風に吹かれて

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映画「トニー滝谷」

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<トニー滝谷の本当の名前は、本当にトニー滝谷だった>で始まる短編小説「トニー滝谷」を映画化した作品。
短編集「レキシントンの幽霊」のなかに収められている。
これを読んだ家内が、映画も観たいと言い出したので、レンタル・ショップで借りてきた。
以前観たのはおよそ10年ほど前のこと。
この機会にまたもういちど観ることにした。

村上春樹の小説は、あまり映画化されていない。
小説の人気に比べるとその数は極端に少ない。
独特の世界観をもつ彼の作品は、映像化するのが難しいということなのかもしれない。
しかしその難しい関門を、この映画はうまくクリアしている。
そしてその難関をクリアするために様々な工夫を凝らしている。
まずセリフを極端に少なくして、映像だけで見せるという手法を用いている。
そしてその少ないセリフを補うように、ナレーションが多用される。
ナレーションの多用というのは、映画にとっては禁じ手である。
ひとつ間違えれば命取りになりかねない。
それをこの映画では敢えてやっているのだが、そこにひと工夫を加えている。
それはナレーターだけが語るのではなく、演じている俳優自身にもそれを語らせるというものである。
この実験的なスタイルによって、単なるドラマではない、現実感覚から少しだけズレた浮遊感覚を味わうことになるのである。
また映像のかなりの部分が横移動によるもので、それによって時間空間の移り変わりを表現している。
そこに映るのは、必要最小限度にまで削られたシンプルなものである。
それは写そうというよりも、写さない工夫を凝らしているのではないかと思えてくるほど。
余計なものを削ぎ落とし、必要最小限のものしかない映像を観ているうちに、だんだんとその詩的で静謐な空間に心を奪われていく。
そしてそこに込められた孤独や喪失が、深い悲しみを伴ってごく自然に沁み込んでくる。
わずか76分という小品だが、どんな大作にも負けない濃密な時間がそこには流れている。

監督は市川準
『禁煙パイポ』や『タンスにゴン』などのCMを作り、『BU・SU』で劇場用映画に進出したCM界出身の監督である。
『病院で死ぬということ』、『東京兄妹』、『トキワ荘の青春』、『東京夜曲』など、独特な感性を持った監督として知られている。
8年前に59歳という若さで急逝したが、惜しまれてならない。
久しぶりにこれを観て、つくづくそう思うのである。


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村上春樹「東京奇譚集」

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村上春樹は短編集『神の子どもたちはみな踊る』を書いて以来4年間、短編を書いていなかったが、久しぶりにまとめて書いたのが、この『東京奇譚集』である。
「偶然の旅人」、「ハナレイ・ベイ」、「どこであれそれが見つかりそうな場所で」、「日々移動する腎臓のかたちをした石」、「品川猿」の5本の短編が収められており、「週に一本のペースで、一ヵ月のあいだに五本の作品を書き上げた」のである。
そして<書く前にポイントを二十くらいつくって用意しておき>そこから<三つを取り出し、それを組み合わせて一つの話を>作り出したのである。
謂わば落語の「三題噺」のようにして書いていったわけである。
<そういう一見して脈絡のないランドマークみたいなものを、ところどころにポッと浮かべて話を書いていくというのが、自分でもすごく刺激的で、おもしろいんです。自分の中で浮かび上がってきたブイには、それだけ内的な必然性があるわけだから、結果的にすべては自然におさまっていくというか、そのブイの存在によって話がどんどんインスパイアされていく。ものごとの連動性が明らかになっていく。今回はとくにそういう書き方をしたんです。>
一見安易で出鱈目のようにも思えてしまうが、やはりそこは村上春樹、一流作家の手にかかると、こうした人を魅了してやまない小説が、出来上がってしまうのである。
そういえば古典落語の名作といわれている『芝浜』や『鰍沢』なども、三題噺から生まれたものである。
いいものが生まれる時には、手法の如何は問わないということなのであろう。

