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風に吹かれて

My Life & My Favorite things

Category: 外国映画

Tags: ウディ・アレン  

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映画「カフェ・ソサイエティ Cafe Society」

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ウディ・アレンの自画像。
主人公の青年ボビーを演じるジェシー・アイゼンバーグは、ウディ・アレンそのもの。
チビで猫背のユダヤ人。
それなのに、美人にはモテるし成功も手にする。
しかしそれでいてけっしてそこで満足することはなく、さらなるアバンチュールを求めてしまう。
これはもうどう見たって、ウディ・アレン以外にはありえない。
そんな人物を主人公にしたラブ・コメディである。

1930年代のハリウッドとニューヨークが舞台である
ハリウッドでは華やかな映画産業の舞台裏が、虚実入り混じって皮肉に描かれる。
誰もが知る有名俳優やプロデューサーそして監督たちの名前が数多く連発されるが、誰ひとり登場することはない。
そこは多くの有名作家たちを登場させた「ミッドナイト・イン・パリ」とは対照的。
その華やかな世界に憧れて、主人公ボビーがハリウッドにやってくる。
そしてそこで成功している叔父フィルの使い走りをやることで、次第にハリウッドの水に染まってゆく。
そのなかで秘書のヴォニーと恋に落ち、結婚間近というところまでいくものの、思わぬ障害が現れて破局を迎えることになる。
傷心のボニーはハリウッドでの生活を諦めて、ニューヨークに戻っていく。
そこでギャングとなって勢力を伸ばしている兄ベンが経営するナイトクラブを手伝うことになる。
そして次第に手腕を発揮、とうとう支配人となって成功を手にすることになる。
同時に洗練された美人のヴェロニカという女性と出会って結婚、公私ともに絶頂期にある彼の前に、昔の恋人ヴォニーが現れる。

こうした物語が洗練された音楽と美術、そしてウイットに富んだ会話の積み重ねで、いつも通りテンポよく描かれていく。
その軽やかなフットワークは、ますます円熟味を増したように感じられる。
いつの間にかアレン的世界に心地よく引き込まれていった。
そして気がつけば、おかしくてほろ苦い結末へと導かれていく。

人生はなかなかうまくいかないもの。
それでも人生は限りなく素晴らしい。
ここでもそんなウディ・アレンの切ない呟きが聞こえてくるのである。


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映画「パターソン PATERSON」

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愛すべき小品。
繰り返される単調な日常を淡々と描いただけの映画なのに、なぜか愛おしくなってしまう。
朝決まった時間になるとベッドから起き出して、キッチンでシリアルだけの朝食をとる。
弁当箱ひとつを下げてバス会社まで歩いて出勤、定時になるとバスを発車させる。
そして運転中のバスの中で交わされる乗客たちのたわいない会話に耳を傾ける。
仕事が終わると定時に帰宅、夕食の後は、愛犬マーヴィンを連れて夜の散歩に出かける。
そして行きつけのバーで1杯だけビールを飲む。
そんな判で押したような日常が、淡々と繰り返されていく。
たったそれだけの映画が、何とも愛おしくて心温まる。

主人公はパターソンに住むパターソンという名前の男。
年齢は30代半ば、もしくは後半くらいか。
市バスの運転手をしており、イスラム系の妻ローラと小さな家で暮している。
子供はいないが、マーヴィンという名のブルドッグを飼っている。

パターソンはバスの運転手だが、詩人でもある。
一冊のノートを常に携帯しており、時間を見つけてはノートに詩を書きつけていく。
その詩が町の風景とダブって時々画面に挿入される。
日本でいえば、俳句や短歌をものにするシロート詩人といったところ。
それが判で押したような日常の、鮮やかな句読点になっている。
彼は自分が書く詩で有名になりたいとか、誰かに認められたいといった野心を持って書いているわけではない。
どこかに発表しようといった気持ちなどはなく、唯一妻に読んで聴かせるだけ。
一方妻は対照的に野心満々で、カップケーキを焼いて近く開かれるバザーに出品、それを契機にいずれ店を開いて成功させたいと考えている。
またデザイン好きで、服やカーテンを自作したり、室内を塗り替えるなど、まことに行動的というか衝動的。
パターソンの弁当も彼女が作っているが、そのユニークさもなかなかのもの。
さらに通販でギターと教則本を買って、歌手として成功したいとも考えているが、どこまで本気なのか判然としない。
無邪気な夢見る少女と変わりがないようにも見える。
そんな陽気で楽天的な妻と、穏やかで感情を露わにしないパターソンとの取り合わせが微笑ましい。

