風に吹かれて

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わらび餅

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「夏が来れば思い出す♪~」とくると「尾瀬」へと続くのが「夏の思い出」の一節だが、自分の場合は「わらび餅」になる。
ここ数日6月初旬というのに連日真夏日の暑さである。
梅雨が来る前にこの暑さ、もうすでに夏本番という日が続いている。
こういう時に食べたくなるのが「わらび餅」である。
子どもの頃に親しんだ夏の味である。
夏になると屋台を引いたわらび餅売りが毎日やってきた。
それを買って食べるのが、子供の頃の大きな楽しみだった。
夏の風物詩であった。

先日たまたまスーパーでわらび餅セットというのを見つけた。
懐かしさと珍しさに、すぐに買いこんだ。
それを今日作ってみたのである。

作り方は簡単。
まずは鍋に1.5カップの水を入れ、そこにわらび餅粉60グラム(セットされている半分の量)を加えてよく混ぜて火にかける。
しゃもじでゆっくりかき回すと、次第にのり状に固まってくる。
それをスプーンですくって氷水のなかに落とし、しばらく冷やした後、水切りをして、きな粉をまぶす。
これで出来上がりである。
そのまま食べてもいいが、好みで黒みつをかけるとさらにうまい。
暑い時のおやつは、これがいちばんである。
子どもの頃に慣れ親しんだ味というのは、いくつになっても忘れられないものである。


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滑稽堂

弟は骨董収集が趣味である。
古い物を長年集めている。
厳密に言えば骨董というよりも古道具といったほうが当たっているかもしれない。
落語に「火焔太鼓」という演目があるが、弟の集める骨董はそれに近いもので、価値の高い貴重な物を収集するというよりも、そうした基準とは別の、ちょっと変わったもの、懐古趣味をかき立てるもの、そうした物を中心に集めている。
自らガラクタと称しているが、明治大正時代のもの、そして昭和のものとまさに玉石混交の骨董品である。

以前帰省した折に、倉庫に仕舞ってあるそうした古いものを見せられたことがあったが、最近知り合いが所有している古い民家を借りて、そこにすべてを集めて骨董屋として開店した。
弟は自らを文筆業と称し、それでは食えないので副業として電気屋をやっているのだと冗談めかして語っている。
そこに今回は骨董屋が加わった。
2足のわらじならぬ、3足のわらじである。どうやって3足も履くのだろうと余計なお世話を焼いてしまう。
ただ骨董屋を開店するのは今回が初めてというわけではない。
10年ほど前、町の「商店街空き店舗活用化事業」の一環として空き店舗を利用し、2週間という期間限定の開店をしたと、自費出版したエッセイ集には書いてある。
かなりの売り上げがあったそうだが、道楽商売のこととて、あまり売れてほしくはなかったそうだ。
今回もそうした姿勢での開店のようで、売ることはまったく考えておらず、ひっそりと人に知られずに開店した。
9月頃から休みの日は一日中こもりっきりで改装にいそしみ、ようやく開店にこぎつけた。
店の名前はエッセイ集「滑稽倶楽部」に因んで「滑稽堂」、開店後は友人知人を招いて骨董品を肴に何回も酒盛りをやったそうだ。
弟の得意満面でうれしそうな顔が浮かんでくる。
近くに住んでいれば何を置いても駆けつけるところだが、そうもいかず残念至極である。
そこで今回の帰省に際しては、それを見学するのも目的のひとつであり、遅ればせながらの「滑稽堂」訪問ということと相なった次第である。

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多度津に到着した日の午後、築100年以上という民家を改装した「滑稽堂」を訪れた。
よく見ると軒下には弟が吊るした干柿が並んでいる。
それが古い建物にそこはかとない風情を醸し出しているが、外観を見ただけでは普通の古い民家というだけである。
それなりに趣きはあるものの、こうした古い民家が珍しくない多度津の町では、ごく見慣れた建物のひとつといったところである。
ここが骨董屋だとは、まったく判らない。
ところがいったん中に入ってみると、古道具が所狭しと展示されており、間違いなくそこは骨董屋なのであった。
あらためてすべての骨董品を見て分かったことだが、以前倉庫で見たのは、ほんの一部だったということだ。
その時の何倍もの古道具、ガラクタ、骨董品で店内は満載であった。
これほどのものとは思っていなかった。
なるほど、弟が自慢するのも分からなくはない。
長年の収集の結果がこれである。