この短編集も、これまで同様「喪失」と「救済」が大きなテーマになっている。
まず最初の短編「偶然の旅人」では、前置きとして作者自身が体験した不思議な出来事について語っているが、これがなかなか面白い。
ひとつ目は、ケンブリッジのジャズ・ライブの店でトミー・フラナガンの演奏を聴いた際に体験した不思議な出来事、そしてふたつ目は、中古レコード屋でペパー・アダムズの『10 to 4 at the 5 Spot』を買った際に体験した話。
こうした偶然の一致というものは、その不思議さの程度の違いはあるにしても、だれでもいちどくらいは経験したことがあるのではなかろうか。
それだけに身近な話として親しみをもって物語に入って行くことが出来る。
これらのエピソードは、この短編集全体の導入部ともなっている。
そして本題へと移っていくのだが、そのつながりが何ともうまくて、シャレている。
どんな話が始まるのだろうかと、ワクワク感が掻き立てられる。
そして期待を裏切らない話が、展開されていくことになる。
けっして肩ひじ張った話ではなく(もちろん村上春樹がそんなものを書くはずはないが)、ごくありふれた日常のなかで展開される、ちょっと奇妙で不思議な話ばかりである。

「偶然の旅人」は作者の知人のピアノ調律師の話である。
彼は41歳のゲイである。
自分がホモセクシュアルであることをカミングアウトした時、家族との間にぎくしゃくとしたものが生まれた。
とくに仲の良かった姉との関係に大きくヒビが入ってしまった。
以来家族とは離れてひとりで暮らしている。
火曜日になると郊外のショッピング・モールに行き、そこにあるカフェでコーヒーを飲みながら本を読むのがいつもの過ごし方だった。
ある日ディッケンズの『荒涼館』を読んでいると、見知らぬ女性が声をかけてきた。
偶然にも彼女も同じ本を読んでいたのである。
それがきっかけとなって、彼女と親しくつきあうようになる。
そしてある出来事が起き、そこで出会った偶然の一致に背中を押されるように、断絶していた姉に連絡をとると、そこでもまた新たな偶然の一致があり、それによって姉との和解がなされることになる。
村上春樹はこの短編の終わりに次のように書いている。

「きっかけが何よりも大事だったんです。僕はそのときにふとこう考えました。偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりで、しょっちゅう日常的に起こっているんです。でもその大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされてしまいます。まるで真っ昼間に打ち上げられた花火のように、かすかに音はするんだけど、空を見上げても何も見えません。しかしもし僕らの方に強く求める気持ちがあれば、それはたぶん僕らの視界の中に、ひとつのメッセージとして浮かび上がってくるんです。その図形や意味合いが鮮やかに読みとれるようになる。そして僕らはそういうものを目にして、『ああ、こんなことも起こるんだ。不思議だなあ。』と驚いたりします。本当はぜんぜん不思議なことでもないにもかかわらず、そういう気がしてならないんです。どうでしょう、僕の考えは強引すぎるでしょうか?」

「日々移動する腎臓のかたちをした石」は『神の子どもたちはみな踊る』のなかの「蜂蜜パイ」の淳平という主人公の前日譚ともいうべき小説である。
この話は、主人公の父親の次のような言葉から始まる。
「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない。それよりも多くないし、少なくもない」
以来父親のこの言葉がいつまでも心につきまとい、知り合った女性がそうした女性なのかどうかと考えるようになる。
そしてあるパーティで知り合った謎を秘めたキリエという女性が、果たしてそうした女性のひとりなのかどうかということを中心にしながら物語が展開していく。
小説家である淳平は現在ある小説を執筆中である。
それは、「日々移動する腎臓の形をした石」という小説である。
その小説は、腕のいい内科医の30代前半の女性が主人公である。
彼女はある大きな病院に勤めており、独身で同僚の外科医の男性と不倫関係にある。
ある時彼女は旅行先の温泉で、腎臓の形をした石を見つけて持ち帰る。
そしてそれを文鎮として使っていたが、それが夜のうちにあちこちへと移動するようになる。
小説はそこで止まったままで、先には進めないでいる。
そのことをキリエに話すと、彼女は「その腎臓石は自分の意思を持っているのよ」と言う。
そして続けて「腎臓石は、彼女を揺さぶりたいのよ。少しづつ、時間をかけて揺さぶりたいの。それが腎臓石の意思」
さらに「この世界のあらゆるものは、意思を持っているの」「私たちはそういうものとともにやっていくしかない。」「それらを受け入れて、私たちは生き残り、そして深まっていく」のだと言う。
こうしてキリエと淳平の現実と小説内小説の世界が同時進行していくが、ある日突然キリエは姿を消してしまう。
そして後日ある偶然から彼女の正体を知ることになり、それによって彼自身が激しく揺さぶられることになる。
ところでこれを読んでいるうちに丸谷才一の「樹影譚」という小説のことを思い出した。
それは村上春樹の「若い読者のための短編小説案内」という本の中で採りあげられていた小説である。
この小説は「日々移動する腎臓のかたちをした石」と同じく、小説家が主人公で、その小説家が書く小説内小説と同時進行で物語が進んでいくというものである。
「日々移動する腎臓のかたちをした石」が書かれたのが2005年、そして「若い読者のための短編小説案内」が1997年ということから考えれば、この小説の骨格は、「樹影譚」を参考にしたものと考えてよさそうだ。
それを村上春樹独自の世界へと移し変えたのである。
そして最後には<カウントダウンには何の意味もない。大事なのは誰か一人をそっくり受容しようという気持ちなんだ、と彼は理解する。そしてそれは常に最初であり、常に最終でなくてはならないのだ。>との結論へと至るのである。
なるほど見事な手腕である。
そして同時に村上春樹の成熟をそこに感じる。