パターソンは、ニュージャージー州にある人口15万人ほどの町。
古い町で、静かで寂れた街並みが、イギリスの古い炭鉱町のように見える。
町の中にグレートフォールズという雄大な滝が流れていて、主人公パターソンはこの滝を見るため、しばしばそこを訪れる。
そしてそこで静かに詩作をする。
古びて薄汚れた町だが、いかにも住み易そうだ。
またこの町は様々な有名人を輩出しており、行きつけのバーではパターソンに関連した人物たちの写真や雑誌や新聞記事の切り抜きが、「殿堂の壁」と名づけられた壁に貼られている。
たとえば凸凹コンビで有名なアボット・コステロのひとり、ルー・コステロ。
パターソンと妻が観に行く映画も、彼が出演している「凸凹フランケンシュタインの巻」である。
さらに黒人ボクサーのルービン・ハリケーン・カーター。
殺人の冤罪で逮捕されたという人物で、そういえば、以前観た「ハリケーン」という映画では、デンゼル・ワシントンが演じていたことを思い出した。
また詩人のアレン・ギンズバーグもこの町の出身。
さらに詩人のウィリアム・カーロス・ウィリアムズが、この町を題材に「パターソン」という詩集を出しているが、主人公パターソンは、その詩集を座右の書として大切にしている。

こうした背景の中で月曜から始まって月曜に終わるパターソンの単調な生活が描かれていくわけだが、これといって大きな事件が起きるわけでも、ドラマチックなことが起きるわけでもない。
それでいて目が離せないのは、彼が代わり映えのしない毎日をけっして不満に思っているわけではなく、いやむしろそんなささやかな生活を愛おしくさえ思っていることが伝わってくるからである。
詩人としての目を通して見れば何もないと思える日常が、別な輝きをもって見えてくるのだろう。
たとえば映画の冒頭で語られる詩は、彼が集めているマッチの中の「オハイオ印のブルーチップ」というどこにでも転がっているようなマッチについて書くことから始まっているが、それが次第に「愛の詩」という詩に結実されていく。
また朝ベッドで目が醒めた奥さんが「双子の夢を見た」と呟けば、町のあちこちでいろんな双子たちと出会うようになる。
それが幻想なのか、妄想なのか、あるいは現実なのか、判然とはしないが、ついつい笑いを誘われる。
そしてそのなかでいちばん印象に残るのが、詩を書く少女との出会い。
エミリー・ディキンソンの詩が好きだというこの少女が、自作の詩を読んで聴かせる。
その詩にパターソンは強い印象を受け、触発される。
そこに現れたのが少女の母親と姉、すると姉妹はなんと双子であった。
ここでもつい笑いを誘われる。
こうした微苦笑は、映画のあちこちに散見され、いい味付けになっている。
そして心優しい人たちとの交流。
バーのマスターであるドク、別れ話でもつれているマリーとエヴェレット、コインランドリーで自作のラップを唄う男、皆アフリカ系アメリカ人ばかり。
そしていつも不平不満ばかりを口にする同僚のインド系アメリカ人。
静かな日常のなかで、彼らとの交流だけが小さなさざ波のような変化をもたらしている。

パターソンを演じているのは、アダム・ドライヴァー。
今いちばん気になる俳優である。
最近映画でよく見かけるが、いちばん最初に彼を見たのは、「フランシス・ハ」という映画だった。
以来気になる俳優のひとりになった。
そして最近では「ヤング・アダルト・イン・ニューヨーク」や「沈黙」といった映画で出会い、そして今回のこの映画である。
パターソンはまさに適役。
そして妻のローラを演じているのが、イラン人女優のゴルシフテ・ファラハニ。
調べてみると、パターソンという町はイスラム系の人が多く住む町として知られている。
そんなところから、イラン人女優の彼女が起用されたのだろうが、この映画に登場する人たちが全員マイノリティというところは、パターソンの偏見をもたない人間性を表していて好感が持てる。
そして特筆すべきは、愛犬マーヴィンを演じたブルドック。
何とも愛らしく、何度も笑いを誘われた。
主役のふたりに次ぐ存在、いやそれ以上の存在感を示した演技であった。
この映画には欠かせない重要なキャラクターになっている。
こんな可愛い犬と過ごせるのであれば、やはりそれは何物にも代えがたい生活ということになるだろう。
そう思わせる存在であった。


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映画「新感染 ファイナル・エクスプレス」

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韓国初のゾンビ映画である。
そして舞台となるのが、ソウルからプサンへと走る高速鉄道の車内という、これまでになかった設定で、それによってパニック映画、サバイバル映画に加えて密室劇の面白さも味わえるという仕掛けになっている。
どちらかといえば苦手なゾンビ映画だが、それでも韓国映画歴代第12位、1,000万人以上の観客動員を果たした人気の映画ということで、観ることにした。
そして評判通りの面白いエンターテインメントであった。