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電気屋という商売柄、古い家の改築などに立ち会うことが少なくないそうだが、そうした折に古いものがいろいろと出てくる。
ほとんどの持ち主はそれらをゴミとして捨てようとする。
それを弟はもったいないからと譲り受けてくる。
また弟が古い物を収集しているのを伝え聞いた人たちが、次々と古い物を持ち寄ってくる。
しかし古ければいいというものではなく、弟のメガネに叶ったものでなければいけないわけだが、中にはただ古いだけでどうしようもない物もあるそうだ。
それでもその親切心に応えてありがたく頂戴するそうだ。
もちろんその後は秘かに処分をさせてもらうことになる。
そうした様々な経緯を経て、知らず知らずのうちに古い物が集まって、大量のガラクタの山となったのである。
しかしこれほどの量が一同に集まるとなかなか見ごたえがある。
一種独特の世界を構築している。
それはもうゴミとは呼べないような存在感を醸し出している。
物というのは、それがあるべきところに治まると、俄然それが隠し持っていた個性や価値を主張し始めるものである。
そうした古い物たちが醸し出すアンサンブルはなかなか居心地がいい。
しばらくは俗世間の喧騒を忘れ、時間を忘れてガラクタいっぱいの「滑稽堂」に身を置いていた。
弟のディープな拘りと収集癖のおかげで、贅沢な時間を過ごすことができた。
今回の帰省のメイン・イベントであった。

この民家には、このほかにもまだ使っていない部屋がいくつもある。
さらに味のある庭や、土蔵、屋根裏部屋まである。
弟は人柄を見込まれて、これらを「好きなように自由に使ってください」という大家さんのお墨付きまで頂戴しているそうだ。
そういうわけでそれらに手を入れて今後どのように使うか、時間をかけて楽しみながら考えていくそうである。
「滑稽堂」はこれからもまだまだ増殖を続けていくことになるのである。

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母との電話

昨日久しぶりで母と電話で話をした。
母は現在入院中である。
そこに弟夫婦が見舞いに訪れ、電話をしてくれたのである。
久しぶりに聞く母の声は、意外と元気で張りのある声だった。
幾分安心したものの、それでも歳(86歳)を考えると、何かと心配になってしまう。
しかし遠く離れていては、何をすることもできず、歯がゆい思いもあるが、弟夫婦がよくやってくれているので、彼らにお任せするしかない。
こうやってたまに声を聞かせることぐらいしかできないが、それで少しは元気を取り戻してくれればと思っている。
短い会話だったが、うれしくて、ちょっと切ない時間であった。


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なつかしのTV映画「ライフルマン」



チャック・コナーズ主演のテレビ映画「ライフルマン」である。
ウインチェスター73カスタムメイドの早撃ちと、その後にピストルのようにライフルを回す姿がかっこよかった。
チャック・コナーズは野球選手から俳優になった人で、このドラマの前々年に出演した「大いなる西部」のトラブルメーカーのカーボーイ役が印象に残っている。
ただ、こちらは気弱な悪役で、「ライフルマン」とはかなり落差があり、少しがっかりしたことを憶えている。
後年、サム・ペキンパーがこのテレビ映画の監督を務めていたことを知った。
本格的に劇場用映画を監督する前の修業時代の話であるが、この映画で腕を磨いていたのだと思うと、「ライフルマン」にさらなる愛着が生まれた。