これで村上春樹の小説はすべて読んだことになる。
小説は全作品読破したが、この他にもエッセイ、紀行文、さらには数多くの翻訳本がある。
それらは機会があれば、いずれ読むことになるだろうが、とりあえず村上春樹の本を続けて読むのは、これでいったん終りとする。
10月からの5ヶ月間、これほど長期間にわたって、ひとりの作家の小説ばかりを集中的に読んだのは、久しぶりのこと。
当初は途中で投げ出してしまうかもしれないなどと考えたこともあったが、そうはならなかった。
それは村上春樹の小説がもつ独特の魅力に引っ張られたからであろう。
その魅力とはどんなものなのか、それを考えながら、こうした文章を書き続けてきたが、未だその核心を掴めていないように思う。
しかしいずれにしてもそうした読書と思索の時間をもてたことは、貴重な経験であり、また楽しく充実した時間であった。
またいつかこうした時間を持ちたいものだと切に思う。
そして今後も一読者として、また同世代の人間として、彼の動向に注目していきたいと、思っているのである。


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村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」

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これらの短編は、当初「地震のあとで」というタイトルで、1999年8月から12月まで雑誌『新潮』に連載されたものである。
「UFOが釧路に降りる」、「アイロンのある風景」、「神の子どもたちはみな踊る」、「タイランド」、「かえるくん、東京を救う」の5篇、それに書下ろしの「蜂蜜パイ」を加えて出したのが、この短編集である。
いずれも1995年2月が舞台となっている。
それはこの年の1月に阪神大震災が、そして3月には地下鉄サリン事件が起きており、このふたつの未曾有の出来事に挟まれた2月という月に、人々はどう生きたかということを書いているからである。
いずれも阪神大震災との関連のもとに書かれているが、直接的にはそれらの被害について描いているわけではない。
というよりも、地震とはまったく関係のないように思えるものもあるが、詳細に読んでいくとそれは巧みに隠されている。
そのことについて村上春樹は次のように書いている。

<僕は『アンダーグラウンド』と『拘束された場所で』で、地下鉄サリンガス事件及びオウム教団を扱ったあと、どうしても阪神大震災についての本を書いてみたくなった。どちらかひとつだけでは片手落ちだという気がしたからだ。それら二つをあわせることによって、戦後日本の五十年の歴史に、ひとつのはっきりとした終止符が打たれることになるのだ。それはあくまで二つで一組の、巨大な不吉な里程標なのだ。しかし僕は神戸の地震についてのノンフィクションを書きたいという気持ちには、どうしてもなれなかった。そこは僕が少年時代を送った思い出の深い場所であるし、たくさんの知り合いもいる。そこに行って本を書くために事実を集めて回るというのは、僕にとってはいささか気の重いことだし、あまりにも生々しいことだった。それに僕としては、オウム事件とはまったくべつの切り口でこの出来事を取り上げ、語ってみたいという気持ちもあった。
 それで今回はフィクションの形式を使おうと決めた。それも短編小説の連作がいい。そして地震という題材を直接には取り扱わないことにしよう。物語の場所も神戸から遠く離れたところに設定しょう。その地震がもたらしたものを、できるだけ象徴的なかたちで描くことにしよう。つまりその出来事の本質を、様々な「べつのもの」に託して語るのだ。僕はそう決心した。>

どんな素材を扱う場合でも、彼は生のままで表現しようとはしない。
そうした直接的で荒々しいもの、洗練されていないものは、生理的に受け入れられないということなのだろう。
そしてそれを<「べつのもの」に託して語る>、それこそが村上春樹が村上春樹たる所以なのである。

