風に吹かれて

My Life & My Favorite things

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中野翠「会いたかった人」

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<私は文筆業だが、確固とした思想を持っているわけではない。たいした主義主張があるわけではない。
 いや、むしろ思想(のようなもの)を持っているときは何も書けなかった。大学を卒業して十年以上たって、自分の頭の中にあった左翼的イデオロギーの建築物がカタガタに崩れて、「私はやっぱり頭のいいほうじゃあない。頭より身体のほうがまだしも信頼できそうだ」と悟ったとき、初めて何かを書けるような気がしてきたほどだもの。
 今でも、自分の頭よりは自分の体のほうを頼りにしている。手がかりにしている。私の体をこわばらせたり、むずがゆくさせたりするものは、どんなに世間がほめちぎっているものでも「ダメなもの」だと思ってしまう。「嫌いだ」と思ってしまう。ただ、こういう仕事をしている限り、「ダメ」だの「嫌い」だの並べ立てているだけでは面白くも何ともないので、しようがないから少しは頭を使って、どこがどうダメなのか、どこがどう嫌いなのかを自問してひとりリクツこねて、文章にしているだけなのだ。>

なるほど、よく解かる。

そして<私は時どき、ほんとうにたまにだが、自分を宇宙人のように感じることがある。地球上にポーンと送られて来て、人間観察記を書かされている宇宙人のような気がする。と、自分で書いて、凄いなぁと呆れるが。人間のやることなすことが「キューリアス」に見える。他の人たちは何とも思わないらしいが、私は心の中で「変わってる~。笑っちゃう~」とつぶやくことが多い。>

そんな著者中野翠が、「関心の方向が似ていてとても他人とは思えない」が、もうすでに死んでしまって会えない人達について書いた本である。
採り上げられているのは、29人。
そのうち事件の犯人2人と著者自身の祖母を除いた26人が、作家や俳優やデザイナーといった著名人。
そのなかで名前を知っているのは17人、あとの9人はこの本で初めて知った人たち。
いずれ劣らぬ曲者ぞろい、中野翠好みの濃厚な人物ばかりである。

参考のために名前をメモしておくと、まずは知っている17人というのは、ジョージ・オーウェル、ココ・シャネル、樋口一葉、左ト全、田中清玄、古今亭志ん生、プレストン・スタージェス、ピーター・ローレ、熊谷守一、今和次郎、佐分利信、P・G・ウッドハウス、福地桜痴、福田恆存、松廼家露八、徳川夢聲、中里介山。
そして知らなかった9人は、チェルヌィシェフスキイ、ロバート・L・フィッシュ、エルザ・スキャパレッリ、淡島寒月、ダイアン・アーバス、三田平凡寺、内田魯庵、依田学海、ジェイムズ・サーバー。
なるほどと唸らされるバラエティに富んだ人選である。
こうした人物たちの「他人とは思えない」部分を手がかりに、それぞれが持つ魅力を中野流に解き明かしていく。
いずれも、なるほどと納得させられるものばかり。
さすが中野翠、見事な筆捌きである。
読んでいるうちに、なるほどこうした人たちなら、中野翠ならずとも自分もいちどは会ってみたかったと思えてきた。


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中野翠「毎日一人はおもしろい人がいる」

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有名無名を問わず、その日目にした人間のなかで、いちばん気になった人を俎上にあげて、書き綴ったコラム集である。
2001年に講談社のウェブマガジンで連載されたものをまとめた本である。
何よりも1年間一日も休まず書き続けたことにまず驚かされる。
しかもその内容がすべて面白い。
人間観察の鋭さに何度も唸らされたのであった。

