FC2ブログ

風に吹かれて

My Life & My Favorite things

Category: 読書

Tags: 村上春樹  

Comment (0)  Trackback (0)

村上春樹「アフターダーク」

afterdark.jpg

昨年の10月以来、村上春樹の小説ばかりを読んできたが、長編小説はこれが最後になる。
ちなみに村上春樹の長編小説はぜんぶで13冊あるが、これは11冊目の長編小説である。
出版されたのは、2004年。
小説を書くたびに、新しい試みを模索していくのが、村上春樹の創作スタイルであるが、この小説ではかなり実験的な試みをしている。
それはこの小説が、まるで1本の映画のようにキャメラ目線で書かれていることだ。
そのことを著者は
<最初に会話だけをスクリプトのように書いた。><そのあとで地の文を書き込んでいった。><映画を作っていくような感じで書いた。>
と語っている。
<大学時代はシナリオばかりを読んでいた。>という村上春樹らしい。

そして小説の中では次のように書く。

<私たちの視点は架空のカメラとして、部屋の中にあるそのような事物を、ひとつひとつ拾い上げ、時間をかけて丹念に映し出していく。私たちは目に見えない無名の侵入者である。私たちは見る。耳を澄ませる。においを嗅ぐ。しかし物理的にはその場所に存在しないし、痕跡を残すこともない。言うなれば、正統的なタイムトラベラーと同じルールを、私たちは守っているわけだ。観察はするが、介入はしない。>

こうやって映し出されるのは、都会の真夜中の出来事である。
時間で言うと23時56分から、6時52分まで。
その真夜中を、異空間として扱っている。

映画関連でいうと、物語の舞台のひとつとして登場してくるラブホテルの名前が「アルファヴィル」となっているが、これはゴダールの映画の題名から採ったもの。
1965年に公開された映画で、アンナ・カリーナ主演、未来都市・アルファヴィルを舞台にしたSF映画で、個人の自由が剥奪された世界を描いている。
ちなみに村上春樹は、ゴダールからかなり大きな影響を受けたと語っている。

さらにもうひとつ映画関連でいえば、映画『ある愛の歌』が会話の中の話題として登場してくる。
そしてそこで語られるストーリーは、映画のそれとは少し違っている。
というか間違っている。
それは故意に間違ったものにしたのだと思われるが、それがなにを意図しているのか、ちょっと考えてみるのも面白い。

ところでこの小説のタイトルである「アフターダーク」は、トロンボーン奏者カーティス・フラーが1959年に録音したアルバム「ブルースウェット(BLUES ette)」に収められた、「ファイブ・スポット・アフターダーク」から採ったもの。
確かこのアルバムは、昔買ったことがあるのではないかと、探してみると出てきた。

bluesette.jpg
さっそく聴いてみたところ、なるほどこれは昔よく聴いた馴染の曲ではないか。
久しぶりに聴いたが、なかなかノリがいい。
都会の夜の頽廃的な気分が、そこはかとなく漂ってくる。
聴きながらこれを書いていると、小説の世界がまた違った色彩を帯びて見えてきた。

これで残すところは、あと2冊、『神の子どもたちはみな踊る』と『東京奇譚集』だけである。


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑
テーマ : 読んだ本の感想等  ジャンル : 小説・文学


Category: 読書

Tags: 村上春樹  

Comment (2)  Trackback (0)

村上春樹「スプートニクの恋人」

sputnik.jpg

『ねじまき鳥クロニクル』完結以来、四年ぶりの書き下ろし長編小説である。
主な登場人物は、主人公の「ぼく」とすみれとミュウの三人。
「ぼく」は小学校の教師で、すみれは「ぼく」の大学時代の女友達、小説家を目指している。
ミュウは、すみれが従姉妹の結婚式で知り合った17歳年上の女性である。
そしてすみれは初対面の彼女に激しい恋をした。
すみれはこの時、大好きな小説家ジャック・ケアルックの話をした。
ジャック・ケアルックはアメリカの小説家で、所謂ビートニクを代表する人物であるが、その「ビートニク」という言葉をミュウは「スプートニク」と勘違いしたことから、すみれは彼女のことを「スプートニクの恋人」と呼ぶようになった。
それがこの小説の題名の由来である。
「スプートニク」とは、1957年にソ連が打ち上げた、世界初の人工衛星のことである。
そしてそれは「旅の連れ」を意味する言葉でもある。