特筆すべきはそのスピード感。
ゾンビといえば、足を引きづりながら覚束なく歩くというのが、お決まりだが、この映画はそこが違う。
確かに普段はゆっくりと動いているが、それでもいったん獲物を見つけると突然動きを速め集団で雪崩をうつように襲ってくる。
そしてその素早い動きが新幹線のスピードと連動、映画全体がまさにジェットコースターのようなスピード感で疾走、息つく暇もなくこれでもかと予想外の展開をみせて飽きることがない。
そうしたアクションに加え、登場人物たちに魅力的な人物を配し、さまざまな人間ドラマを見せていく。
パニック映画、サバイバル映画などではよくあるお決まりの手法ではあるが、その手際よさ、演出のうまさはなかなかのもの。
そのうまさに乗せられ、何度も胸を熱くさせられたのである。
それほど多くのゾンビ映画を観ているわけではないが、(最近では日本映画の「アイアムアヒーロー」やアメリカ映画の「ワールド・ウォー・Z」など)まさかゾンビ映画で泣かされるとは。
そんなわけで予想以上の面白さに大満足の映画であった。


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映画「スリー・ビルボード Three Billboards Outside Ebbing, Missouri」

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フランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェル、ウディ・ハレルソンと、好きな俳優3人が揃って出演、さらにスモールタウンを舞台にした物語とあって、観る前から期待大であった。
そしてその期待を上回る映画であった。

原題は「Three Billboards Outside Ebbing, Missouri」。
訳すと「ミズーリ州エビングの3つの野外広告看板」となる。
その題名が示すように、ミズーリ州の架空の町エビングの郊外に、ある日、野外広告看板が建てられたことからこの映画の物語が始まる。
そこに書かれているのは、警察の捜査に対する抗議文である。
7か月前、娘が強姦のうえ殺された。
その捜査が進展しないことに苛立った母親が、抗議のために建てたのである。
看板のベースに使われた赤い色には、母親の怒りと悲しみが込められているように見える。
そしてそれがきっかけで小さな町に様々なトラブルが巻き起こる。

常軌を逸した強気の女性を演じるのは、フランシス・マクドーマンド。
作業用のつなぎを着て頭にバンダナを巻いた姿は、まるで戦闘服を着た兵士のようだ。
警察をはじめ町の人間たちを相手に、たったひとりで立ち向かう。
その展開には西部劇の匂いも感じさせる。

対する警察署長を演じるのがウディ・ハレルソン。
有能な署長で人望があるが、癌を患っている。
そしてその部下である警察官がサム・ロックウェル。
粗暴な差別主義者である。
この3人を中心に憎しみの連鎖が巻き起こり、怒りや哀しみ、不安や絶望、誤解や偏見が交錯する人間喜劇が繰り広げられる。
そしてその狂気に満ちたおぞましい騒動の末に現れる人間の善なる部分に、少なからぬ救いを感じることができるのが、この映画最大の魅力である。

閉じられたスモールタウンでの犯罪、スリラー、そしてコメディを交えたドラマということですぐに「ファーゴ」を連想した。
もちろんそれはフランシス・マクドーマンドがどちらも主演という共通性から浮かんだ連想ではあるが、監督の考えの中にこの映画の存在があったのは間違いないだろう。
そんな想像が働く内容である。

監督はマーティン・マクドナー、アイルランド系のイギリス人である。
映画を手がける前は舞台で活躍しており、劇作家として高い評価を受けている。
緻密で意表を突く展開、人間を見つめる確かな目など、脚本の巧みさは、劇作家として培った経験を反映したものだろう。
類まれなる才能を感じる。
そうした脚本の佳さをさらに高めるのが、曲者ぞろいの出演者たち。
フランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェル、ウディ・ハレルソンといった主要俳優はもちろんのこと、彼らを取り巻く脇役陣たちも忘れ難い。
広告会社の若き社長レッド、サム・ロックウェルの酒浸りの老母、マクドーマンドの元夫と19歳のガールフレンド、小男のジェームスなど、いずれも個性豊かな俳優ばかり。
そうした配役の妙には、監督のセンスの良さが窺える。
さらにそうした気配りは、映画の細部にも見ることができるが、それを確認するためにも、またもういちどこの映画を見直してみたいなどと考えている。
そう思わせる力を持った映画なのである。


