもしれない。
そうやってもういちどじっくりとこの映画について考えてみるのも悪くない。
そんなふうに思わせるものを、この映画は持っている。
いい映画というのは、繰り返し何度でも咀嚼してみたくなるものである。


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Category: 日本映画

Tags: 西村賢太  

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映画「苦役列車」

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第144回芥川賞受賞作品、西村賢太の「苦役列車」を山下敦弘監督が映画化、西村賢太、山下敦弘いずれのファンでもある身とすれば、まっさきに観なければいけない映画のはずだが、封切後1年近くになり、レンタルDVDが出てからもかなりの時間が経っているが、それでもなかなか手を出せないでいた。
それは、まったくドラマチックでないこの小説をどうやって映画として成立させるのだろう、原作のよさを損なわずに映画化することが果たしてできたのだろうか、そんな危惧が先走っていたせいである。多分。
ところがそれはまったくの杞憂であった。
さすがは「どんてん生活」「ばかのハコ船」「リアリズムの宿」という「ダメ男三部作」を撮った監督である。
主人公、北町貫多の自堕落で出口の見えない惨めな生活を、くそリアリズムすれすれのリアルさで描き出し、原作とはまた違った、映画としてのおもしろさを絶妙に表現していたのである。

性犯罪者の父をもち、中卒で友人も恋人もおらず、わずか19歳という若さですでに社会からドロップアウトしてしまった北町貫多の彩りのない生活、そこにわずかな光が差し込んできたような専門学校生・日下部正二(高良健吾)との出会い、さらには彼の助けを借りて憧れ続けていた少女、桜井康子(前田敦子)とも知り合うことができた。
惨めで変わり映えのしない日常に突然現れた一条の光と陰が、おかしさと切なさを交えながら描かれていく。
だがそんな心楽しい日々も長くは続かなかった。
結局、日下部も康子もともに、優雅なモラトリアムを生きているだけの学生たちで、貫多とはその立位置がまったく違っている。
そこは貫多には決して立ち入ることのできない世界であり、時間が過ぎれば彼らは貫多の前から飄然と姿を消し、貫多とは無縁の世界に住むことになる者たちなのである。
そのことを思い知らされると、光は一瞬にして輝きを失ってしまう。
そしてまた元の暗い穴倉生活へと戻って行かざるをえないのである。
いかに蔑もうと、いかに否定しようと、仕事上の事故で足の指を失い、日雇いということで労災も出ないまま職場を去らざるをえなかった高橋こそが、貫多にとっては同じ世界に生きる同類であり、自らの将来を暗示させる人物なのである。
そこに自らの将来を重ね合わせて絶望に打ちひしがれてしまうのである。
だが3年後、テレビの素人歌番組で懸命に歌うその高橋の姿を偶然目にしたことで、貫多のなかで何かが変わり始める。
このエピソードは原作にはない。
マイ・バック・ページ」でも同様に描かれたシークエンスのリフレインであるが、この後日談が挿入されたことで、この映画を単に苦く暗いだけの映画ではなく、後味のいいものとして終わらせているのである。

高橋を演じたマキタスポーツが素晴らしい。
この映画で初めて知った俳優だが、何ともいえない、いい味を出している。
ちなみにマキタスポーツについて調べてみると、ものまねネタをもつお笑いタレント兼歌手である。(映画のなかでもその得意の歌を披露している。うまい。)
そしてこの映画でブルーリボン新人賞・東京スポーツ映画大賞新人賞を受賞している。
さすが見ている人は見ているもので、この映画での彼の存在感は圧倒的であった。新人賞受賞は当然だろう。
いずれにしても山下敦弘監督は、こうした無名俳優を見つけ出すのが、ほんとうにうまい。
毎回その使い方には驚かされるが、この映画ではマキタスポーツのほかにも貫多の元彼女とその彼氏を演じた俳優たち(名前は特定できなかったが)も素晴らしかった。
だがそれ以上に主人公、北町貫多を演じた森山未來の素晴らしさは特筆である。
どうしようもないダメ男、北町貫多を絶妙に演じ、図々しくも恥知らずな19歳のリアルな青春を痛々しくも見事に演じ切っている。
孤独でやり場のない焦燥のなか、常に苛立ち、何かといえば悪態をつくダメ男、そしてその気持ちを紛らわすためにアルコールや風俗へと走ってしまう。
その場限りの惨めで短絡的な姿、それを見るにつけて、何と最低で嫌な奴だと嫌悪感いっぱいになったが、そこに見え隠れする必死で切実な心情に気づかされるにしたがって、次第に印象が変わっていった。
そして最後は貫多のこれからの人生に幸多かれと祈らずにはいられない気持ちになっていったのである。