ここでは、すべてが三人称で書かれているが、それはこれまで多くの小説を一人称で書いてきた村上春樹にすれば珍しいことである。

<こういう書き方をしたことには、やはり『アンダーグラウンド』を執筆した影響があったように思う。僕はそこで様々な物語の採集をし、人々のボイスをそのまま文章にする作業を一年間にわたって辛抱強く行ってきた。そのボイスは実に多様なものであり、ひとつひとつが取り替えのきかない固有のものであり、世界はそれらの無数のボイスの集積によって成り立っていた。そしてその世界を一人称だけでしめくくることは、現実的にもうほとんど不可能になっていた。そしてその三人称という語り口は、僕の短編小説のスタイルを多かれ少なかれ変えていったという気がする。>

この小説でまた新たな一歩を踏み出したというわけである。
そのことに関連するかどうかわからないが、この短編集のなかの唯一の書下ろしである「蜂蜜パイ」で、小説家である主人公・淳平は、次のようなことを考える。

<これまでとは違う小説を書こう、夜が明けてあたりが明るくなり、その光の中で愛する人々をしっかりとだきしめることを、誰かが夢見てまちわびているような、そんな小説を>

もちろん村上春樹は、これを自分と重ね合わせて書いたわけではなく、淳平と自分とはまったく違ったタイプの作家なのだと言うが、それでもやはりここには村上自身の新しい物語を紡ごうとする、新たな決意表明のようなものがあることを感じずにはいられない。
またそうであってほしい、そうであるはずだとの思いもある。
この本を読み終わって、そんな感慨が自然と湧いてきたのである。


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村上春樹「アフターダーク」

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昨年の10月以来、村上春樹の小説ばかりを読んできたが、長編小説はこれが最後になる。
ちなみに村上春樹の長編小説はぜんぶで13冊あるが、これは11冊目の長編小説である。
出版されたのは、2004年。
小説を書くたびに、新しい試みを模索していくのが、村上春樹の創作スタイルであるが、この小説ではかなり実験的な試みをしている。
それはこの小説が、まるで1本の映画のようにキャメラ目線で書かれていることだ。
そのことを著者は
<最初に会話だけをスクリプトのように書いた。><そのあとで地の文を書き込んでいった。><映画を作っていくような感じで書いた。>
と語っている。
<大学時代はシナリオばかりを読んでいた。>という村上春樹らしい。

そして小説の中では次のように書く。

<私たちの視点は架空のカメラとして、部屋の中にあるそのような事物を、ひとつひとつ拾い上げ、時間をかけて丹念に映し出していく。私たちは目に見えない無名の侵入者である。私たちは見る。耳を澄ませる。においを嗅ぐ。しかし物理的にはその場所に存在しないし、痕跡を残すこともない。言うなれば、正統的なタイムトラベラーと同じルールを、私たちは守っているわけだ。観察はするが、介入はしない。>

こうやって映し出されるのは、都会の真夜中の出来事である。
時間で言うと23時56分から、6時52分まで。
その真夜中を、異空間として扱っている。

映画関連でいうと、物語の舞台のひとつとして登場してくるラブホテルの名前が「アルファヴィル」となっているが、これはゴダールの映画の題名から採ったもの。
1965年に公開された映画で、アンナ・カリーナ主演、未来都市・アルファヴィルを舞台にしたSF映画で、個人の自由が剥奪された世界を描いている。
ちなみに村上春樹は、ゴダールからかなり大きな影響を受けたと語っている。

さらにもうひとつ映画関連でいえば、映画『ある愛の歌』が会話の中の話題として登場してくる。
そしてそこで語られるストーリーは、映画のそれとは少し違っている。
というか間違っている。
それは故意に間違ったものにしたのだと思われるが、それがなにを意図しているのか、ちょっと考えてみるのも面白い。

ところでこの小説のタイトルである「アフターダーク」は、トロンボーン奏者カーティス・フラーが1959年に録音したアルバム「ブルースウェット(BLUES ette)」に収められた、「ファイブ・スポット・アフターダーク」から採ったもの。
確かこのアルバムは、昔買ったことがあるのではないかと、探してみると出てきた。

bluesette.jpg
さっそく聴いてみたところ、なるほどこれは昔よく聴いた馴染の曲ではないか。
久しぶりに聴いたが、なかなかノリがいい。
都会の夜の頽廃的な気分が、そこはかとなく漂ってくる。
聴きながらこれを書いていると、小説の世界がまた違った色彩を帯びて見えてきた。