「ぼく」はすみれに恋をし、すみれはミュウに恋をする。
そんなちょっと変わった三角関係のなかで、物語は進んでいく。
すみれはミュウの仕事を手伝うようになり、ミュウの秘書としてヨーロッパに行った時、ギリシャの島で突然姿を消してしまう。
そこから「ぼく」のすみれ捜しの旅が、始まるのである。
しかしすみれを捜し出すことはできない。

帰国後、ある事件が持ち上がる。
日曜日の午後、ぼくと不倫関係にある生徒の母親から、突然電話が入る。
クラスで「にんじん」と呼ばれている彼女の息子が、スーパーで万引きをしたというのだ。
彼女と一緒にスーパーに駆けつけ、警備員との間でひと悶着があるが、ようやく身柄を引き取ることができた後、「にんじん」とふたりで喫茶店に入って話をする。
そこでぼくは説教ではなく、ギリシャでの出来事やぼく自身のことについて独り言のように話し始める。
<ぼくはにんじんに向けて話しているのではなかった。自分に向けて話しているだけだった。声に出してものを考えているだけだった。>
そしてその長い話のなかで「にんじん」の態度に少しづつ変化が現れる。
この場面は小説のほぼ終幕において描かれるエピソードだが、深く胸を打つ。
本筋の物語とは直接関わりのない場面ではあるが、重要な場面である。
この小説の中での名場面のひとつである。

<どうしてみんなこれほどまで孤独にならなくてはならないのだろう。ぼくはそう思った。どうしてそんなに孤独になる必要があるのだ。これだけ多くの人々がこの世界に生きていた、それぞれに他者の中になにかを求めあっていて、なのになぜ我々はここまで孤絶しなくてはならないのだ。何のために?この惑星は人々の寂寥を滋養として回転をつづけているのか。>

<ぼくは目を閉じ、耳を澄ませ、地球の引力を唯ひとつの絆として天空を通過し続けているスプートニクの末裔たちのことを思った。彼らは孤独な金属の塊として、さえぎるものもない宇宙の暗黒の中でふとめぐり会い、すれ違い、そして、永遠に別れていくのだ。かわす言葉もなく、結ぶ約束もなく>

これはギリシャを去ることになった「ぼく」が、アクロポリスの丘に上り、白い神殿を眺めながら抱いた感慨である。
人は誰かと深く繋がることを求めている。
しかし人と人は、それほど容易く繋がることはできない。
それがこの小説を貫いている1本の太い幹である。
そこには深い孤独と空虚が漂っている。

そして続く終章で語られる次のような言葉が印象に残る。

<ぼくらはこうしてそれぞれに今も生き続けているのだと思った。どれだけ深く致命的に損なわれていても、どれほど大事なものをこの手から簒奪されていても、あるいは外側の一枚の皮膚だけを残してまったくちがった人間に変わり果ててしまっていても、ぼくらはこのように黙々と生を送っていくことができるのだ。手を伸ばして定めれらた量の時間をたぐり寄せ、そのままうしろに送っていくことができる。日常的な反復作業として。場合によってはとても手際よく。そう考えると僕はひどくうつろな気持ちになった。>


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑
テーマ : 読んだ本の感想等  ジャンル : 小説・文学


Category: 読書

Tags: 村上春樹  短編小説集  

Comment (0)  Trackback (0)