若さという荒ぶる魂、それをコントロールする術を知らず、閉塞した世界から抜け出すことができず、闇雲にもがき続けるしかない恥多き青春、それを優しく描き続けるのが山下敦弘監督の映画の大きな特徴である。
そうした彼のフィルモグラフィーに、これでまた大きな勲章がひとつ増えたのを感じる。
間違いなく代表作のひとつになる。大きな拍手を贈りたい。


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Category: 美味しいもの

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新鮮な野菜

近所の農家の無人販売が数日前から始まった。

これでまた新鮮な野菜が毎日食べられる。

だが野菜が並ぶのが、わが家の朝食時間より遅いのが難点である。

今朝たまたま農家のおばさんがいたので声を掛けたところ、すぐ裏の畑に行って野菜を採ってきてくれた。

今後は前もって声をかければ、必要な分だけ用意してくれるということになった。

ありがたいことである。

これだと毎日自分の家庭菜園から収穫した野菜が食べられるのと同じようなものである。

何だかまた新しい健康生活が始まったような気分である。

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Category: 読書

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大崎善生「聖の青春」

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「将棋の子」に続いて読んだのが、「聖(さとし)の青春」であった。
こちらも大崎善生が描いた将棋の世界の話である。
「将棋の子」はプロ棋士を目指しながらも、夢やぶれて将棋の世界を去らなければならなかった少年たちのことを書いたものだったが、こちらはその関門を見事乗り越えてプロの棋士になったある若者のことについて書いたものである。
順番からいけば「聖の青春」が先で、その後に書かれたのが「将棋の子」である。
しかし読んだのは逆であった。
だが結果的には「将棋の子」を先に読んだことで、将棋の世界の厳しさがより詳しく判り、良かったのではなかったかと思っている。

「聖の青春」はネフローゼという重い腎臓病を抱えながらもプロの棋士となり、29歳で夭折した天才棋士、村山聖のことを描いたノンフィクションである。
村山聖は5歳の時にネフローゼを発症、長い入院生活のなかで将棋と出会う。
そしてみるみるうちに実力をつけ、こども名人戦で4回連続優勝、13歳で森信雄棋士に弟子入り、翌年奨励会入りを果たし、17歳にしてプロの棋士となっている。
以後は大型新人として数々の名勝負を繰り広げ、生涯の夢である名人獲得が目の前に迫りながらも、道なかばにしてこの世を去ることになってしまう。

将棋と病、ふたつの敵と闘わざるを得なかった彼の生涯は、まさに壮絶のひと言である。
しかしだからこそ、自らの短い生涯を予感していたかのごとく生き急いだ村山聖の姿に胸を打たれる。

彼を支え続けた家族や師匠、そして友人たちとのエピソードの数々、そこから見えてくる村山聖のユニークな個性には、ときに呆れ、ときに感動させられる。
純な子どもの心を持ったまま成人したような村山聖の個性は、支離滅裂なところがあるものの、それでいて周りの人たちにそれを受け入れさせてしまう大らかさがある。
そんな奇妙な魅力にどんどん惹きつけられていった。
そしていつしか棋士、村山聖のファンとなって彼の対局の応援をするような気持ちになっていったのである。

東の羽生、西の村山と言われ、天才、羽生善治と並び称された怪童、村山聖。
29年という短い生涯ではあったが、けっして夢を諦めず、苦しみに耐えながら最後まで闘い続けた彼の姿を知ることで、深い感動と勇気をもらったのであった。


