風に吹かれて

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小池真理子「沈黙のひと」

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小池真理子の小説を読むのはこれが2冊目。
最初に読んだのは「望みは何と訊かれたら」。
2年ほど前のことだったと思う。
60年代後半の大学紛争を舞台に、学生運動に関わった女子学生の恋愛を描いたもので、読みごたえのある小説だった。
そして今回の「沈黙のひと」である。
85歳で亡くなった作者の父親をモデルにした小説である。
大正十二年、満州大連で生まれ学徒出陣、戦後は東北帝国大学に進学、会社員となった父親が後年パーキンソン病を患うようになる。
そして長い介護生活を経た後亡くなった。
死後遺品整理をしていた時、ある物を発見、そのことをエッセイに書こうと編集者に話したところ、それは小説にすべきだと薦められる。
そして書いたのがこの小説だった。

物語は、編集者である衿子の目を通して父・三國泰造の姿が描かれるが、現実とは違い母娘を残して家を出て行った男として描かれている。
そして再婚後ふたりの女児をもうけるが、妻とは不仲で不遇な家庭生活であった。
やがてパーキンソン病を患うようになる。
体が不自由になり、言葉も思うようにしゃべれなくなってしまう。
手に負えなくなった家族は彼を介護老人ホームに入所させる。
そこから衿子の献身的な介護生活が始まる。
「沈黙のひと」となってしまった父親と、何とか意思疎通を図りたいと願った衿子は、文字盤を使うことを考え出す。
それによってささやかな会話が可能になるが、やがてそれも困難になり、最期の時を迎える。
介護を通して初めて父親と触れ合うことができたと感じた衿子は、父親のことをもっと知りたいと思い、遺品として残された日記、手紙、ワープロに保存されていた備忘録などを手がかりに、父親の心の軌跡を辿っていく。
そして文学好きで、短歌を詠み、女流投稿歌人とも文通を重ねた父親の新たな側面を知ることになる。
そこに自らの人生を重ねることで、より深く父親に寄り添うことができたと感じる。
そして自分自身も救われたような気持ちになるのである。

こうした内容ではあるが、けっしてお涙頂戴にはならない。
感情に流されることなく醒めた目で淡々と綴られていく。
それは主人公、衿子が「家族と離れて生きることしか考えなかった」女、「自分の人生を生きることで忙しすぎた」女であるという設定ゆえのもの。
すなわち作者自身の視線でもある。
それが父親の介護と人生を見つめ直すことで、次第に愛憎相半ばするものとなっていく。
そして最終章ではそうしたものすべてが昇華された静かな感慨へと至るのである。
それを読んで思わず胸が熱くなってしまった。
どんな困難な人生であったとしても、人生は生きるに値する。
これはそんな人間賛歌を謳った物語なのである。
小池真理子、渾身の一冊であった。


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笹本稜平「時の渚」

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笹本稜平の小説を読んでいる。
初めて読む作家だが、迫力あるストーリーに惹かれて読み続けている。
これで3冊目になる。
最初に読んだのは山岳小説「還るべき場所」、続いて警察小説「特異家出人」、そして今回の「時の渚」である。
こちらは探偵小説。
この他にも海を舞台にした冒険小説など、ジャンルは幅広い。
ちなみに経歴を調べてみると、

1951年、千葉県生まれ。立教大学社会学部社会学科卒。
出版社勤務を経て、海運分野を中心にフリーライターとして活躍。
2000年、「阿由葉稜」名義で『暗号―BACK‐DOOR』を書き下ろしてデビュー。
2001年、2作目となる『時の渚』で第18回サントリーミステリー大賞と読者賞をダブル受賞。
2004年には『太平洋の薔薇』で第6回大藪春彦賞を受賞。

となっている。
警察小説にはいくつかシリーズがあり、かなり多作の作家のようである。
多作となると、どうしても筆が荒れがちになるものだが、これまで読んだ小説に関してそれは感じなかった。
今回の「時の渚」も同様である。
よく練られたストーリーと緻密な描写に、グイグイと引っ張られて読んでいった。