村上春樹「レキシントンの幽霊」

lexington.jpg

村上春樹、7冊目の短編小説集である。
表題作である「レキシントンの幽霊」のほか、「緑色の獣」、「沈黙」、「氷男」、「トニー滝谷」、「七番目の男」、「めくらやなぎと、眠る女」が収められている。
このうち「七番目の男」と「レキシントンの幽霊」は『ねじまき鳥クロニクル』を書いたの後の1996年に書かれたもの、その外は『ダンス・ダンス・ダンス』『TVピープル』の後、すなわち1990年から1991年にかけて書かれたものである。
また「レキシントンの幽霊」と「トニー滝谷」は雑誌掲載時のものに手を加えたロングバージンとなっており、さらにこれとは逆に「めくらやなぎと、眠る女」は、『螢・納屋を焼く・その他の短編』に掲載されたものを約4割ほど縮めて再収録したものである。
それについて彼は<個人的に、短編小説を短くしたり、長くしたりすることに凝っていたせいである。>と書いている。
長編小説を書く際には、何十回となく書き直しをするそうだが、こうしていったん書いたものに手を入れて書き直すというのは、彼の性格的な癖というものなのかもしれない。
油絵の画家が完成したと思われる絵のうえに、何度も繰り返し絵具を塗り重ねていく創作態度と似たものを感じる。

「レキシントンの幽霊」は、小説家の僕が、マサチューセッツ州のケンブリッジに2年ばかり住んでいた時の出来事を書いたものである。
そこで知り合ったレキシントンに住む建築家ケイシーから留守番を頼まれ、その古い屋敷で、幽霊たちがパーティーを開いているのを目にするというもの。
そのことはケイシーには話さず黙っていたが、その後ケイシーとの間で死についての奇妙な会話が交わされることになる。
その死の話が、この小説のメインテーマのようだが、それが何を意味するのか、そして何を言わんとしているのか、やはりここでもいつものように謎である。
しかしそこから滲み出てくる独特の世界観は、やはり味わい深いものがある。
彼の小説を読む場合、とくに短編の場合はそうなのだが、あまりロジカルに考えることなく、その流れに自然に身を任せるという態度が必要なのではなかろうか。
前にも書いたことがあるが、それは音楽を聴くのと似たようなもの。
そうやって読んでみると、この短編集の中ではいちばん判り難い「緑色の獣」も、なかなか味わい深いものに思えてくる。

「沈黙」はこれらの短編のなかでは、いちばんリアルな物語である。
僕と大沢さんが新潟に行く飛行機を待つ間、空港のレストランでコーヒーを飲みながら雑談をする場面から小説が始まる。
その会話の中で、僕は何気なく大沢さんに、これまで誰かを殴ったことがあるかと訊ねてみる。
大沢さんが学生時代にボクシングを習っていたことを知っていたからである。
そこから彼が過去にいちどだけ殴ったことのある、青木という男との苦い思い出が語られることになる。
青木は、頭がよく、人望があり、クラスでも目立つ存在。
それとは対照的に大沢さんは無口で人づき合いの苦手な少年。
ある時英語のテストで、大沢さんが一番をとる。
いつも一番だった青木は、それにショックを受け、「大沢がカンニングをした」という噂を流す。
それを聞いた大沢さんは青木に問いただそうとするが、逆に青木から「何かの間違いで一番になったからっていい気になるなよな」といなされてしまう。
カッとなった大沢さんは思わず青木を殴ってしまう。
だがすぐにそのことを後悔してしまう。
こんなことをしても何の役にもたたないのだと。
それから数年が経った高校3年生の時、そのことを恨みに思っていた青木から手痛いしっぺ返しを受けることになる。
同じクラスのある生徒が自殺、これを好機と見た青木は大沢さんがボクシング・ジムに通っていること、そして中学二年の時に、青木を殴ったことを教師に告げる。
それがきっかけとなって教師から尋問され、警察からも事情聴取を受けることになる。
それ以来大沢さんは、クラス全員からまるで犯人のような目で見られ、無視されることになる。
また教師もそれを見て見ぬふりをして、かばおうとはしない。
大沢さんは食欲がなくなり、夜も眠れなくなってしまう。
あと半年我慢すれば、卒業できると考えてみるが、それも次第に自信が持てなくなってくる。
そんなある日、満員の通学列車のなかで青木と偶然に顔を合わせることになる。
青木は最初は皮肉な笑みを浮かべて大沢さんの顔を見ていた。
しかしそうやって睨み合っているうちに次第に青木の顔に変化が現れてくる。
笑みは消え、負け犬のような目になり、最後にはその目が震え出したのである。
それを見て大沢少年の胸には「悲しみと憐れみ」に似た感情が湧いてくる。
これを境に大沢少年は立ち直ることができたのである。
そしてそれらの出来事から大沢さんが学んだのは、
「本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言い分を無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかなんて、これっぽっちも、ちらっとでも考えたりはしないんです。自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思いあたりもしないような連中です。彼らはそういう自分たちの行動がどういう結果をもたらそうと、何の責任も取りやしないんです。本当に怖いのはそういう連中です。」
こうした匿名性の悪意というものは、いつの時代にも存在するものである。
そしてそうしたものによって、取り返しのつかない状況へと引き摺られていくことの何と多いことか。
さらにここにはもうひとつ大事な問題がつけ加えられている。
「でもね、僕は思うんです。たとえ今こうして平穏無事に生活していても、もし何かが起こったら、もし何かひどく悪意のあるものがやってきてそういうものを根こそぎひっくりかえしてしまったら、たとえ自分が幸せな家族やら良き友人やらに囲まれていたところで、この先何がどうなるからはわからないんだぞって。ある日突然、僕の言うことを、あるいはあなたの言うことを、誰一人として信じてくれなくなるかもしれないんです。そういうことは突然起こるんです。」
村上春樹の小説では、いつも唐突に物事が起きる。
そしてそうしたことは、われわれの現実の生活でもまさにそうである。
われわれの身の回りには、目に見えない落とし穴が張り巡らされているのである。
そんな不条理に対する恐れや怒り、そして哀しみの感情が、この小説には込められているように思う。