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なつかしのTV「サンセット77」

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YouTubeを見ていて偶然「サンセット77」の映像を見つけた。
1960年から1963年にかけて放映された、なつかしのテレビドラマである。
日曜日の夜になると「セブンティ・セブン、サンセット、ストリップ」という軽快な音楽が流れてこの番組が始まった。



ロサンゼルスはハリウッドのサンセット通り77番地に探偵事務所を構えるスチュアート・ベイリー(エフレム・ジンバリスト・ジュニア)とジェフ・スペンサー (ロジャー・スミス)のコンビが、活躍するサスペンス・ドラマである。
ふたりのほかに、探偵事務所の隣にあるディーン・マーチンが経営するレストラン「ディノのロッジ」の駐車場係クーキー(エドワード・バーンズ)と競馬評論家クスコー(ルイズ・クイン)がレギュラーで、時々ふたりを助けて事件の解決を図るという筋立てになっていた。
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そのクーキーが腰のポケットに刺したクシを取り出して髪をとかす仕草は、彼のトレードマークで、このドラマの売り物でもあった。
セクシーでスマートなその仕草が妙にかっこよく、アメリカの匂いを感じて憧れたものだ。
このドラマの背景には、当時のアメリカの輝かしい繁栄があった。
その象徴ともいうべきアメ車がつぎつぎと登場してくるのも、見どころのひとつだった。
とにかくオシャレでかっこよく、洗練されたドラマだった。






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マンガ家、永島慎二

川本三郎著「きのふの東京、けふの東京」という本を読んでいる。
これは町歩きの好きな著者が、東京の町の今と昔について書いた本である。
このなかに「永島慎二が描いた若者たち」というエッセイがあった。
これを読んでマンガ家、永島慎二のことを懐かしく思い出した。
永島慎二のマンガを始めて読んだのは大学生の時、1960年代の終わりの頃である。
雑誌に掲載された「ク・ク・ル・クク・パロマ」という読み切りの短編マンガで、その叙情的な内容と繊細なタッチに、いっぺんでファンになってしまった。
これをきっかけに彼の作品を探しては夢中になって読んだ。
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「漫画家残酷物語」「フーテン」「若者たち」といった一連の作品である。
永島慎二は60年代から70年代にかけて活躍した漫画家で、「青年漫画の教祖」と呼ばれた。
作品の中に描かれた若者たちの迷える姿に当時の自分の姿を重ねあわせ、深く共感した。
川本三郎は永島慎二のことを次のように書いている。
当時の「青年漫画」ファンの心理を、うまく分析しているので、引用してみる。

私の世代には四人の漫画の神様がいる。手塚治虫、白土三平、つげ義春、そして永島慎二。手塚治虫を除く三人は、子供の頃には読んでいない。二十代になってから知った。それだけに新鮮だった。
 手塚治虫が描くのは「子供」、白土三平は「民衆」、つげ義春は「青年」とすれば、永島慎二が描くのは「若者」だった。
 1960年代は、ビートルズやローリング・ストーンズ、あるいはボブ・ディランに代表されるように、言葉より感性を大事にする「若者」が出現した時代。ちょうど現在、リタイア問題が語られている団塊の世代、アメリカでいえばベビーブーマーが「若者」だった。
 それまでの、言葉中心の「青年」とは少し違う。「子供」ではないし、といって「青年」でもない。60年代は、すでに農村という土着基盤を失っていたから「民衆」でもない。都市に生きる「若者」が新しく登場していた。
 永島慎二は、その新しい「若者」を主人公にした漫画で共感を呼んだ。
「若者」といっても、決して消費社会のはなやかな現状を肯定するのではない。むしろ逆。都市生活の新しい文化を享受しながらも経済成長をよしとする社会に、どこかで違和感を持つ。自分はこのままでいいのか。親が敷いた道を疑いもなく進んでいいのか。いわば、そうした「青春の惑い」を永島慎二は漫画の主題にした。