まず「まえがき」からその一部を紹介すると、次のように書いている。

<平凡きわまりない家庭に育って、一人暮らしを始めたのは29歳と11ヶ月という、何だか「いかにもーっ」のトシだったのだけれど、淋しいと感じたことはほとんどない。はっきり言って、さっぱりしてしまった。父母をはじめ家族のことは人一倍って言っていいほど愛しているのに、「それはそれ、これはこれ」という感じで、すぐに一人暮らしにフィットしてしまった。今や他人との共同生活は考えられない。どんなに気の合った人とでも。
 一人がいい、ということは、もしかして私は人間嫌いということなのだろうか?
 ずいぶん昔に見たヴィスコンティ監督の『家族の肖像』(74年)という映画を思い出す。ローマの広大な邸宅に一人で棲む老教授。この老人は、家族の団欒を描いた絵の一大コレクションを持っている。絵の中の家族を眺めるのは好きだが、現実の家族は嫌いという気難しい人間だ。私は、あの老人と同じなんだろうか?
 似ているようでもあるし、全然似ていないという感じもする。
 映画を見たり、本(特に人物評伝もの)を読んだり、落語を聴いたり、街を歩いたり・・・・いろいろなことが好きだけれど、やっぱり私の一番の関心の的は人間だ。私はこの世の中がおもしろくてたまらないのだ。「おもしろい」という言葉には、「滑稽だ」という思いばかりではなく「興味深い」という思いもこめられている。人間社会は、滑稽で、奇怪で、謎めいていて・・・興味深い。
 私はあまりにもこの人間社会に心を奪われてしまっているのだろうか?絵の中の家族の肖像を飽きもせずに眺めている、あの老教授のように?人間社会を眺めているだけで満腹気分になってしまって、それで、一人でしか暮らせなくなってしまったんだろうか?自分でもよくわからない。
 とにかく、毎日一人はおもしろい人がいる。時どき心のうちで「今日の一等賞はこの人」なあんて思うこともある。
 それを書きとめておきたいと思った。書きとめておかないと、スーッ、スーッと忘れてしまう。その程度の小感動も多いので。それでとりあえず、一年間(’01年)記録することにした。>

こうやって始まった連載であったが、とにかくあらゆる人物が登場する。
街ですれ違っただけの人から、ニュースで流される犯罪者や話題の人たち、俳優、タレント、スポーツ選手、小説家、画家、政治家と、目にとまった「今日の一等賞」の人が次から次へと俎上にあげられる。
その目の鋭さと確かさは、コラムニスト中野翠の面目躍如といったところである。

2001年という年はアメリカで9・11テロがあった年である。
そのことについてはわりあいサラリと流して書いているが、その翌月の10月1日には古今亭志ん朝が亡くなっている。
毎晩落語を聴きながら眠りにつくほどの落語好き、なかでも志ん朝が特にお気に入りという彼女にとって、これは重大事件であった。
そのため、ほとんど茫然自失といった状態に陥っている。
その日のコラムの最後は、こんな風に書いている。
<毎晩、落語CDを聴きながら眠りにつくのが習慣になっているのだが、今夜はとてもそういう気分になれず。有名人の訃報にこんなに衝撃を受けたのは、1970年の三島由紀夫の時以来だろうか。長嶋引退、イチロー新人最多安打、高橋尚子世界記録ー全部吹き飛んだ。>
そして10月6日の葬儀・告別式に列席、心身ともにフラフラになって帰宅、翌日には<目が醒めると、まず「志ん朝さんはもういないんだ」と思う。まずい。こんなだらしないことでは、志ん朝さんも浮かばれない。「おセンチ」もいいかげんにしないと、ね。>と書いている。
そんなライブ感が味わえるのも、また面白い。

365日で365人の人物を採り上げているが、それだけでは終わらず、それ以外にもさまざまな人物が登場することになる。
結局この本で採り上げられた人間の数は、名前の知られた人たちだけでも軽く600人は越えている。
さらに無名の人たちも加えると、おそらく700人以上になるのではなかろうか。
この数を見ただけでも「一番の関心の的は人間だ。」というのが頷ける。
そしてその旺盛な好奇心に拍手を贈りたくなってくる。
まえがきには<まあ、気楽な本です。二十一世紀の最初の一年を思い出す手がかりにはなるでしょう。ひろい読みも可>と結んではいるが、なかなかどうして奥の深い本である。
ひろい読みだけではもったいない。
気に入った箇所は何回も繰り返し読みたくなってしまう。
こちらの好奇心も大いに刺激された。
そしてまだまだこの続きも読んでみたい、という気にさせられたのであった。