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑
テーマ : 読んだ本の感想等  ジャンル : 小説・文学


Category: 読書

Tags: 村上春樹  

Comment (0)  Trackback (0)

村上春樹「ねじまき鳥クロニクル第1部、第2部、第3部」

nejimakidori.jpg

村上春樹の代表作といわれる「ねじまき鳥クロニクル」を、ようやく読み終えた。
第1部「泥棒かささぎ編」、第2部「予言する鳥編」、そして第3部「鳥刺し男編」からなる1000ページを越える大長編である。
先日読んだ短編「ねじまき鳥と火曜日の女たち」(『パン屋再襲撃』に所収)や、「加納クレタ」(『TVピープル』に所収)が基になって書かれたものである。
3年という歳月をかけて書かれた第1部と第2部が出版されたのは1994年4月、そしてそれから1年以上を経た1995年8月に第3部が出版されている。
当初は第1部と第2部で完結していものに、後になって第3部を付け加えることになったからである。
そのことについて村上春樹は、「あの人たちを、呪縛から少しでも引き戻してあげたいという気持ち」や「自分で仕掛けた謎に対して、自分で答えてみたい気持ち」があったからだと述べている。
これは「羊をめぐる冒険」を書き終わった後に、「僕」を「ひどい場所」から救い出したいとの思いから「ダンス・ダンス・ダンス」を書いたという動機と同じである。
第3部は第1部と第2部で現れた謎に対する回答となる小説であるが、しかしそれで明確な回答が得られたかというと、必ずしもそうではなく、飽くまでもそこには依然として謎は残されたままである。
それは他のどの小説とも同じであり、それを指して村上春樹は「閉じない小説」と呼んでいる。
いったん謎解きをしてしまうと「わくわくする理不尽な部分」がなくなってしまうとの考えがそこにはある。