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Category: 読書

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大崎善生「将棋の子」

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将棋について知っているのは駒の並べ方と動かし方くらいで、指したことはなく、まったくの門外漢である。
しかしプロの将棋の世界について書いたこの本のことは、以前から気になり、読んでみたいと思っていた。
作者は大崎善生、以前彼の小説「アジアンタム・ブルー」を読んで感動した作家である。
今回の本は小説ではなく、ドキュメンタリーであるが、それでも小説を読んでいるような波乱に満ちた面白さであった。
採り上げられているのは、プロ棋士の登竜門である奨励会と呼ばれる世界である。
そこでプロの棋士になることを目指して研鑽の日々を送る少年たちの姿を描いている。

奨励会には将棋の天才たちが全国から集まってくる。
彼らは地元では大人さえも軽々と負かしてしまう選りすぐりの天才たちだが、奨励会に入った途端、影の薄いごくふつうの少年に戻ってしまう。
それほど上には上がいるわけで、まず初めにそうした動かしがたい現実を知ることから始まる。
さらにそこには乗り越えなければならない数々の関門が待ち受けている。
まず23歳の誕生日までに初段になること、そしてそれをクリアすると次は26歳で4段になるというハードルが待ち構えている。
そのハードルを越えることができたごく一部の者だけがプロ棋士になれるのであり、それを越えることができなかった多くの若者たちには、退会という厳しい現実が待ち受けている。
物心ついたときから、プロの棋士になることだけを夢見てきた彼らが、無残にもその道を断たれてしまうのである。
そして将棋の世界しか知らなかった彼らが、一般社会へと引き戻されてしまうのである。
その後にはどんな人生が待ち構えているのか。そしてそこでどう生きているのか。
そうした姿を丹念に拾い上げたのが、「将棋の子」というドキュメンタリーである。

作者の大崎善生は「将棋世界」という雑誌の元編集長で、長年に渡って彼らの過酷な現実を身近に見続けた人である。
だからこそ、こうした作品を書けたのであり、また書かなければならないという強い使命感に突き動かされている。
彼らに対する優しい眼差しや愛着が行間に溢れている。
そうした熱い想いに共感しつつ、いつしか感動させられたのであった。

本書は第23回講談社ノンフィクション賞を受賞している。
この本を読んで、こういう世界もあったのだという驚きと同時に、矢折れ力尽きて夢やぶれながらも懸命に生きようとする「将棋の子」の姿を見ることで、人間に対する限りない愛着をあらためて感じさせらたのであった。


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Category: 読書

Tags: ミステリー  

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宮部みゆき「理由」

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ミステリーではあるが、謎解きの面白さや事件の特殊性などを追求したものではなく、その犯罪に関った人たちの姿を描くことで、時代が抱えもつ様々な歪みを浮かび上がらせようとした小説である。

ある高級マンションで一家四人殺しという殺人事件が起きる。
その事件の真相を追究していくなかで、被害者を取り巻くさまざまな人物が登場する。
それぞれが家庭内に何らかの問題を抱えており、悩みや葛藤が渦巻いている。
そうした家庭内の対立や人間心理を浮き彫りにしていくなかで、現代社会が抱え持つ深い闇が次第に浮かび上がってくる。

作者の人間の捉え方、人間描写の確かさには唸らされる。
その緻密な描写の積み重ねは、時に冗長に感じなくもないが、それでも読み手を飽きさせることなく引っ張っていく力強さは、いささかも衰えることはない。
終始緊張感を孕みながら最後までぐいぐいと引っ張っていく。

第120回(1998年下半期)直木賞受賞作である。
宮部みゆきの小説を読むのはこれが初めてだが、久しぶりに読んだ重厚なミステリーに充分すぎるほど堪能した。


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Category: 薪ストーブ

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今年初の真夏日

昨日の弘前市は今年初の真夏日になった。
この暑さの中、岩木山麓にある市の伐採木集積場に伐採木をもらいにいった。
例年この時期になると払い下げが行われる。
恒例の行事である。
毎年申し込んでいる。

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指定された午後2時に現場に着き、30度を越える暑さのなか、約1時間かけて伐採木をクルマに積み込んだ。
暑さのせいか、さすがに疲れた。ちょっとグロッキー気味であった。
家に帰って水分補給をした後は、倒れるように横になった。
ひょっとすると軽い熱中症になっていたかもしれない。