主人公は私立探偵茜沢圭。
警視庁捜査一課の刑事だったが、逃走する殺人犯の車に妻と幼い子供がひき逃げされ、それが原因で刑事の職を離れることになった。
その彼が末期ガンで余命幾ばくもない老人から、三十数年前に見知らぬ他人に託した息子を捜し出してほしいとの依頼をうける。
捜索を始めた彼のもとに、かつての上司から連絡が入る。
数日前に起きた殺人事件の遺留物のDNAが、茜沢が刑事をやめるきっかけになった事件の犯人のものと一致したという。
そこから息子捜しと殺人事件捜査への関わりが始まり、無関係に思えたふたつの調査に意外な接点が浮かび上がってくる。

二転三転する展開はセオリー通り。
ご都合主義とも思えるところもあるが、力技でグイグイと押していく。
その潔さが心地いい。
読み終わった後は、主人公とともに困難な捜査を解決した充足感が味わえる。
読み応えのある小説だった。

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佐藤泰志「黄金の服」

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先日観た映画『オーバー・フェンス』の原作が収録された短編集である。
映画の後、原作も読んでみたいと図書館で借りてきた。
「オーバー・フェンス」「撃つ夏」「黄金の服」の3篇が収められており、「オーバー・フェンス」は1985年の文学界に、「撃つ夏」は1981年の北方文芸に、そして「黄金の服」は1983年の文学界に発表されたものである。
小説「オーバー・フェンス」は、佐藤泰志自身が東京から函館へ戻り、職業訓練校に入校して学んだという実体験をもとに書かれたもので、芥川賞の候補にもなっている。
ちなみにこれが5度目の芥川賞の候補で、結局受賞はならなかった。
映画『オーバー・フェンス』はその小説をほぼベースにしているが、大きく違うところは3点、まず主人公の白岩は小説では20代だが、映画では40代になっている。
ふたつ目は、映画では白岩が別れた奥さんと再会するシーンが出てくるが、小説にはこれがない。
そしていちばん違っているのは3つ目の聡のキャラクターである。
小説に出てくる聡は花屋に勤めるごく普通の女性だが、映画の聡は相当の変わり者。
鳥になりたいと願い、鳥のダンスを踊るキャバクラのホステスである。
情緒不安定で、突然怒ったり泣いたりと予測のつかない行動をとる。
これは小説集のなかの「黄金の服」に出てくるアキという女性がモデルになっており、それをさらに膨らませたもの。
映画ではそのキャラクターがあまりに過激で、引いてしまったが、考えてみればこの存在があるからこそ、白岩の駄目さ加減が炙り出され、また変わろうとする原動力にもなっており、けっして奇を衒ったというわけではない。
重要なポイントになる役だ。
それを蒼井優が熱演しているが、成功したかどうかは評価の分かれるところ。
それほどの難役なのである。

こうやって見てくると、やはり映画と小説とは別物なのだとつくづく思う。
こうした映画的改変が行われるのは、当たり前のこと。
そしてこの映画では、そうした改変が小説をより大きく膨らませることになっており、映画の成功に大きく結びついている。
原作を読んで、そのことがよく分かった。
いい勉強になった。


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篠原勝之「骨風」

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クマさんことゲージツ家の篠原勝之氏の書いた短編小説集である。
こうやってブログで小説の感想を書く時、通常は著者名に敬称はつけないが、クマさんの場合はどうしても「篠原勝之氏」と敬称をつけずにはいられない。
それはクマさんがFacebookでの知り合いだからである。
Facebookでクマさんの生活の様子などを見ているうちに、いつしか彼が近しい知人であるかのような気持ちになっているからである。
だからといって彼のことを詳しく知っているわけではない。
未だに謎を秘めた人という印象が強く、その実態は曖昧なままである。
最近はあまり見かけなくなったが、以前はテレビなどに出ているのを見て、その個性的な外見や人となりに惹かれていた。
それ以前は状況劇場のポスターに、インパクトある絵を描く画家として、そして最近は鉄や石、ガラスといった素材を使ってオブジェを創作するゲージツ家としての認識であった。
その程度の知識しかなかったが、今回この小説を読んでいろいろと新しい発見をした。
そしてますますその個性的な世界に惹かれていったのである。

この短編集は2013年から14年にかけて「文学界」に書いた5篇に、書下ろし3篇を加えたものである。
ほぼ実体験に基づいて書かれているようだが、そこはやはり小説である、虚実入り混じっているわけで、それのどこまでが本当で、どこまでが虚構なのか、そんなことを考えながら読むのも面白い。