これまでの小説でも繰り返し書かれているように、この小説も失ったものを探し出そうとする物語である。
しかしこの小説がこれまでのものと違うのは、そのなかで根源的な悪、暴力との激しい対決がなされることである。
その悪の象徴として登場するのが、失踪した妻の兄であるワタヤ・ノボルであり、間宮老人が第二次世界大戦のノモンハン事件で出会ったソビエト軍将校のボリスである。
なかでも間宮老人が語るノモンハン事件の前哨戦ともいえる諜報活動の際に体験したボリスとの経緯は、これまでの村上春樹の小説では出会ったことのない過激で残酷なものである。
その内容についてはここでは詳しく書かないが、これらは人類の長い歴史の中で繰り返し行われてきた愚かな悪行の数々を象徴したものであり、歴史の暗い闇である。
同時にそれはあらゆる人々の意識の奥底に隠されたものでもある。
そうした人々の無意識をワタヤ・ノボルは暴力的な力で巧妙に引き出すことで、己の野望を遂げようとするが、失踪した妻を探すなかでそれに気づいた主人公が、それを阻止しようと決意する。
それは殺すべきであったボリスを、どうしても殺すことが出来なかった間宮中尉の、すなわち現在の間宮老人から受け継いだ意志でもあり、使命でもある。
そしてそのよき理解者であり同志となるのが、16歳の笠原メイであり、手助けをする者として現れるのが、間宮中尉を主人公と会わせる役目を担った占い師の本田さんや、加納マルタ、クレタの姉妹、そして赤坂ナツメグ、シナモン母子といった予言者たちである。
彼らの導きや示唆によって動かされた主人公は、路地の奥の空き家で見つけた井戸の底へと下りてゆき、自らの深層意識と向かい合うことで不思議な能力を身に着けることになる。
この井戸は間宮中尉から聞かされたノモンハン事件の際に、彼が井戸に閉じ込められたことに倣ったものであるが、「現実について考えるには、現実からなるべく離れた方がいい」との考えからでもあった。
さらには「下に下りたいときには、いちばん深い井戸の底に下りればいい」と言った本田さんの言葉に従ったものでもあった。
そして3日間井戸に籠り続けることで、壁を通り抜け、ホテルの「暗い部屋」へと辿りつき、その結果右頬に青いあざをつけて帰ってくることになる。
以来彼は心の迷宮世界へと自由に出入りできる力を手に入れることになり、それによってワタヤ・ノボルとの臨戦態勢が整ったということになるわけである。

主人公オカダトオルは30歳、法律事務所で雑用係として働いていたが、今は辞めて失業中の身である。
妻のクミコは出版社に勤めており、現在は彼女が家計を支えており、トオルは主夫として家事をこなしている。
彼は心優しい人だけれど、優柔不断、また特別才能があるわけでもなく、地位も名誉もなく、ごく一般的な、地味で目立たない男である。
また人との付き合いが苦手で、極力人との接触をさけようとする人間でもある。
そんな彼が妻の捜索と救出をけっして諦めなかったのは、多くの人との不思議なつながりがあったからである。
そしてそのつながりの中で多くの物語に接することで、次第に強い意志と行動力を手にすることができたのである。
そんな姿を指して村上春樹は「コミットメント(かかわり)」と呼ぶ。
彼の小説では、「デタッチメント(かかわりのなさ)」というのが、重要なテーマであったが、それがこの小説を契機に「コミットメント」へと大きく変化していくことになるのである。

村上春樹はこれまでにも満州ひいては中国への深い拘りを、小説の中で書いている。
デビュー作「風の歌を聴け」では、中国人ジェイが経営するジェイズ・バーが主要な舞台になっている。
またそのなかで僕の叔父は終戦の2日前に、上海の郊外で自分の埋めた地雷を踏んで死んでいる。
また「中国行きのスロウボート」では、若い頃に出会った3人の中国人の話を書いている。
さらに「羊をめぐる冒険」に登場する星形の斑紋のある羊は、羊博士が満州に赴いた際に彼の体の中に入り、彼とともに日本にやってきたとされている。
このようにさほど目立つことなく、ごく控えめな形で、これまでの小説の中で幾たびか取り上げられているが、それを集約した形で表したのが、この小説で書かれたノモンハン事件や新京動物園での不器用な動物虐殺や中国人処刑という出来事ということになる。
そうした満州や戦争への拘りは、戦時中中国大陸に派兵された村上春樹の父親やその世代の人たちの、戦争にまつわる暗い記憶を、自ら引き継ごうとする村上春樹の意志の表れに他ならない。

この小説は、ひとりオカダトオルだけの物語ではない。
そこに関わる全ての人たちのクロニクル(年代記)が積み重なって、この長大な物語を作り出しているのである。
多くの記憶が重層的に重なり縺れていくなかで、物語がダイナミックに進んでいく。
メインテーマがあり、それを支える数多くのサブテーマがある。
そういう意味では、ここに書いたものは、ほんのごく一部について書いたに過ぎない。
まだまだ幾らでも掘り下げて考えることができるはずである。
書き足りていないというのが、正直な実感である。
いつかまたこの小説を再読、再々読したうえで、もういちど考える機会を持ちたいと考えている。