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映画「シェイプ・オブ・ウォーター Shape of Water」

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昨年度のアカデミー賞で13部門でノミネート、作品賞、監督賞、音楽賞、美術賞の4部門で最優秀賞を獲得した話題の映画である。
それが新作レンタルで登場、さっそく借りてきた。

米ソ冷戦時代のアメリカを舞台に、主人公イライザと半魚人の恋を描いたファンタジーである。
いわゆる異類婚姻譚の一種であるが、こうした話は神話や説話によって昔から語られてきた物語である。
映画でいえば「キングコング」や「美女と野獣」などがそれにあたる。
それらの映画では怪獣たちが人間の女性に魅せられるが、この映画では女性の側から怪獣に惹かれていく。
そこが大きく違うが、それは主人公イライザが幼い頃のトラウマがもとで声を出すことができないという設定に基づいている。
孤独な魂がもうひとつの孤独と出会って心を通わせる。
囚われて自由を奪われた半魚人に惹かれていくのは当然というわけだ。
外見の異様さは彼女にとって障害とはならない。
それをたやすく飛び越える資質を彼女は持っている。
それは彼女の生活を見れば一目瞭然。
親友であるアパートの隣人ジャイルズはゲイの老画家、また同僚で友人の掃除婦ゼルダは黒人の女性と、いずれも社会の片隅で生きるマイノリティである。
そして彼女自身は言葉が話せない。
半魚人はけっして遠い存在ではない。
恐怖の対象とは見ていない。
まるで子犬に近づくような優しさで半魚人と触れ合おうとする。
何と純粋で無垢で愛らしい姿であろうか。
その好奇心に満ちた眼差しを見ていると、昔観た映画「ミツバチのささやき」の純真無垢な少女の姿を思い出す。

そして物語の中盤、事態は一気に動き出し、米ソのスパイ合戦を絡ませた半魚人の救出劇で大いに楽しませてくれる。
またイライザの日常の描き方にも楽しみの要素が様々散りばめられている。
まず彼女が住むアパートは映画館の上にあるという設定である。
そこで上映されているのが史劇「砂漠の女王」。
そのストーリーが、この映画の物語ともリンクしている。
また隣人ジャイルズは古い映画が好きで、テレビで放映される昔の映画ばかり観ている。
その映画に合わせてふたりでタップを踏む場面が楽しい。
そしてそれがイライザと半魚人がダンスを踊る幻想シーンへと繋がっていく。
SFがあり、ホラーがあり、活劇がある。
さらにそこにミュージカルまでが加わるという、まるでオモチャ箱をひっくり返したような賑やかさ。
そうしたすべてが混乱することなく、イライザと半魚人のロマンスをしっかりと支えているのである。
映画好きには堪らないシーンが満載である。

監督はメキシコ出身のギレルモ・デル・トロ。
特殊メイクから映画の世界に入ったという変わり種。
少年時代に日本のアニメやマンガ、特撮映画に夢中になり、その影響を大きく受けたという。
いわゆりオタク精神の持ち主である。
そんな少年時代にテレビで映画「大アマゾンの半魚人」を観た。
映画では「半魚人は探検隊の女性に恋するけど、殺されてしまう。」
だが「半魚人があまりに可哀そうで、僕は、半魚人が彼女と仲良くデートする絵を描いた。それからずっと2人を幸せにしたいと思い続けて、40年以上かけて夢をかなえたんだ」
古い革袋に新しい酒を入れたというわけである。
そうやって生み出された「シェイプ・オブ・ウォーター」の半魚人は、異形の姿をしているが、人間に危害を加える怪物ではなく、柔らかな心を持った存在として描かれる。
そしてそこに自らを含めたマイノリティたちの怒りや悲しみを付与することで、確かな今日性を獲得しているのである。
さらに言えば、囚われ虐待され傷ついた半魚人の姿には、殉教者のイメージを重ねるて見ることもできる。
そうした読み解きができるのも、この映画がもつ豊かさである。

題名の「シェイプ・オブ・ウォーター」は日本語に訳すると「水の形」。
だが水に形などはない。
これについて監督は次のように語っている。
「愛と水には形はない。だがそれはどこへでも流れ込んでいける。そしてその入れ物に合わせて形を作る。愛と水はこの世で最も強い力なのだ。」
その言葉通り場所を変え、形を変えるたびに愛も水も変化していく。
その行きつく先が果たしてどんなものになるか、それは映画を観てのお楽しみ。
映画愛、モンスター愛に溢れたラブ・ロマンスを心ゆくまで堪能してほしい。