クマさんは1942年、北海道札幌市生まれの室蘭市育ちである。
父親は元警察官、応召されて満州へ赴き、復員後は室蘭の製鉄所で工員となった。
クマさんは生後まもなくジフテリアに罹り、生死の間をさ迷ったが何とか助かった。
しかしその結果、嗅覚と左耳の聴覚を失ってしまったのである。
その影響からか学校でも家のなかでも、ボーっとして空ばかり見上げているような子供であった。
加えて生来の意気地の無さから、よくいじめられていたそうである。
屯田兵だった母方の祖父は、相撲大会で優勝するほどの人で、その祖父ゆずりの骨太な体躯をしていたにもかかわらずである。
今では考えられないことである。
また家では終始不機嫌な父親から毎日のように殴られていた。
そのため恐ろしさから顔もまともに見ることができなかった。
この当時のことはインタビューで答えており、それによると「復員したオヤジは、ぼーっとした長男に腹が立ったんだろうな。『鬼かよ』と思うほど殴られた。創作部分もあるけど、オヤジの暴力は全部、本当。」と言っている。
その激しい暴力に長年耐えてきたが、17歳の時とうとう家を飛び出してしまった。
そして時が過ぎ、30数年ぶりに母親から電話がかかってきた。
父親が臨終でもう長くはないというのだ。
来てくれないかとの頼みに、気が進まないまま会いに行く。
そして植物状態になった父親の臨終に立ち会うことになるのである。
その顛末を書いたのが、表題作の「骨風」である。
<殺すことより逃げる事を選んで、三十数年逃げ切ったはずだったのに、その父親が目の前に枯れ木のように横たわっている。過ぎ去っていった時間に目眩がした。>
父親に対する複雑な思いが切なく胸に迫ってくる。

続く「矩形(くけい)と玉」「花喰い」「鹿が転ぶ」「蠅ダマシ」「風の玉子」では上京後のことや現在の暮らしを題材に、そして最後の「今日は、はればれ」「影踏み」では認知症になった母親と、弟との複雑な関係とその最期について書いている。
そのなかで出会う動物や知人や家族の死や病、それらがぶっきらぼうで飾り気のない文体で書かれていく。
そこに甘い感傷はなく、あるのはあくまでも醒めた強い視線だけ。
時にユーモアが交じる。
そして死についての様々な言葉が挟み込まれる。
たとえばそれは、遊び仲間で師匠でもあった深沢七郎の「人が死ぬことは、清掃事業だから、喜んでいいことだ」といった言葉や、母親の「死んだらみんなおんなじだもの。」といった言葉である。
単純であっけらかんとしたこうした言葉に心動かされる。
そして「諸行無常」とか「万物は流転する」といった言葉が、ごく自然に浮かんでくる。

クマさんの自由で気楽な印象から、世間的なしがらみとは無縁のように見えるが、実はそうしたしがらみが断ちがたく、いつまでもついて回っている。
そうしたものから逃れることが、自分らしく生きるための彼らしいやり方であったということがよく分かる。
そして17歳で家を出るとき、母親から言われた「アンタは泣き虫だから、悲しくなったら手を動かすんだよ」という言葉を守るかのように、今でもせっせと手を動かしてゲージツ活動に勤しんでいるのである。

この小説は第43回泉鏡花文学賞の受賞作である。
そしてこちらもFacebookでの知り合いである劇団「新転位・21」の山崎哲氏によって劇化されている。


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Tags: 時代小説  葉室麟  

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葉室麟「津軽双花」

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津軽藩2代目藩主、津軽信枚(のぶひら)の時代の話である。
慶長18年(1613年)徳川家康の養女・満天姫が信枚のもとに輿入れしてくる。
本州最北端の津軽を、北方防衛上重要な藩だと考える幕府が、津軽家との絆をより強固なものとするためであった。
しかし津軽家には、すでに辰姫という正室がいた。
彼女は関ヶ原で敗れた石田三成の遺児である。
関ヶ原の合戦で三成が敗れた後、兄の石田隼人正重成は津軽に逃れ、津軽家の家臣になっていた。
信枚の父、初代藩主為信が三成から大いなる恩義を受けていたためであった。
そして今は津軽家の家臣となって杉山源吾と名乗っている。
また三成の娘辰姫は高台院(秀吉の妻寧々)の養女となって庇護を受けていた。
高台院は重成とともに石田家の血筋を残そうと考え、また津軽家と石田家の結びつきをさらに強いものにするために、辰姫を信枚の妻としたのである。
そこへ満天姫輿入れの話が持ち込まれた。
板挟みになった信枚だったが、結局は幕府の意向を受け入れ、辰姫を飛び地領の上州大館村(現在の群馬県太田市)に移し、満天姫を正室として迎え入れるたのである。
ここから満天姫と辰姫の「女の関ヶ原」ともいうべき戦いが始まった。
しかしその争いは、相手を陥れようとするような悲惨なものではなく、お互いの越えられない立場の違いからくるもので、戦国時代を生きる女の矜持が感じられるものであった。
ともに津軽家にとって何が大事かということを第一に考えながらの争いであった。
まさに津軽のふたつの輝ける花、「津軽双花」なのである。
そしてこのことが後の津軽家の安泰へと繋がり、さらに石田三成の血筋が津軽の地において脈々と生き続けていく礎になったのである。