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中野翠「今夜も落語で眠りたい」

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コラムニスト中野翠が落語ファンということを、この本で初めて知った。
それも20年以上にわたって毎晩落語のテープやCDを聞きながら寝ていたというほどの落語ファンなのである。
モダンな洋モノ好きの中野翠と落語の取り合わせは、最初はちょっと意外に思えたが、考えてみると小津や成瀬といった古き日本映画や時代劇を好むという側面をもっている中野翠が落語にはまってもけっしておかしな話ではなく、むしろそれが当然の道筋なのかもしれないと、妙に納得してしまった。

そもそもの落語にはまったきっかけは、1985年暮れにTVで見た古今亭志ん朝の『文七元結(ぶんしちもつとい)』との出会いにあった。
その出会いはまさに「目からウロコ」であり、以来むさぼるように古典落語を聴きまくったのである。

彼女がこの本で書く落語の魅力を語った言葉をためしに拾ってみると、次のようなものがある。

「人生の後半、いや終盤になるほどネウチがわかる娯楽。いろいろな意味で、落語こそ最終娯楽―――と私は思っている。」

「落語ってバカの豊かさを描いたものじゃないのかな」

「落語とは、まったく、何と奇妙な芸能なのだろう。すべてをギリギリまで省略し、単純化して行って、逆に豊かな世界を生み出してしまうのだ。ミニマリズムの極地じゃないか。洗練の極みではないか。要するに聴き手の想像力を信頼しているのだ。日本では江戸時代からずぅっと、名もない庶民がこんな高度な芸能を楽しんで来たのだ。」

語られる落語家は、志ん生、文楽をはじめ志ん朝、馬生、円生を中心に小さん、正蔵、柳橋、三木助といったぐあいに、著者自ら「好みは偏っている」と書いているものの、落語への愛がいっぱい詰まった本なのである。
そして「なるほど、そういうことだったのか」と思わず頷いてしまうようなフレーズに出会える楽しみを味わえる本でもある。
落語ファンにはオススメの一冊である。


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中野翠「小津ごのみ」

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これまでの小津研究のどれとも違う視点から語られた小津映画研究、というか小津映画へのオマージュに満ちた本。
「なるほど、こんな見方もあったのだ」と目を見開かされるような新鮮な考察がいくつも出てくる。
たとえば小津監督と笠智衆との関係を書いた次のような箇所。

 小津と公私にわたって親しんだ俳優の須賀不二夫(のちに不二男)はこんなふうに語っている。「笠さんは小津監督の分身ではなかった。笠さんはほんとうに真面目で誠実な人。小津さんは笠さんに憧れていたけれど、俺はあんなに野暮じゃあないとも思っていたはず。小津さんは粋な人だった。煙草、酒、浪費・・・・・。適当に不良で無頼だった。」(DVDセット小津安二郎・第二集)
 私は、きっとその通りだったろうなと思う。小津にとっての笠智衆は(いや小津映画が描き出した笠智衆イメージは)、きっと理想の他者だったのだと思う。自分はそこからハズれるが、日本の男の多くはこんなふうであってほしいという思い。自分はちょっと違うが、日本の「いい人」というのはこういう人物像なんだという気持ち。日本のカタギの男の美しいスタンダード。それを笠智衆に託したのだと思う。
 小津が小津映画の中の笠智衆のような男だったら、とっくに結婚していただろう。結婚して家庭を持つにはあまりにも何かが過剰だったからこそ(あるいは欠落していたからこそ)笠智衆の美しさを発見することができたのだ。そして、「平凡なようでいて、最も問題も多く、また味も深いのは日本人の家庭生活なのである」という確信を持てたのだ。


こうした見方を小津映画に登場する男たちのファッションの変遷から導き出していくのである。
さらにいえば、その同じ考察の中から小津のダンディズムにも言及するといったぐあいに、これまでのどの小津論とも違った視点からの考察が新鮮である。

中野翠は女性らしいミーハーな視点を大切にしながら(好き嫌いが、まず最大の評価のものさし)、物事を見るという姿勢を持ち続けているコラムニストだが、この本ではまずファッション、インテリア、小物といったビジュアル面から小津映画の魅力に迫っていく。
そしてそこから感じとるのは、趣味のよさと同時に「なんか変だ」「不自然」といった印象なのだが、それこそが小津安二郎が頑固に貫き通した「小津ごのみ」のなせる業だというのである。