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映画「弁護人」

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韓国は映画作りが盛んな国だ。
そしてその質も高い。
かつては日本に追いつけ追い越せという時代もあったが、今やそのレベルを超えて独自の道を歩んでいる。
そして数々の名作秀作を生み出している。

韓国映画の質の高さを初めて認識させられたのは、「韓流」ブームが起きる以前の2000年。
映画「風の丘を越えて 西便制(ソピョンジェ)」と「シュリ」を観たことがきっかけであった。
「風の丘を越えて 西便制(ソピョンジェ)」は韓国の伝統的な民俗芸能であるパンソリを唄いながら各地を流れ歩く旅芸人親子の物語。
「シュリ」は韓国の情報部員と北朝鮮の女工作員の悲恋を描いたスパイ映画である。
そしてこのふたつの映画の上映を契機に、多くの韓国映画が日本に進出するようになったのである。

この時のインパクトが強く、以来、話題になった韓国映画などを観るようになったが、といって特別熱心な韓国映画ファンというわけではない。
だが気になる存在としていつもあり続けている。
そんななかから印象に残った作品をあげてみると
「八月のクリスマス」、「ペパーミント・キャンディー」、「JAS」、「グリーンフィッシュ 」、「殺人の追憶」、「グエムル 漢江の怪物」、「チェイサー」、「息もできない」、「大統領の理髪師」、「ブラザーフッド」、「オアシス」、「母なる証明」など。
いずれも個性豊かな作品ばかり。
そしてそれらに続いて今回はこの「弁護人」である。

主演はソン・ガンホ。
先にあげた映画の中でも「シュリ」、「JAS」「グリーンフィッシュ 」「殺人の追憶」、「グエムル 漢江の怪物」、「大統領の理髪師」に出演しており、韓国映画を代表する名優である。
そして私にとっても馴染のある俳優である。

物語は80年代の韓国で実際に起きた国家保安法違反事件を扱っている。
国家保安法とは、反国家的な活動を取締る法律で、北朝鮮を念頭に置いて作られた法律である。

この映画では民主化運動に関わった学生たちが、司法の捏造によって国家保安法違反に問われる。
その暴挙に対して、たったひとりで立ち向かったのが、ソン・ガンホ演じるウンソクという弁護士。
ウンソクは高卒ながらも苦学して弁護士となった人物である。
ところが高学歴やコネがものを言う法曹界にあって、ウンソクはのけ者的な存在になっている。
そんな連中を何とか見返したいと考えたウンソクは、法律改正をきっかけに土地登記や税務の分野に進出、それが功を奏して売れっ子弁護士となった。
成功を収めたウンソクは、苦学時代に無銭飲食をした飲食店のことを思い出す。
そこで食堂を訪ね、かつての非を詫びるが、女店主のスネは過去のことは問わず、成功したウンソクのことをともに喜んでくれたのである。
以来、客として頻繁に店を訪れるようになったが、ある時、スネの一人息子が国家保安法違反容疑で検察公安に逮捕されてしまう。
スネは息子のための弁護人として法廷に立つようウンソクに頼むが、政治に関心を持たず、金儲けだけに奔走するウンソクは躊躇する。
だがスネの必死な訴えに折れて息子の弁護人となることを決意、裁判に関わることになる。
そのなかで国家権力の闇の深さを知ることになり、それが正義感の強いウンソクの心に火をつける。
そして「国家を敵に回しても無罪を勝ち取る」と猛然と立ち向かっていくことなる。

この事件のモデルとなったのは、1981年の「釜林(プリム)事件」。
軍事クーデターで大統領となった全斗煥が、「北朝鮮のスパイや不満分子たちが政府転覆を画策している」として全国的に取り締まりを強化したなかで起きた事件。
社会活動家たちが捕えられて不法に監禁拘束、拷問による自白をもとに裁かれたのである。
それを当時税務弁護士であった盧武鉉(ノ・ムヒョン)が、被告となった学生たちの弁護人となって活動した事実をもとに映画化した。
盧武鉉は後に第16代大統領となったが、収賄容疑に関わったとして弾劾、それがもとで投身自殺をした。
そうした背景を持つ難しい役をソン・ガンホは果敢に演じたのである。

ソン・ガンホは、特別容貌が目立つというような俳優ではなく、むしろ外見的にはごく普通で、どこにでもいそうな地味な人物である。
ところがそんな彼が、いったん役を演じると、とたんに強烈な熱気を発散する。
地味であるだけに、どんな役にも染まやすく、その役になり切り、目を見張るような演技を見せてくれる。
「弁護人」での弁護士役も、そうしたソン・ガンホの持ち味を充分に生かした適役である。
その熱演がこの映画の第一の見どころである。