調べてみると、この小説はほぼ史実に基づいて書かれたものだ。
こうした歴史があったということを、この小説で初めて知った。
地元に住んでいても歴史に特別興味を持っていない限りは、こういうことを知る機会はなかなかないものだ。
そういう意味ではこの小説はそうした機会を与えてくれたわけで、いい勉強になったと思っている。

弘前では昨年、弘前城本丸の石垣改修のために天守を移動するというイベント「天守曳屋」が大々的に行われた。
また先日4月9日には、「石垣解体始め式」も執り行われた。
そして今後10年をかけて石垣の改修工事が行われる。
こうした節目の時にこの小説を読んだことは、特別記憶に残る読書体験になったように思う。
そしてそのことで津軽の歴史への興味が、さらに大きくなったのである。


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桜木紫乃「ワン・モア」

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桜木紫乃の小説を読み始めて、これで7冊目になる。
この小説は6篇の短編からから成る連作短編集であるが、数えてみるとこれまで読んだ7冊のうち、この小説を含めて4冊までが連作短編集である。
桜木紫乃の小説にはこの形式が多い。
彼女にとっては得意の形式ということになるのだろう。
大きな特徴である。

主人公は柿崎美和と滝澤鈴音というふたりの女性。
高校の同級生で、どちらも医師志望ということから同じ大学に進学した。
卒業後、柿崎美和は市民病院の医師として働いていたが、安楽死事件に手を染めたことから、離島の診療所へと追いやられた。
いっぽう滝澤鈴音は親の後を継ぎ、個人病院の院長となった。
その鈴音に癌が見つかり、余命宣告を受ける。
鈴音は美和に自分の後を託そうと、代わりに院長としてやってくれないかと依頼する。
承諾した美和は院長となり、鈴音の癌を治そうと決意する、というのがメインのストーリーである。
そこに鈴音の元夫の志田拓郎や、彼女たちのもうひとりの同級生でレントゲン技師の八木浩一、看護師の浦田寿美子、書店の店長である佐藤亮太といった人たちが関わって物語が展開していく。
それぞれが不安や悩みを抱えて生きている。
そして死の翳が見え隠れしている。
桜木紫乃らしい閉塞感に満ちているが、それらが最後に全員繋がって大円団を見せるのは、これまでの桜木作品とは違うところである。
鈴音が飼っている犬の出産を死に対比するものとして登場させ、それを媒介に全員が集まり、人生の再出発、すなわち「ワン・モア」を描くというのは、解かり易く、いささか出来過ぎの感がある。
好みからいえばこれまでの小説のように、もっと複雑で微妙な余韻を残す終わり方をしてもらいたかったというのが本音である。
しかしそう考えるいっぽうで、「人生はやり直しがきく」というメッセージを力強く伝えるためには、こうした終わり方でよかったのかもしれないとも思うのである。


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原田マハ「奇跡の人」

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何か面白い本はないかと、本屋で立ち読みしていたとき、たまたまこの本を手にしたところ、そこに「弘前」という地名があるのを見つけた。
どうやら「弘前」が舞台の話のようだ。
興味を引かれたのでじっくり読んでみようと、図書館へ行き借りてきた。

「奇跡の人」という題名からすぐに思いつくのは、ヘレンケラーの物語である。
聞こえず、見えず、話せずという三重苦を抱えたヘレンケラーが、アニー(アン)・サリバンによって言葉を理解するようになるという有名な話である。
昔映画で観て感動したことを憶えている。
ちょうど中学生くらいの時であったと思うが、クライマックスでは胸が熱くなり泣いてしまった。
映画を観て泣いたのは、これが初めてであった。
それだけに鮮やかな記憶として残っているのである。
ヘレンケラーを演じたのはパティ・デューク、アニー(アン)・サリバンを演じたのはアン・バンクラフト。
この映画でパティ・デュークはアカデミー助演女優賞を、アン・バンクラフトは主演女優賞を受賞している。