さすがに夜のビールがうまかった。


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Category: 読書

Tags: 村上春樹  

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村上春樹「国境の南、太陽の西」

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家庭にも仕事にも恵まれ、何不自由ない男が抱える欠落感、それを埋めるように幼馴染の女性と不倫に陥る物語。
反リアリズム小説を書く村上春樹には珍しく、リアリズムな手法で書かれた小説である。
しかしそれでいてどこか異界と繋がった気配を感じさせる小説である。

<僕らは六〇年代後半から七〇年代前半にかけての、熾烈な学園闘争の時代を生きた世代だった。好むと好まざるとにかかわらず、僕らはそういう時代を生きたのだ。ごくおおまかに言うならばそれは、戦後の一時期に存在した理想主義を呑み込んで貪っていくより高度な、より複雑でより洗練された資本主義の論理に対して唱えられたノオだった。少なくとも僕はそう認識していた。それは社会の転換点における激しい発熱のようなものだった。でも今僕がいる世界は既に、より高度な資本主義の論理によって成立している世界だった。結局のところ、僕は知らず知らずのうちにその世界にすっぽりと呑み込まれてしまっていたのだ。僕はBMWのハンドルを握ってシューベルトの『冬の旅』を聞きながら青山通りで信号を待っているときに、ふと思ったものだ。これはなんだか僕の人生じゃないみたいだな、と。まるで誰かが用意してくれた場所で、誰かに用意してもらった生き方をしているみたいだ。いったいこの僕という人間のどこまでが本当の自分で、どこから先が自分じゃないんだろう。ハンドルを握っている僕の手の、いったいどこまでが本当の僕の手なんだろう。このまわりの風景のいったいどこまでが本当の現実の風景なんだろう。それについて考えれば考えるほど、僕にはわけがわからなくなった。>

そんな彼の前に幼馴染の女性、島本さんが現れる。そして恋に落ちる。まるで何かに憑かれたように。

<「でもあなたはもし私に出会わなかったなら、あなたの現在の生活に不満やら疑問を感じることもなく、そのまま平穏に生きていたんじゃないかしら。そうは思わない?」「あるいはそうかもしれない。でも現実に僕は君に会ったんだ。そしてそれはもうもとには戻せないんだよ」と僕は言った。「君が前に言ったように、ある種のことはもう二度と元には戻らないんだ。それは前にしか進まないんだ。島本さん、どこでもいいから、二人で行けるところまで行こう。そして二人でもう一度始めからやりなおそう」>

<僕はこれまでの人生で、いつもなんとか別な人間になろうとしていたような気がする。僕はいつもどこか新しい場所に行って、新しい生活を手に入れて、そこで新しい人格を身に付けようとしていたように思う。僕は今までに何度もそれを繰り返してきた。それはある意味では成長だったし、ある意味ではペルソナの交換のようなものだった。でもいずれにせよ、僕は違う自分になることによって、それまでの自分が抱えていた何かから解放されたいと思っていたんだ。
僕は本当に、真剣に、それを求めていたし、努力さえすればそれはいつか可能になるはずだと信じていた。でも結局のところ、僕はどこにもたどりつけなかったんだと思う。
僕はどこまでいっても僕でしかなかった。僕が抱えていた欠落は、どこまでいってもあいかわらず同じ欠落でしかなかった。どれだけまわりの風景が変化しても、人々の語りかける声の響きがどれだけ変化しても、僕はひとりの不完全な人間にしか過ぎなかった。僕の中にはどこまでも同じ致命的な欠落があって、その欠落は僕に激しい飢えと渇きに苛まれてきたし、おそらくこれからも同じように苛まれていくだろうと思う。>