これまで観てきた韓国映画で感じることは、やはり国が南北に分断されたという特殊な事実である。
そのことがどんな映画にも影のように付き纏って離れない。
だがそうした事実が、映画に大きな力を与えていることも確かで、そこが他の国、とくに日本映画と大きく異なるところだろう。

さらに韓国映画のもうひとつの特徴に、けっして観客を飽きさせないサービス精神がある。
その貪欲で過剰なまでのサービス精神が、時に空回りをすることもあるが、いったんツボにはまると予想を上回るエネルギーを発揮することになる。
韓流ブームが起きたのも、そうしたサービス精神に魅せられたところがあるのかもしれない。
この映画にもそうした特徴が随所に見られる。
それがこの映画の大きな力になっている。

しばらく遠ざかっていた韓国映画だが、これでまた韓国映画をいろいろと観てみたいという気持ちになってきた。


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Tags: 戦争映画  

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映画「プライベート・ライアン」

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一昨日の夜中である。
目が醒めたのでいつものようにテレビをつけ、何気なく見ていたところ、映画「プライベート・ライアン」が始まった。
いちど観た映画なので、観ないでおこうかと思ったが、冒頭の上陸の場面が始まると少しだけ見てみようという気になり、そのまま観続けたところ、すぐに目が離せなくなってしまった。
そして結局は最後まで観てしまうことになったのである。

この映画を最初に観たのは、1998年の公開時。
映画はノルマンディーのオマハビーチ上陸の場面から始まる。
上陸艇がオマハビーチに到達すると、乗り込んだ兵士たちが、次々と上陸していく。
その兵士たちに、ドイツ軍の銃撃が雨嵐のごとく襲いかかってくる。
兵士たちは成すべくもなく次々と倒れていく。
ある者は上陸することもなく海に沈む。
またある者は敵前に辿りつく前に倒れてしまう。
海岸は次第に兵士たちの死体で埋まってゆき、海は見る見る血の色に染まっていく。
まるで本物の戦争を見ているような凄惨な場面である。
それが延々と20分間にわたって繰り広げられていく。

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これほどリアルな戦闘場面はそれまで見たことがなかった。
思わず目を背けたくなるほどだが、それでいて目を反らすことができない。
迫力ある映像が怒涛のごとく押し寄せてくる。
心底圧倒されてしまった。
そしてこの場面の衝撃があまりに大きく、その余韻を引き摺ったため、その後のドラマは表面的な進行を追っただけで終わってしまったのである。

ところが今回見直してみると、初見の時とは違って、その後に展開されるドラマのほうに強く惹きつけられるものがあった。
確かにオマハビーチ上陸の場面は今見ても凄く、その迫力はいささかも衰えてはいなかったが、それでもやはりいちど見ているということもあって、かなり冷静に見ることができた。
そのため続くドラマも以前とは違い冷静な状態で観ることができ、以前気づかなかったことに気づかされ、深くドラマに入りこむことができた。
そこには新たな発見があり、この映画の良さをより深く理解することができたのである。
名作はやはり繰り返し観るべきだ。
つくづくそう思う。

そういうわけで寝不足にはなったが、そのことはまったく苦にならなかったのである。


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Tags: ヴィゴ・モーテンセン  

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映画「はじまりへの旅」

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先日観たヴィゴ・モーテンセンの映画「涙するまで、生きる」は素晴らしかったが、こちらもそれに負けず劣らずの秀作であった。

アメリカ北西部の森林の奥深くで、現代社会に背を向けて自給自足の生活をしながら暮らすベン・キャッシュ。
それを演じているのが、ヴィゴ・モーテンセンである。
キャッシュには6人の子供がいるが、学校には行かせず、独自の教育方法で子供たちを育てている。
その教育とは、森の中でのサバイバル術を教え、ロッククライミングやランニングで体を鍛え、子供にとっては難解とも思えるような様々な本を読ませるなど、どんな状況に陥ってもけっして挫けないタフな精神と体を作り上げようとするもの。
型破りで偏った教育ではあるが、確実に成果を上げて、子供たちは逞しく育っている。
そんなある日、療養中だった妻レスリーが急死したという報せが届く。
母の葬式に参列したいという子どもたちの願いに応えて、改造したスクールバスで現代社会へと旅立つことになる。
その2,400キロに渡る長い旅のなかで、それまで経験したことのなかった様々な出来事に遭遇、それによって彼らがどう反応し変化していくか。
そしてその行きつく先にはどんなことが待ち受けているのか、そうした姿が描かれる。