そしてこの小説である。
題名通りまさにこれは日本版ヘレンケラー物語である。
ヘレンケラーが介良(けら)れん、アニー(アン)・サリバンが去場安(さりばあん)となっており、明治20年の津軽を舞台に書かれている。
読み始めてすぐに同じ話だということが分かった。
それをなぞった話をまたもういちど読むのもどうかと思いながら読んでいたが、いつの間にかそんなことも忘れてしまい、夢中になってしまった。
そして気がつくとそのまま一気に最後まで読んでしまったのである。
原田マハの語りの上手さを、あらためて感じたのである。

明治4年、9歳の去場安は、岩倉使節団の留学生として渡米する。
彼女は生まれつき視力が弱く、いずれ目が見えなくなると医者から宣告されていた。
行く末を案じた父親は、ひとりで生きていける力を身につけさせようと、幼い彼女を留学させることに決めたのである。
そして16年の後、留学生活を終えた安が、女子教育に専心したいという希望を胸に帰国した。
その彼女のもとに伊藤博文から、青森県弘前町の男爵家の娘の教育係をやってもらえないかという依頼の手紙が届く。
それが三重苦の娘、介良(けら)れんであった。
情熱に燃える安は、その困難な仕事に挑もうと単身弘前へと赴く。
そしてけもののようなれんとの壮絶な試練の日々が始まるのである。

この物語と実際のヘレンケラーの物語との大きな違いは、津軽の盲目の旅芸人、狼野(おいの)キワという少女が登場することである。
手のつけられないきわは、座敷牢のような蔵に閉じ込められて生活をしていた。
そのきわを、蔵から出して大人しく生活できるようにするまでは、なんとかこぎ着けることができたが、きわのなかに眠る才能をもっと引き出したいと考える安は、それだけでは満足しない。
そこで環境を変えてさらなる飛躍を遂げようと、金木にある介良家の別邸にこもって、二人きりの生活を始める。
そこに「ボサマ」と呼ばれる門付け芸人の親子が、毎日のように門付けにやってくる。
その子供が10歳になるキワであった。
やがてキワはれんと親しくなる。
れんにとっては初めての友だちである。
そしてそのことが、れんの教育にとって大きな力になっていくのである。

アウトラインはヘレンケラーの物語をなぞっているが、細部は作者独自の工夫がされており、同じ話を読んでいるようには感じない。
まったく別な物語としての面白さがある。
とくにキワが登場して以降の話にとくにその感が強い。
ボサマやイタコ、川倉地蔵や「賽の河原」、そしてキワが歌う民謡や津軽三味線、そうした津軽独特の風土や風習が揃うことで、話に厚みが加わってくる。
また津軽弁が間違うことなく正確に書かれていることも、リアルさをさらに高める要因になっている。
そのことは地元の人間として感心したが、本の協力者に「九戸真樹」という名前があるのを見て納得した。
津軽の文化人で、地元発行の雑誌などにもしばしば文章を書いている人である。
その人が協力者となって名前を連ねている。
津軽に関する水先案内人になっている。
なるほど津軽弁を始めとした津軽のあれこれが、詳細かつ正確に書かれているのは、そのためである。
そうしたこともあって、よりいっそう印象深い一冊になったのである。


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桜木紫乃「ホテルローヤル」

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直木賞受賞作である。
「ラブレス」では直木賞を逃したが、2年後のこの「ホテルローヤル」で、その雪辱を晴らしたというわけである。

物語は、釧路湿原を見下ろす高台に建つ「ホテルローヤル」という名のラブホテルを舞台に、そこで繰り広げられる人間模様を描いた連作短編集である。
今は廃屋となったホテルから始まり、時代を逆回転しながら、最後は40年前のホテル建設の舞台裏へと遡っていく。
7つの短編から成っているが、経営者、従業員、客など「ホテルローヤル」に関わった人たちの姿が描かれる。
ラブホテルという淫靡で胡散臭い世界が舞台だが、そこで繰り広げられる人間模様はどれも行き止まり間のある切実なものばかり。
世間から目を背けられる日陰の場所だからこそ、そうした人間の本性が自然と現れるのだろう。
赤裸々に語られていくが、それは時に愚かしく、時に切なく、そして時に滑稽である。
そうした悲喜こもごもを読んでいるうちに、そこに暗さだけではない優しさや愛しさを感じるのは、これまでの桜木作品同様である。