題名の「国境の南」は子どもの頃、島本さんとふたりで繰り返し聴いていたナット・キング・コールの歌の題名。
「子どもの頃このレコードを聴きながら、僕は国境の南にはいったい何があるんだろうといつも不思議に思っていたんだ」
続いて島本さんが「ヒステリック・シベリアナという病気のことは聞いたことがある?」と「太陽の西」について話し始める。
それはシベリアに住む農夫がかかる病気のことであった。
「ねえ、想像してみて。あなたは農夫で、シベリアの荒野にたった一人で住んでいるの。そして毎日毎日畑を耕しているの。見渡すかぎり回りにはなにもないの。北には北の地平線があり、東には東の地平線があり、南には南の地平線があるの。ただそれだけ。あなたは毎朝東の地平線から太陽がのぼると畑に出て働いて、それが真上に達すると仕事の手を休めてお昼ご飯を食べて、それが西の地平線に沈むと家に帰ってきて眠るの」
そして
<「東の地平線から上がって、中空を通り過ぎて、西の地平線に沈んでいく太陽を毎日毎日繰り返して見ているうちに、あなたの中で何かがぷつんと切れて死んでしまうの。そしてあなたは地面に鋤を放り出し、そのまま何も考えずにずっと西に向けて歩いていくの。太陽の西に向けて。そして憑かれたように何日も何日も飲まず食わずで歩きつづけて、そのまま地面に倒れて死んでしまうの。それがヒステリック・シベリアナ」
 僕は大地につっぷして死んでいくシベリアの農夫の姿を思い浮かべた。
「太陽の西にはいったい何があるの?」と僕は訊いた。
 彼女はまた首を振った。「私にはわからない。そこには何もないのかもしれない。あるいは何かがあるのかもしれない。でもとにかく、それは国境の南とは少し違ったところなのよ」>

ふたりは別荘で一夜をともにするが、翌朝目が覚めると彼女の姿は消えていた。
彼女はいったいどこに行ってしまったのか。また果たして彼女は実在の人物だったのか。
そんな疑いが自然と湧き上がってくる。
ひょっとするとこれは死の世界からの生還を描いているのではないか。
そんなふうに思わせる死の影や虚無の匂いが、微かに流れている。
さまざまな謎を残し、そして僅かな希望を感じさせて小説は終わる。
そしてその深い余韻に浸りながら、そこに残された深い謎を今も考え続けているのである。


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Category: 病気・健康

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ようやく退院

先月の17日、検査のために大学病院に入院したが、昨日ようやく退院することができた。
当初は2週間の予定だったが、結局延びて都合19日間の入院生活になった。

検査につぐ検査で、何回採尿、採血をやったことか。
そして最後はカテーテルによる副腎からの採血ですべてが終了、その結果、アルドステロンは左右両方の副腎から出ていることが判明した。
どちらか一方ということであれば手術で副腎を除去することで、高血圧が改善されることになるのだが、両方からの場合は手術では対応できない。
片方だけをとることには問題はないが、両方をとることはできないのである。
その結果手術ではなく、薬の服用によるアルドステロン排出の抑止ということになった。
手術をすればそれで一件落着となるわけだが、薬で対応ということになれば、一生飲み続けなければいけない。
考えてみれば憂鬱なことである。
その結果がよかったのか悪かったのか、何とも複雑な気持ちになってしまったが、仕方がない。
ここは素直に結果に従うだけである。
一病息災という言葉があるが、そうした気持ちになって対応していくしかなさそうだ。

それにしても検査だけで19日間というのはいかにも長すぎた。
しかしいっぽうでは過ぎてみればあっという間の19日間だったという気もするのである。

単調な繰り返しのなかにあって、唯一の楽しみは読書であった。
こんなにまとめて本を読むことは、普段だとなかなかできるものではない。
こういうときだからこそである。
そういう意味では貴重ないい時間をもらったと思っている。

どんな本を読んだか、先日のブログにも書いたが、その続きも書いておく。
「1Q84 BOOK3」に続いて読んだのは、同じく村上春樹の「国境の南、太陽の西」と「神のこどもたちはみな踊る」。
その後は大崎善生の「将棋の子」と「聖の青春」、常盤新平「私の好きな時代小説」、清水義範「青二才の頃」、松本清張「無宿人別長」、そして本多孝好の「WILL」であった。
そうやって入院中に読んだ本は19冊になった。
集中して読むことができたからこその数字である。

