西村賢太「けがれなき酒のへど」(「暗渠の宿」収録)
「けがれなき酒のへど」
孤立無援のなかで、愚かなことを繰り返す男。
女の暖かさを求める気持ちは、まるで愛情に飢えた小児のごとくである。
それをフーゾク女のなかに求めざるをえないのが、可笑しくもあり、哀しくもある。
作者の言を借りれば「花屋で分葱を求めよう」とするようなものである。
しかし判っていながらもそうせざるを得ないのが人間の性(さが)というものなのであろう。
それほど彼は追い詰められ、闇雲に求めようとしている。
そのあげくが、体よく騙されてしまうのである。
冷静になればそんなことは分かりきったこと。
しかしそれでも一縷の望みを架けてせっせと女のもとに通う姿は、もう愛情という迷路に迷い込んだ迷い子そのものである。
そしてそうした愚かしい失敗を経た後は、唯一の矜持である作家「藤澤清造」のもとへと逃げ却ってゆく。
だが「藤澤清造」といってもほとんどの人は知らないだろう。
かくいう自分も西村の小説で初めて知ったような次第だが。
藤澤清造は43歳で「のたれ死に」をした大正時代の私小説作家である。
その作家への並々ならぬ傾倒が主人公、すなわち作者西村の最後の拠り所であり、寄って立つ唯一の矜持なのであった。
彼は藤澤と出会って以来、毎月の月命日には欠かさず菩提寺へと通っている。
そしてたったひとりで追善法要を行っている。
そこで彼は惨めに傷ついた自分と藤澤を重ね合わせながら自らの醜態を振り返る。
さらに副住職夫婦に誘われて酒席でしたたかに酒を呑む。
そして別れた後、海に面した暗い広場で、激しく嘔吐する。
まるでフェリーニの「道」のラストシーンを思わせるような場面である。
「道」ではザンパノが激しく慟哭するが、ここでの主人公は「自分の中の何かも流し潔めようとする」のであった。
何とも哀切極まりない話であるが、小説としてはこれは間違いなく傑作である。
先日読んだ「苦役列車」「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」もよかったが、これはそれ以上であった。
「苦役列車」「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」を読んだことで、さらに別な作品も読んでみたいと借りてきたのが、この本であった。
まさに正解であった。
久々に胸震えるような小説と出合ったのである。
ところでこの本には「けがれなき酒のへど」と表題作の「暗渠の宿」の2篇が収められているが、「暗渠の宿」のほうは実はまだ読んでいない。
それは「けがれなき酒のへど」があまりによかったので、その感動が冷めぬうちに感想を先に書いておこうと思ったからである。
そんなわけで急いでこれを書いたという次第である。
「暗渠の宿」は、この後じっくりと味わってみようと思っている。
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