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑
テーマ : 読んだ本の感想等  ジャンル : 小説・文学


Category: 読書

Tags: 村上春樹  短編小説集  

Comment (0)  Trackback (0)

村上春樹「TVピープル」

tv-people.jpg

「TVピープル」、「飛行機―あるいは彼はいかにして詩を読むようにひとりごとを言ったか」、「我らの時代のフォークロア―高度資本主義前史」、「加納クレタ」、「ゾンビ」、「眠り」の6篇が収録された短編集である。
これらの短編は、すべてヨーロッパ滞在中に書かれたものである。
当時は『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』がベストセラーとなった時期である。
ところがそれが予想もしなかったような売れ方をしたことから、精神的に落ち込み、まったく小説が書けない状態に陥っていた。
そうした状態が1年近く続いた後、滞在先のローマ市内のアパートで突然閃いて書いたのが、「TVピープル」である。
村上春樹にとっては大きな転機となった作品ということになる。
そしてこれらの短編を書いた後に、3年近く滞在したヨーロッパから帰国することになった。
1990年1月のことである。
またこの作品は村上作品のなかでは初めて『ニューヨーカー』誌に掲載された作品であり、そうしたことからも彼にとっては忘れられない作品ということになる。
そのことについて彼は次のように述懐している。
「僕にとっては、おおげさに言えば、『月面を歩く』のと同じくらいすごいことだった。どんな文学賞をもらうよりも嬉しかった」

相変わらず村上春樹の小説は判り難いことだらけだが、それでも読んでしまう。
それはなぜかと考えると、やはり文章のうまさと読み易さということになるだろう。
彼の小説では、けっして難解な言葉は使わない。
すべて読み易く平易な言葉で書かれており、そして何よりも大切にしているのは、リズムである。
リズムよく流れていく文章、途中で躓いたり、立ち止まったりすることのない、自然と身をゆだねることのできるノリのいい文章、そういう文章を彼は目指しており、それを彼は「ほかの誰とも違うけれど、誰にでもわかる」文章と言っている。
また彼が影響を受けた作家レイモンド・チャンドラーについての次のような文章がある。
「プロットとはほとんど関係のない寄り道、あるいはやりすぎとも思える文章的装飾、あてのない比喩、比喩のための比喩、なくもがなの能書き、あきれるほど詳細な描写、無用な長広舌、独特の屈折した言い回し、地口のたたきあい、チャンドラーの繰り出すそういうカラフルで過剰な手管に、僕は心を強く引かれてしまうのだ」と。
チャンドラーについて語っているが、それがそのまま彼自身の文体について書いているようにも思えてくる。
そして彼の文体の最大の特徴といえるのが、数多くのメタファーである。
次々と繰り出されるメタファーの巧妙さや、そこに込められたユーモアを楽しみながら読んでいくうちに、気がつくと不思議な世界へと導かれている。
そしてもっともっと読んでみたいという気持ちにさせられる。
やっぱり村上春樹は、クセになる。


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑
テーマ : 読んだ本の感想等  ジャンル : 小説・文学


カレンダー
10 | 2019/11 | 12
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
プロフィール

cooldaddy

Author:cooldaddy
住んでいるところ:青森県弘前市
出身地:香川県
年齢:今年(2018年)70歳です。
性別:男

還暦(10年前)という節目を迎え、何か新しいことを始めようとブログを開設しました。
趣味のこと、生活のこと、心に残ったことなど、My Favorite thingsを、気ままに書いていこうと思います。
末永くおつき合いください。

映画サイト「マイ・シネマ館」もやっています。
こちらもよろしく。

ランキングサイトに参加しています。
もしよければクリック、お願いします。↓
ブログランキング・にほんブログ村へ 

月別アーカイブ
cooldaddyの本棚
FC2ブログランキング
ブログ内検索
QRコード
QRコード

12345678910111213141516171819202122232425262728293011 2019