 小津映画は、ドンゴロスのタイトルバックに始まって、一つの確信に満ちた美的秩序の世界として私の目前に立ち現れた。ストーリーやテーマやメッセージよりも、まず、ある美感というか趣味性を最大限に具現したものとして迫って来たのだ。
 具体的に言えば、ファッション、インテリア、雑貨といった表層的なものだが、俳優、女優の顔かたちや仕草や口調や会話の間にいたるまで、趣味性を帯びている。


といった小津映画の表層的なものへのこだわりから筆を起こし、そのひとつひとつを検証していく。

たとえば、女たちの着物姿は、

 徹底的と言っていいくらいグラフィックデザイン的だ。縞、格子、カスリが圧倒的に多い。絵画的ではなく、デザイン的。作り手の個性などまったくない、無名の人びとが歴史の中で作りあげて来た幾何学的な柄だ。個性や叙情性はきびしく排除されている。よく見れば、座布団や唐紙の柄、湯飲み茶碗の模様までも!
 それが、おのずから画面に端正で理知的な美しさ(ちょっと硬い感じも)を与えている。


そして洋装では、「白いブラウスと無地のスカート」という点に注目、「無地の服が持つ品のよさ、媚びない強さ、飾らない美しさを最高に引き出す力がある」女優として小津監督は原節子に惚れ込んだのではないかと推測していく。

インテリアに関しては「縞の唐紙、格子のカーテン、そして障子」といった幾何学模様へのこだわりがここでも見られ、それらが「画面のリズムや美感を生み出している」と指摘。
さらに、天井の電燈のカサ、ソファ、籐椅子、陶器の一輪差し、電気スタンド、湯飲み茶碗といった「常連キャラクター」への「小津ごのみ」にも言及、「不自然」「反リアリズム」と思いながらも、小津の美意識に強く惹かれ「ホレボレ」してしまうのである。

そして

 自分という小さな一個人の好悪の感覚を一途に掘りさげて行けば、絶対に何か大きなもの、深いもの、普遍的なものにつながるはずだ。そういう確信があったとしか思えない。

と結論づけていく。
こういったユニークな切り口で語られる文章を読んでいると、これまで輪郭があいまいだった小津映画の魅力がくっきりと姿をあらわしてくる。
小津映画、再発見といった体験をたっぷりと味わい、新たなる道案内の役割を果たしてくれるのである。

以上は、「一章 ファッション、インテリア」についての印象だけを書いたものが、この後も「二章 女たち、男たち」「三章 セリフ、しぐさ」「四章 今見られる小津映画、全三十七本」と考察は続いていく。
そのなかで、小津映画の魅力についてのたくさんの新しい発見をまだまだ教えてくれる。

そして本のあとがきでは次のように書いている。

 書きながら何度も思ったのは、「小津はやっぱり大きい。小津というのが落語とかジャズとかいうのと同じように、一つのジャンルを構成しているかのようだ。ファッション方向から攻めて行っても、監督術方面から攻めて行っても、生き方方面から攻めて行っても・・・・どこから攻めて行っても面白く、際限もなく興味をかきたてられる。」

小津映画に関する考察、評論は数多くある。
そしてそれぞれがさまざまな試みで、小津映画の魅力の解剖を行っている。
それほど多くの人を捉えて離さない深い魅力を小津映画はもっている。
中野翠もそんな小津映画に、はまってしまったフリークのひとりである。
そしてこれらの文章の行間のそこここから、小津映画に対する深い愛着が伝わってくるのである。
ただし盲目的に惚れ抜いているわけではなく、批判すべきところは、きちんと批判をするという冷静さを失っていないところはさすがだ。
中野翠の著書では「映画の友人」以来の面白さに、時間を忘れて読みふけってしまった。
何度でも繰り返し読みたくなる本、いや読み返すべき本なのだと思う。
小津映画が繰り返し観たくなるのと同じように。

「マイ・シネマ館」の中にある「小津安二郎の映画」です。参考までに。

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プロフィール

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Author:cooldaddy
住んでいるところ:青森県弘前市
出身地:香川県
年齢:今年(2008年)還暦です。
性別:男

還暦という節目を迎え、何か新しいことを始めようとブログを開設しました。
趣味のこと、生活のこと、心に残ったことなど、My Favorite thingsを、気ままに書いていこうと思います。
末永くおつき合いください。

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