ところでこの「ホテルローヤル」というのは、実在したホテルがモデルになっている。
桜木紫乃の父親が始めたという同名のホテルである。
高校生だった桜木紫乃は、学校から帰ると部屋の掃除などの家業を手伝ったそうだ。
小説の中でホテルの仕事が、細部に至るまでリアルに描写されているのは、そうした経験に裏打ちされているからだろう。
この小説に限らず、桜木紫乃の小説では、どれもこうした仕事の細部が丁寧に描き込まれているのが大きな特徴だ。
さらに舞台となる北海道の気候風土や風景が、独自の感性で巧みに表現されていることも、もうひとつの大きな特徴になっている。
小説世界がよりリアルなものとして立ち上がってくるのはそのためである。
そうしたことが多くの人を惹きつけてやまない大きな要因になっているのだと思う。


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桜木紫乃「ラブレス」

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これまで読んできた桜木紫乃の小説は、すべてが短編もしくは連作短編であったが、5冊目にして初の長編である。
この小説は第146回の直木賞の候補作であり、第19回島清恋愛文学賞受賞作品でもある。

物語は北海道標茶町(しべちゃちょう)の貧しい開拓村に生まれた、杉山百合江という女性の波乱の人生を描いたものである。
百合江が育った開拓小屋は、酒に溺れた父親が暴力で支配する家であった。
文盲の母親はその暴力にひたすら黙って耐えるだけである。
そうした家族のもとに、生まれてすぐ親戚の家に預けられた妹の里実が帰ってくる。
昭和25年、百合江15歳、里実11歳のときであった。
そしてその潤いのない家庭のなかで、妹の里実が百合江の唯一の味方になっていく。
しかしそれもつかの間、高校進学を夢見ていた百合江は、父親の借金のかたに無理やり奉公に出されることになってしまう。
そこから百合江の流浪の人生が始まる。
勤め先の薬局を飛び出した後は、得意の歌で生きていこうと歌芝居の一座に入り、各地を転々とする根無し草の生活を続ける。
そして昭和35年、百合江25歳のときに一座は解散、一座の女形でギター弾きの宗太郎とふたりで「流し」となって各地のネオン街をさすらうようになる。
さらにクラブ歌手などいくつか職業を変え、また宗太郎とも別れるなど、波乱万丈の生活が続いていく。
いっぽう妹の里実は、中学を出ると床屋に弟子入り、そこで腕を磨いた後釧路の理容室に移り、腕の確かな理容師となる。
そしてその腕を店主に見込まれた彼女は跡取り息子の嫁になり、やがて店をひとりで切り盛りするやり手の女主人となっていく。

その日暮しの生活で安定しない姉と、姉とつかず離れず支え続けるしっかり者の妹、対照的なふたりだが、どちらも懸命に生きていく。
そしてさまざまな人間たちが通り過ぎていく。
それとともに訪れる試練の数々。
そうした人生の足跡が情感豊かに描かれていく。

こうやって桜木紫乃の小説を読んできて思うことは、月並みな言い方になるが、やはり女の強さということだ。
どんなひどい目に遭おうとも、けっしてめげないしなやかさ。
どんなものも受け入れようとする柔らかな心。
そうしたものは、男には見られないものである。
女ならではの強さである。
そしてその底に流れる切なさ悲しさは、自分の人生を精いっぱい生き切ったことに対する讃歌の涙なのかもしれない。
そんなことをふと思ったのである。

ところで桜木紫乃は開拓三世で、百合江たちが暮らしていた開拓小屋は、彼女の祖母が住んでいた小屋がモデルということだ。
そういえば、小説の中で百合江の娘、理恵は小説家という設定になっている。
新人賞をとり、ひと月かふた月に一度のペースで小説を書き、そろそろ二冊目の本が出るというまだまだ無名の小説家の卵である。
おそらく桜木紫乃自身がモデルなのであろう。
小説の終盤、祖母の死後に祖母たち一家が住んでいたという開拓小屋を、従姉の小夜子とふたりで訪れる場面がある。
そこで彼女は小夜子に向かって次のように言う。