これで残すところは、あと2冊、『神の子どもたちはみな踊る』と『東京奇譚集』だけである。


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村上春樹「スプートニクの恋人」

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『ねじまき鳥クロニクル』完結以来、四年ぶりの書き下ろし長編小説である。
主な登場人物は、主人公の「ぼく」とすみれとミュウの三人。
「ぼく」は小学校の教師で、すみれは「ぼく」の大学時代の女友達、小説家を目指している。
ミュウは、すみれが従姉妹の結婚式で知り合った17歳年上の女性である。
そしてすみれは初対面の彼女に激しい恋をした。
すみれはこの時、大好きな小説家ジャック・ケアルックの話をした。
ジャック・ケアルックはアメリカの小説家で、所謂ビートニクを代表する人物であるが、その「ビートニク」という言葉をミュウは「スプートニク」と勘違いしたことから、すみれは彼女のことを「スプートニクの恋人」と呼ぶようになった。
それがこの小説の題名の由来である。
「スプートニク」とは、1957年にソ連が打ち上げた、世界初の人工衛星のことである。
そしてそれは「旅の連れ」を意味する言葉でもある。

「ぼく」はすみれに恋をし、すみれはミュウに恋をする。
そんなちょっと変わった三角関係のなかで、物語は進んでいく。
すみれはミュウの仕事を手伝うようになり、ミュウの秘書としてヨーロッパに行った時、ギリシャの島で突然姿を消してしまう。
そこから「ぼく」のすみれ捜しの旅が、始まるのである。
しかしすみれを捜し出すことはできない。

帰国後、ある事件が持ち上がる。
日曜日の午後、ぼくと不倫関係にある生徒の母親から、突然電話が入る。
クラスで「にんじん」と呼ばれている彼女の息子が、スーパーで万引きをしたというのだ。
彼女と一緒にスーパーに駆けつけ、警備員との間でひと悶着があるが、ようやく身柄を引き取ることができた後、「にんじん」とふたりで喫茶店に入って話をする。
そこでぼくは説教ではなく、ギリシャでの出来事やぼく自身のことについて独り言のように話し始める。
<ぼくはにんじんに向けて話しているのではなかった。自分に向けて話しているだけだった。声に出してものを考えているだけだった。>
そしてその長い話のなかで「にんじん」の態度に少しづつ変化が現れる。
この場面は小説のほぼ終幕において描かれるエピソードだが、深く胸を打つ。
本筋の物語とは直接関わりのない場面ではあるが、重要な場面である。
この小説の中での名場面のひとつである。

<どうしてみんなこれほどまで孤独にならなくてはならないのだろう。ぼくはそう思った。どうしてそんなに孤独になる必要があるのだ。これだけ多くの人々がこの世界に生きていた、それぞれに他者の中になにかを求めあっていて、なのになぜ我々はここまで孤絶しなくてはならないのだ。何のために?この惑星は人々の寂寥を滋養として回転をつづけているのか。>

<ぼくは目を閉じ、耳を澄ませ、地球の引力を唯ひとつの絆として天空を通過し続けているスプートニクの末裔たちのことを思った。彼らは孤独な金属の塊として、さえぎるものもない宇宙の暗黒の中でふとめぐり会い、すれ違い、そして、永遠に別れていくのだ。かわす言葉もなく、結ぶ約束もなく>

これはギリシャを去ることになった「ぼく」が、アクロポリスの丘に上り、白い神殿を眺めながら抱いた感慨である。
人は誰かと深く繋がることを求めている。
しかし人と人は、それほど容易く繋がることはできない。
それがこの小説を貫いている1本の太い幹である。
そこには深い孤独と空虚が漂っている。

そして続く終章で語られる次のような言葉が印象に残る。

<ぼくらはこうしてそれぞれに今も生き続けているのだと思った。どれだけ深く致命的に損なわれていても、どれほど大事なものをこの手から簒奪されていても、あるいは外側の一枚の皮膚だけを残してまったくちがった人間に変わり果ててしまっていても、ぼくらはこのように黙々と生を送っていくことができるのだ。手を伸ばして定めれらた量の時間をたぐり寄せ、そのままうしろに送っていくことができる。日常的な反復作業として。場合によってはとても手際よく。そう考えると僕はひどくうつろな気持ちになった。>


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cooldaddy

Author:cooldaddy
住んでいるところ:青森県弘前市
出身地:香川県
年齢:今年(2008年)還暦です。
性別:男

還暦という節目を迎え、何か新しいことを始めようとブログを開設しました。
趣味のこと、生活のこと、心に残ったことなど、My Favorite thingsを、気ままに書いていこうと思います。
末永くおつき合いください。

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