悩み、迷い、傷つきながらも夢を追い続ける若者の姿を描くことで、あの時代を見事に切り取った漫画家が永島慎二だった。
その永島慎二も80年代に入ると漫画家としての活動はほとんど休止、2005年に、慢性心不全のために死去、享年67歳だった。
懐かしい思い出というよりも、私の中では確実に精神史のひとつとして残っている記憶である。


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昭和23年

今日は62回目の誕生日である。
誕生日だからといって今更どうということはないのだが、一応区切りの日ということである。
子供の頃は誕生日を迎えるのが楽しみだった。
それというのも、その日には大好物のおはぎを、おふくろが作ってくれたからである。
おふくろの父親、すなわち祖父は、昔「もち屋」をやっていた。
その仕事をよく手伝っていたそうで、餡子やおはぎの作り方はなかなかのものだった。
そのおふくろ手作りのおいしいおはぎが、誕生日になると食べることできるのだ。
それが何よりの楽しみだったのである。

私が生まれたのは昭和23年(1948年)1月22日。
ためしに、この年がどんな年だったのか、ちょっと調べてみた。
大きな出来事としては、1月26日に帝銀事件が起きている。
東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店で起きた銀行強盗事件で、行員12人が毒殺されている。
その後犯人として画家の平沢貞道が逮捕され、死刑判決を受けたが、平沢犯人説が疑わしいこともあって、結局刑の執行は行われないまま、昭和62年に老衰のために死亡、戦後史の大きな謎を残したままで事件は終了している。
この事件は1964年に熊井啓監督によって映画化されているが、なかなかの力作、問題作であった。
また松本清張はこれを題材に「小説帝銀事件」や「日本の黒い霧」などを書いている。

1月30日にはインドでガンジーが暗殺されている。
身近なところでは、1月28日に阪神~多度津間を航行する関西汽船の女王丸が牛窓沖で機雷に触れて沈没、死者・行方不明者188人を出すという大事故が起きている。
4月には東宝で第3次労働争議が勃発、10月まで続いているが、この争議では警察だけでなく、アメリカ軍まで出動、「来なかったのは軍艦だけ」と言われるような大争議であった。
5月にはイスラエルが建国を宣言。
6月13日には太宰治が玉川上水で、山崎富栄とともに入水自殺。
同月、ソ連がベルリンを封鎖。また水泳の古橋広之進選手が800メートル自由型で世界新記録、10月には400、1200でも世界新記録を出している。
9月、朝鮮民主主義人民共和国成立。
10月、芦田内閣が総辞職、引き続き第二次吉田内閣が成立。
11月には極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)で判決が下り、東条英機ら7人が絞首刑(12月に執行)となっている。
そういったところが内外の主な出来事であった。
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そして特筆すべきは、美空ひばりが10歳で、この年にデビューをしていることである。
4月に横浜国際劇場で美空和枝の名前で前座歌手として「リンゴの歌」などを歌っており、10月には初めて美空ひばりの名前でラジオ番組に出演をした。
翌年「悲しき口笛」が大ヒット、以後大スターへの道を歩んでいくことになる。
私が初めて歌手の名前を憶えたのは「美空ひばり」であった。
おそらくまだ2、3歳のころだったのではないかと思う。
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この年に流行った歌は笠置シズ子の「東京ブギウギ」、近江俊郎の「湯の町エレジー」、岡晴夫の「憧れのハワイ航路」そして「異国の丘」といったもの。
太宰治の「斜陽」や吉川英治の「新書太閤記」、「親鸞」などがベストセラーになっている。
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映画では「酔いどれ天使」(黒澤明監督)、「風の中の牝鶏」(小津安二郎監督)「夜の女たち」(溝口健二監督)などが作られている。

終戦から2年3年と経ち、ようやく世の中も安定の兆しをみせ始めたこともあって、昭和22年、23年は空前のベビーブームであった。
わが家でも戦争から帰還した父が昭和21年に母と結婚、その翌々年に私が生まれたというわけである。
戦後始めた商売も、ほんの数年が経ったばかりで、まだ海のものとも山のものとも判然としないという状態だったのではなかろうか。
それでも戦争の暗さから逃れることができ、また子供もできたということもあって、心の中はさまざまな希望に燃えていたのではなかろうか。
こうやって自分の生まれた年の出来事を調べていて、まっ先に想像したのがそんな両親の若き日の姿であった。