しかし本がなければ何と退屈な時間を過ごさなければならなかったことか。
そう考えれば、ほんとうに助けられたと今さらながらに思うのである。


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Category: 読書

Tags: 村上春樹  

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村上春樹「1Q84」

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入院中に読んだ村上春樹の「1Q84」。
BOOK1からBOOK3まで及ぶ長編だが、一気に読ませる力はさすがである。
しかし依然として村上春樹の小説は難しい。
謎である。
現代に生きる人間の孤独や喪失、不安や焦燥が、メタファーを散りばめた独特の文体で書かれるのが村上春樹の小説の大きな特徴だが、そうしたものを受け止める面白さは確かに味わうことができた。
しかし月がふたつある「1Q84」の世界とは何なのか。
そしてそこで語られる「空気さなぎ」や「リトル・ピープル」とはいったい何なのか。
謎は深まるばかりである。
まさに「1Q84」に表されているように「Q(question)」なのである。
しかし翻って考えてみると、だからこそ多くの読者を惹きつけてやまないのが村上春樹の小説なのであろう。

先日発売された彼の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は、発売1週間で100万部を越えたという。
出版不況が叫ばれる現代において、これは驚くべきことである。
彼の新作を読むことがファッション化されているからこその現象であるとの批判があるものの、いずれにしてもこれほどのことになると、まさに事件である。
何がそれほど人々を惹きつけてやまないのか。
それも大いなる謎である。
そしてその謎を知りたいという思いが、ますます村上春樹の小説に人々を引きつけることになっていくのだろう。

しかし一方では、謎は謎のままにしておくほうがいい、そしてその謎を長く引きずっていくなかで、小説世界の醍醐味がさらに味わえることになるのではないかという思いがあるのも事実。
そうやってますます村上春樹の小説世界にとり付かれていくことになる。
熱心な村上ファンというわけではないが、けっして無視して通り過ぎることができない。
いかに突き放されようと、その動向を常に注目せざるをえない作家なのである。


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Category: 読書

Tags: エッセイ・評論  

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久世光彦「書林逍遥」

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<私はずいぶん長いこと「隠れ太宰」だった。「隠れキリシタン」とおなじように信仰を隠して、じっと身を潜めていた。>という書き出しで始まるこの本は、久世光彦らしい拘りに満ちた本である。
読み巧者、久世光彦らしい一冊である。

太宰治「お伽草紙」、江戸川乱歩「人間椅子」、宇野千代「おはん」、船橋聖一「雪婦人絵図」、幸田文「おとうと」、川端康成「片腕」、吉村昭「少女架刑」、向田邦子「あ・うん」など24篇が収められている。
なかでも昔読んで印象深かった三島由紀夫の「潮騒」、中川與一「天の夕顔」、柴田翔「されど われらが日々」が収められているのが、個人的にはうれしい。
官能的で匂い立つような文体で書かれた愛読書についての想いを読んでいるだけで、どの本も読みたくなってしまう。
偏愛ともいえるような執着心が、作品のもつ隠された魅力を手品のように解き明かしていく。
そこからこれまで知らされていたそれぞれの本の魅力とはまた違った新しい一面が透けて見えてくる。

<冬の日の昏れ方、草を踏んで書林を逍遥すれば、枝々の組み合わさる彼方の空は、折りしも斜陽に染まって鬱金(うこん)の色である。残照と、やがてやってくる夜との狭間で、私たちはゆくりなくも「書」について想う。書は「時代」を映し、かつての数々の「恥」を呼び覚ます。特に若い日に読んだ書は厄介だ。一冊一冊に恥が纏い付いている書の記憶は、突然蘇って、いまもこの身を苛んで離れない。「右大臣実朝」の顰(ひそ)みに倣うなら、《歳月トハ、怯懦ノ姿デアロウカ》>
わかるなあ、この気持ち。
そして久世光彦はこの本で惜し気もなく自らの恥部を晒していくのである。
人目を忍び、禁断の園へと足を踏み入れて行った若き日の著者と同じように、胸躍らせて耽読したのであった。


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プロフィール

cooldaddy

Author:cooldaddy
住んでいるところ:青森県弘前市
出身地:香川県
年齢:今年(2008年)還暦です。
性別:男

還暦という節目を迎え、何か新しいことを始めようとブログを開設しました。
趣味のこと、生活のこと、心に残ったことなど、My Favorite thingsを、気ままに書いていこうと思います。
末永くおつき合いください。

映画サイト「マイ・シネマ館」もやっています。
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