いかにもアメリカならではといった映画である。
かってヒッピー文化華やかなりし頃、60年代、70年代には、現代文明に背を向けて生活するコミュニティがアメリカには数多く存在した。
またアメリカには学校に行かせず、家庭で子供を教育するホームスクールという制度が存在する。
そうした背景があるアメリカだからこそ、このような映画が生まれたともいえる。
実際この映画の監督であるマット・ロスは幼い頃、こうしたコミューンで暮らしていたことがある。
そうした実体験をもとに脚本を書き、監督をしたのである。
この映画がけっして荒唐無稽な話ではなく、リアルで説得力のある話として迫ってくるのは、そのような背景があるからだ。

またこの映画を観ていて思い出したのが、「モスキート・コースト」という映画。
ハリソン・フォード主演の映画で、この映画同様現代社会に背を向けて家族6人で中米のホンジュラスへと移住する。
そこで理想とする生活を築こうとするというもの。
過去にそうした映画があったことを考えると、この映画「はじまりへの旅」がけっして珍しい作品というわけではないということが分かる。

この映画でのヴィゴ・モーテンセンはやはり素晴らしい。
彼はキャッシュのように常識に囚われず、自分の主張や意思を曲げないといった信念の男がよく似合う。
「涙するまで、生きる」もそうした信念の男であったが、こちらはそれをさらにひとひねりした役であった。
そういう役を自然体で演じられるのが彼の魅力である。
この映画の原題は「Captain-Fantastic」。
まさしくファンタスティックな役柄であった。
ちなみにこの映画でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされている。

社会とは、家族とは、教育とは、そういった様々な問題を深く考えさせられる映画であった。


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Tags: ヴィゴ・モーテンセン  

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映画「涙するまで、生きる」

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ヴィゴ・モーテンセンの長年のファンである。
彼を知ったのは「インディアン・ランナー」を観てからのこと。
1991年の映画なので、もう30年近く前になる。
その強烈な印象に魅せられ、以来ファンとなり、彼の出演と云うだけで観るようになった。
この映画もそうしたことから何の予備知識もなく観たが、「インディアン・ランナー」に負けず劣らず重い手ごたえのある映画であった。

時はアルジェリアがフランスの支配から独立しようとの機運が高まった1954年。
戦争前夜の不穏な空気が漂うアトラス山脈の山岳地帯が舞台になっている。
そこで小学校の教師をしているのが、ヴィゴ・モーテンセン演じるダリュという男。
ある日彼のもとに殺人犯であるアラビア人の男を連れて憲兵が現れる。
そして彼に代わってその男をタンギーという町まで連れていけと強引に命じて置いてゆく。
だがその気のないダリュは男を逃がそうとするが、男には逃げる気配がなく、逆に男からタンギーまで連れて行って欲しいと懇願される。
なぜ男がそうした行動をとるのか、アラブの「掟」に絡んだ事情が男の口から語られる。
そしてそれを証明するかのように男を殺そうとする村人たちの一団が襲い掛かってくる。
抜き差しならない状況に追い込まれたダリュは、男を連れてタンギーを目指すことになるが、その行く手には様々な危険が待ち構えている。
そしてそれらの障害を命がけで躱しているうちに、ふたりの間に友情のような心の交流が芽生え始める。

原作はアルベール・カミュの短編小説「客」。
カミュといえば不条理小説を書く作家として知られているが、こうしたリアルなものも書くのだということを初めて知った。
彼の小説は昔「異邦人」を読んだだけなので、詳しくは知らないが、原作になった小説は「転落・追放と王国」という作品集のなかに収められたもの。
アルジェリア生まれのカミュが、独立戦争勃発前の1954年に書いた。
それを大幅に作り直して出来たのがこの映画である。

この世の果てのような荒涼とした風景が圧倒的なスケールで迫ってくる。
その不毛の土地のなかで問わず語りに交わされるふたりの言葉が重い。
その会話の中からそれぞれの人生が朧げに浮かび上がり、立場を越えた共感がふたりの間に生まれる。
そしてタンギーの町を目前にして最後の決断を迫られることになる。

ヴィゴ・モーテンセンの魅力炸裂の映画である。
「インディアン・ランナー」以後、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」や「イースタン・プロミス」などで個性的で強烈なキャラクターを演じてきたモーテンセンだが、この映画の彼もそれに勝るとも劣らない。