光陰矢のごとしである。


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新宿「思い出横丁」

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今朝のワイドショーで、新宿の「思い出横丁」に最近外国人の客が増えたという話題が取り上げられていた。
「思い出横丁」といえば、大学時代によく通った場所である。
新宿駅西口を出るとすぐ傍にある一画で、終戦直後の闇市から発展した飲み屋街である。
都心の一等地ということもあって、すでに区画整理等の対象になり、なくなっているだろうと思っていたが、まだ昔のままの姿で残っていた。
まず何よりもそのことに驚いた。
そしてここに最近外人客が急激に増えているということが、レポートで伝えられていた。
出入りする外国人へのインタビューによると、「安くてうまい」のがここへ来る最大の理由だそうだ。
とくにバックパッキングなどで旅する外国人たちにとっては人気のスポットになっており、そうした情報がインターネットを通して発信され、それによってますます外国人が増えているということであった。
それを見ながら学生時代を懐かしく思い出した。
それは1967年から1972、3年にかけての頃のこと。
新宿駅西口広場ではフォークゲリラの路上集会があり、フーテン族が出没、花園神社では状況劇場が赤テントで芝居をするといった時代であった。
藤圭子が歌う「新宿の女」や扇ひろ子の「新宿ブルース」が生まれたのもこの頃のこと。
あらゆる新しいものが新宿の街から発信されていた。
そんな熱く燃える新宿の街に、ほぼ毎日のように足を運んでいた。
アートシアター新宿文化、テアトル新宿、京王名画座、新宿昭和館といった映画館で映画を観、新宿末広亭で落語を聴き、DIG、DUG、木馬、びざ~る(ビートたけしが新宿で初めてアルバイトをしたのがこの店)、ジャズビレッジ、ヴィレッジ・ゲイト、ビレッジ・バンガード(永山則夫やビートたけしがここでアルバイトをしていたことでよく知られる店)といったジャズ喫茶でジャズを聴き、さらには金のある時にはテアトル、どん底といった呑み屋で酒を呑み、状況劇場で芝居を観た。
暗黒舞踏を初めて観たのも新宿のアートビレッジであった。
そして紀伊国屋で本を立ち読みをしては時間をつぶし、飽きることなく新宿の街を徘徊していたのである。
大島渚の「新宿泥棒物語」で横尾忠則があてもなく新宿の街を彷徨っていたのと同じように。
そんな時代に「思い出横丁」にもよく通った。
理由は先ほどの外国人たち同様、「安くてうまい」から。
ただ、彼らと違うのは酒を呑むよりも食事をすることのほうが多かったということだ。
本来は夜に酒を呑ませるのが主な営業だが、店によっては昼間も営業をしており、その「安くてうまい」メニューを目当てによく通ったのである。
毎回注文する定番メニューは、いちばん安い「鯨(げい)カツ」。
「とんかつ」でも「ビフカツ」でもなく「鯨カツ」である。
これが量も多く、しかもうまかった。
鯨保護の今の時代では考えられないことだが、大衆的なメニューで、ほんとうによく食べたものだ。
貧乏だったが、毎日が刺激に満ちていた時代、この放送を見ながら、あの頃のことを、ほろ苦く思い出した。


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『「月光仮面」を創った男たち』樋口尚文

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「どーこーの誰だか、知らないけれど~。
誰もがみーんな知っている。」
この歌がテレビ画面から流れる時間になると、それまで空き地や露地で夢中で遊んでいた子供たちは、いっせいにテレビの前に集まってくる。
そしてわれらが「月光仮面」の登場を、今か今かと期待に胸ふくらませながらテレビ画面を注視する。
そんな風景が日本中の家庭で見られるようになったのは、昭和33年のことである。