「わたしさ、おばあちゃんがここで生きてきたことを書きたいの。ここで死ねなかったことも、ちゃんと書いておいてあげたいの。おばあちゃんがどこからきて、何を残したのかを、誰かに知ってほしい。」

そして次のような文章が続く。

< 理恵には開拓者の血が流れている。小夜子にはないものだ。その血は祖母から百合江へと受け継がれ、生まれた場所で骨になることにさほどの執着心を持たせない。それでいて今いる場所を否定も肯定もしない。どこへ向かうのも、風のなすままだ。理恵が祖母と心を通わせることができたのも、開拓者の気質を受け継いでいるせいなのだろう。からりと明るく次の場所に向かい、あっさりと昨日を捨てることができる。捨てた昨日を、決して惜しんだりはしない。 >

こうやって親から子へ、そして孫へと女たちの思いが受け継がれていく。
そこに女たちの強さとともに、絶えることのない人間の繋がりの強さや希望といったものを感じるのである。


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桜木紫乃「蛇行する月」

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6章からなる連作短編。
というよりも連作長編といったほうが適切かもしれない。
各章の題名は「1984 清美」「1990 桃子」「1993 弥生」「2000 美菜恵」「2005 静江」「2009 直子」と、いずれも年代と名前がついているが、これはそれぞれの章の人物が語りつぐ25年間の物語になっているからである。
このうち清美、桃子、美菜恵、直子の4人は、北海道の同じ高校の図書部に在籍した部員仲間である。
さらにもうひとり須賀順子という部員がここに加わることになるが、彼女がこの物語の中心となる人物である。
しかし中心人物でありながら彼女の視点だけは書かれない。
それは他の6人の視点で見たそれぞれの順子像を描くことで、彼女を中心とした全員の人生が浮かび上がってくるという形をとっているからである。

須賀順子は高校卒業後、和菓子店に就職をした。
そしてその和菓子店の婿養子である20歳も年上の職人と駆け落ちをしてしまう。
各地を転々とした後、ふたりが最後に辿りついたのは東京の郊外のさびれた商店街にある小さなラーメン店であった。
そこで従業員として働いていたが、主人が倒れたので、その後を引き継いで、今はラーメン屋の店主として働いている。
ふたりの間に男の子が出来たが、生活は厳しく、世間一般の尺度からいえばとうてい幸せと呼べるものではない。
しかし順子はそれを「幸せ」だという。
強がりでも負け惜しみでもなく、心底そう思っている。
そうした順子の生活に、人生の岐路に立たされたそれぞれが、少しづつ関わっていくことになる。
そのなかで果たして彼女は幸せなのか、そして自分にとって幸せとは何か、そうしたことが問われていく。

4人以外に1993年に弥生、そして2005年に静江というふたりの女性が登場する。
弥生は順子が駆け落ちした職人の元妻。
夫が出て行ったあと、和菓子店の店主として忙しい毎日を送っている。
そして静江は順子の母親である。
60歳近くになる彼女はスーパーに勤めながらひとり暮しをしている。
10代で順子を生んだが、結婚に失敗、以後つき合ったいずれの男とも長くは続かなかった。
そして順子の駆け落ち後は、お互いにあまり連絡を取り合うこともなくなってしまった。
そうしたふたりが、時を前後してそれぞれ順子を訪ねることになるが、その再会は切なく侘しいものがある。

『幸福の形はいつも同じだが、不幸の形はそれぞれ違う』と書いたのは確かトルストイだったと思うが、この小説を読んでいると果たしてそうだろうかと思ってしまう。
逆な言い方をすれば、『幸福の形はさまざまだが、不幸の形は驚くほど似ている』となるのだろうが、これまた一面の真理であろう。
結局幸福も不幸もこれといった決まった形があるわけではなく、それぞれの考え方、心の持ちようで如何様にも変わってくるものである。
そうした人間の微妙な心理を巧みにすくいとって書いたのが、この小説ということになる。

人生はけっして単純に流れる川ではない。
どんな人の人生も複雑な形に蛇行しながら流れていく。
この小説で書かれた北の大地に生きる女たちの人生も、いち様なものではなく、また幸福の形も様々である。
そうした人生に触れることで、様々な感慨が浮かんでくる。
そして今回も深い余韻を残して、桜木紫乃の小説を読み終わったのである。


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