ヴィゴ・モーテンセンはデンマーク人の父のもと、ニューヨーク州マンハッタンで生まれ、2歳の時にベネズエラに移住、さらに1年後にはアルゼンチンへと移り住んでいる。
また両親が離婚した11歳の時には母親の故郷であるカナダ国境沿いのウォータータウン市に移住、さらに毎年夏になると父親の故郷デンマークへ行くという生活であった。
そうした経験から、彼は英語のほかにスペイン語、デンマーク語、フランス語、イタリア語などを流暢に話すことができる。
そんな才能を生かして彼は、アメリカ映画に限らず、各国の映画に出演することが多い。
この映画もアメリカ映画ではなく、フランス映画である。
そして彼が演じるダリュという男はスペイン系のフランス人という設定。
セリフはほとんどがフランス語、そしてときたまアラビア語も使う。
多国語に堪能な彼ならではの役柄といえよう。
この映画を観たことで、また新たな一面を見ることができたのである。


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Category: 外国映画

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映画「ドリーム」

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1962年のマーキュリー打ち上げ(アメリカ初の有人宇宙飛行)計画という国家プロジェクトを描いた映画である。
映画「ライトスタッフ」でも描かれたプロジェクトである。
「ライトスタッフ」ではそれに挑んだ宇宙飛行士の姿が描かれたが、この映画ではそれを支えたスタッフたちを描いている。

NASAがあるのは南部バージニア州。
アメリカの他の地域以上に黒人差別が激しいところ。
そして多くの天才たちが集められ、時代の最先端の科学技術を扱うNASAにあっても、それは例外ではなく、同様の差別が当たり前のように存在していた。
まず働く場所が白人と黒人(映画では非白人と表記)では厳然と分けられており、日常的に交流することはない。
また待遇面でも大きな隔たりがある。
そして仕事の内容は、ほとんどが雑用に等しいようなものばかり。
プロジェクトの重要な部分に携わることはけっしてない。
そうした差別をどのように乗り越え、いかにしてプロジェクトで大きな役割を果たすようになっていくか、それを描いたのがこの映画である。

主人公は数学の天才キャサリン、そして同僚のドロシーとメアリー。
黒人でしかも女性という二重のマイノリティである彼女たちの奮闘ぶりが、米ソ冷戦中の苛烈な宇宙開発競争の中で描かれる。

1961年、ソ連はガガーリンによる人類初の宇宙飛行に成功する。
先を越されたアメリカは、それに対抗するためにマーキュリー計画を立ち上げ、総力を上げてこの計画に取り組むことになる。
アメリカの威信がかかったこの計画は、何としても成功させなければならないが、難問山積、しかも特別研究本部では数式計算の間違いが続出、高度な計算をこなせるスタッフの必要性に迫られる。
そんな差し迫った状況のなか、優れた数学者であるキャサリンが新たなスタッフとして派遣されることになる。
しかしそこは黒人がけっして足を踏み入れることのできなかった特別な部署である。
黒人でしかも女性という二重のハンデを抱えたキャサリンの前に、様々な差別が待ち受けていた。
しかしそんな差別に挫けることなく、それと闘い、そして自分を磨くことで困難な壁を乗り越えていく。
そして同僚のドロシーとメアリーもそれに歩調を合わせるように困難な現実に立ち向かっていく。
そのプロセスは感動的、何度も胸が熱くなってしまった。

扱っているテーマは重いが、けっして暗くはならない。
というよりもひたすら前向きで明るいところがいかにもアメリカ的。
そしてそこがこの映画の魅力でもある。

先が読める展開、予定調和的といえばそのとおりだが、それをどう見せていくか、そこが腕の見せ所である。
そのために印象的なデティールを次々と積み重ね、リアルなものに仕立てていく。
それが無理なく伝わってきて、非常に説得力がある。
丁寧な映画作りをしているのが、よく分かる。

これは先日観た「フェンス」や「ラビング」と同じ時代である。
見比べながら観るとより興味深く観ることができる。

さらにつけ加えるならば、これは事実に基づいて作られた映画である。
しかしアメリカ初の有人宇宙飛行計画という華々しい歴史の陰にこうした事実があったということは、長い間日の目を見ることはなかった。
映画の原題は「Hidden Figures」。
Hiddenには「隠された」とか「知られざる」という意味があり、Figureには「数字」や「人物」といった意味がある。
すなわち「隠されていた人々」が、有人宇宙飛行を成功させるために「隠された数字」を探し求めるというのがこの映画である。
そしてその探し求める数字を見つけ出すのに大きな役割を果たしたのが、黒人女性のキャサリンたちというわけである。
そうした事実はタイトルロールで説明されるが、このように隠された事実が世紀を越えて掘り起されたことは非常に意義が深い。
こうした積み重ねによって時代は確実に変わっていく。
そのことをこの映画であらためて教えられた。
そして同時に大きな勇気と感動をもらったのである。


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