昭和33年という年は、日本映画が史上最高の観客動員数を記録した年であり、東京タワーが完成し、テレビ電波の送信を開始した年でもあった。
いわば主役の座を後に交代せざるをえなくなる新旧2つのメディアが、そのスタートラインに立ったのが、この年であった。
エポックメーキングともいえる、この年に国産の「連続テレビ映画」第一号として「月光仮面」は誕生したのである。
その栄えある国産「連続テレビ映画」第一号「月光仮面」はどのようにして生まれ、創られていったのか、そしてそれを創ったのはどんな人たちであったのか、それを詳しく検証したのがこの『「月光仮面」を創った男たち』という本である。
当時小学校低学年で、この番組に夢中になった身としては、これは大いに興味をそそられる本であった。
その頃を懐かしく思い出しながら、面白く読んだ。

まず原作は後に作詞家として活躍した川内康範。
生家が日蓮宗のお寺であった川内がプロデューサーの西村俊一とともに、悪事がはびこる時に降臨する月光菩薩にちなんで「月光仮面」というヒーローを生み出した。
「自ら裁くことはせず、善人にも悪人にも平等にふりそそぐ月光のごとく」という思いを込めての命名であった。
製作は広告宣伝を生業とする宣弘社。(後にこの会社に入社することになるのが、作詞家の阿久悠である。)
きわめて低予算だったために、集められたスタッフは、監督経験のなかった船床定男をはじめ、全員が経験の浅い若者たちであった。
さらに主役の祝十郎(いわい じゅうろう)すなわち月光仮面を演じた大瀬康一も、東映東京撮影所の大部屋俳優という、まったくの無名の役者であった。
そうした無名戦士たちの情熱と涙ぐましい頑張りに支えられて「月光仮面」は創られ、平均視聴率40%、最高視聴率は67.8%という、今では考えられないような高視聴率をあげる人気番組へと育っていったのである。
とくに月光仮面を演じた大瀬康一へのインタビューを読んでいると、当時の現場の熱気が伝わってくるようであった。
本書のなかで語られるエピソードは、草創期ならではの逸話に満ちており、そうした無我夢中の頑張りが、後のテレビの急成長の礎になっていることを、あらためて教えられたのである。

「月光仮面」に夢中になったわれわれ世代にとっては、懐かしさと同時に、まさに興味の尽きない一冊であった。





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「少年サンデー」「少年マガジン」創刊50年

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週刊マンガ雑誌「少年サンデー」と「少年マガジン」が昨日で創刊50周年を迎えたそうだ。
もうそんなに経ったのかと、感慨深く記事を読んだ。
創刊されたのが1959年(昭和34年)3月17日、この日のことは昨日のことのように、憶えている。
それまで少年雑誌は月刊誌しかなかった。
マンガ少年だった僕は、「少年」や「少年画報」といった雑誌を愛読していた。
なかでも「少年」に連載されていた「鉄腕アトム」や「鉄人28号」、「矢車剣之助」といったマンガや江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズに夢中であった。
そんな頃、少年マンガの週刊誌が創刊されるというニュースが流れたのである。
もうそれだけで子供の僕にとっては大事件だった。
そのニュースに胸を高鳴らせ、発売される日を首を長くして待った。
そして発売当日には、学校が終わるのも待ちきれない思いで、本屋に駆けつけた。
そんな思い出のある「サンデー」と「マガジン」が50周年を迎えたのである。
あれから、もう半世紀もの時間が過ぎたのだと思うと、特別の感慨がわいてくる。
まさに光陰矢のごとし、である。


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プロフィール

cooldaddy

Author:cooldaddy
住んでいるところ:青森県弘前市
出身地:香川県
年齢:今年(2008年)還暦です。
性別:男

還暦という節目を迎え、何か新しいことを始めようとブログを開設しました。
趣味のこと、生活のこと、心に残ったことなど、My Favorite thingsを、気ままに書いていこうと思います。
末永くおつき合いください。

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