FC2ブログ

風に吹かれて

My Life & My Favorite things

Category: 読書

Tags: エッセイ・評論  

Comment (0)  Trackback (0)

野呂邦暢「夕暮の緑の光 野呂邦暢随筆選」

midorinohikari.jpg

諫早の作家、野呂邦暢の随筆集である。
野呂邦暢は、生涯を故郷・諫早の地で作品を書き続け、1980年に42歳の若さで急逝した。
この随筆集の編者は、書評家・岡崎武志である。
最近続けて読んだ岡崎の著書の中で野呂邦暢について書かれているのを読んでいたので、彼が熱烈な支持者であることは承知していたが、この本の編者であることはこれを読むまで知らなかった。
そんな偶然が、この本を近しいものにしてくれた。

解説に岡崎氏は次のように書いている。
「一番大事なことから書く。それは、野呂邦暢が小説の名手であるとともに、随筆の名手でもあったということだ。小説を書くときほどの息苦しい緊張はなかっただろうが、ちょっとした身辺雑記を書く場合でも、ことばを選ぶ厳しさと端正なたたずまいを感じさせる文体に揺るぎはなかった。ある意味では、寛いでいたからこそ、生来の作家としての資質がはっきり出たとも言えるのである」

早逝の作家、野呂邦暢が残した作品は多くない。
そしてその作品はいずれも地味なものばかり。
ゆえに読者の数も多くはない。
しかし数少ない読者の中には、彼の作品を熱烈に愛する根強いファンが存在する。
けっして「忘れさせるわけにはいかない」作家なのである。
そんな思いを込めて没後30年の節目に出したのが、この随筆集である。

野呂邦暢は、1937年長崎市に生まれ、7歳の時に諫早市に移り住んだ。
1956年、京都大学を受験したものの失敗、そのまま予備校生として京都に住んだが、父親の事業の失敗でわずか3か月で京都での生活を終える。
その後は生活のために大学受験を断念、上京してガソリンスタンドで働き始めるが、翌年身体を壊して帰郷、陸上自衛隊に入隊、佐世保での2か月間の訓練の後、北海道千歳に配属される。
1958年除隊、諫早に帰り、家庭教師などで生計を立てながら作家を目指す。
1965年「ある男の故郷」で文學界新人賞佳作受賞、そして1974年には「草のつるぎ」で芥川賞を受賞するが、1980年5月7日、心筋梗塞で急逝。

そうした経緯が書かれている。
収められているのは、全部で57編。
そのほとんどが1970年代に書かれたものだが、1篇だけ1967年に書かれたものがある。
それがこの本の題名にもなっている「夕暮の緑の光」である。
そこには次のようなことが書かれている。

学生時代、“ブッデンブロークス”を読まなければ、田舎に居ついた疎開児童でなければ、原子爆弾の閃光を見なければ、郷里が爆心地に近くなければ私は書いていただろうか、やはり書いていたと思う。
外から来たこれらの事は私にものを書かせる一因になったとしても、他に言い難い何かがあり、それはごく些細な、例えば朝餉の席で陶器のかち合う響き、木漏れ陽の色、夕暮の緑の光、十一月の風の冷たさ、海の匂いと林檎の重さ、子供たちの鋭い叫び声などに、自分が全身的に動かされるのでなければ書きだしていなかったろう。
 小説を読み映画を見るにつけ身につまされる事が多かった。他人事ではないのである。親しい友人は東京におり、九州の小都市で私は申し分なく、一人であった。
 今思えばこれが幸いした。優れた芸術に接して、思いを語る友が身近にいないという欠乏感が日々深まるにつれて私は書くことを真剣に考えた。分かりきった事だが、書きたいという要求と現実に一篇の小説を書きあげる事との間には溝がある。
 それを越えるには私の場合、充分に磨きのかかったやりきれなさが必要であった。と言い切るほど単純ではないかもしれないが、今のところ私が書きだした事情はこうである。
 作家丸出航、私は密かに呟く。舵輪をとる者は一人といういささかの光栄はあるにしても、この船に錨はなく、その港は遠い。



さらにこうも書く。

小説家はだれしも文学的青春というものを経験している。大学で同人誌を刊行し、安酒場のすみで気の合ったもの同士文学論をたたかわすという世界から私は遠かった。同人誌に加わったことは一度もない。田舎町にそんなものはありはしなかった。あったとしても加入しなかっただろう。私は月々の文芸誌を立ち読みし、市立図書館で愚にもつかない雑書を乱読し、ある種の勘を働かせてめぼしい本を注文しては読み耽った。



文学を愛し、作家を志す青年が、孤独な心を抱えながらいかにして作家への道を歩んでいったか、そうした心の軌跡を、身辺雑記として綴った文章のそこここに垣間見ることができる。
孤立無援で先の見えない日々は、辛く苦しいものであったかもしれない。
だが、一方では充実があり、時に幸せを実感できた時間でもあったのではなかろうか。
そしてそれを支える力となったのが、諫早の町に見られる穏やかな自然の美しさであった。
なかでも諫早の町に面した海の存在が大きい。

諫早は三つの半島のつけ根にあたり、三つの海に接している。それぞれ性格を異にする三つの海に囲まれた小さな城下町である。わたしはこれまで刊行した三冊の本におさめた作品のかずかずを全部この町で書いた。諫早に生まれなかったなら、これらの小説が書けたかどうか疑わしい。物語というものはそれを生み出す風土を作者が憎んでいては成立しないものだ。わたしは諫早という土地を、こういう言葉を使ってよければ、愛している。美しい町であると思っている。町を歩けば海の匂いがするからだ。いつも町には三つの海から、微かな潮の匂いを含んだ風が流れこんで来る。外洋の水に洗われる千々石湾の風、その底質土に泥を含まない清浄な大村湾の風、干潟をわたって吹く有明海の風。
 とりわけわたしは有明海の風を好む。………河口にたたずむごとにわたしは生活の疲れが癒え、再び自分の人生を生きようという思いを新たにする。水と泥と鳥と草原を眺め、空からそこに降りそそぐ始原的な光を浴びると、わたしは自分の内にある何物かが再生する感覚を味わう。河口だけでなく有明海そのものがわたしを活気づける力の源である。



そして小説を書くということは「その土地に数年間、根をおろして、土地の精霊のごときものと合体し、その加護によって産みだされるもの」であり、そのために「わたしは両足で常に土を踏まえていたい」と決意を述べる。
そこから見えてくるのは、物事をじっくりと見据えようとする若き小説家の真摯な態度である。
それを読むことで、心が洗われ、自然とこちらの背筋も伸びてくる。
ひとつ読み終えるたびに、反芻し余韻に浸る。
そして読み終えてしまうのが、惜しまれるのである。
何回も繰り返し読みたい本である。


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑

スポンサーサイト
テーマ : 図書館で借りた本  ジャンル : 本・雑誌


Category: 読書

Tags: エッセイ・評論  

Comment (0)  Trackback (0)

岡崎武志「蔵書の苦しみ」

zousyokurusimi.jpg

著者は主に書評や古本に関したコラムを書くライターである。
そして職業柄かなりの蔵書家でもある。
その数2万冊超、いやひょっとすると3万冊を超えているかもしれないという。
通常1万冊あれば1軒の古本屋が開けると言われているので、その数がいかに凄いかがよく分かる。

本が増え始めたのは、大学に入学して一人暮らしを始めてから。
以後引っ越すたびに数が増えていった。
理想の読書環境を手に入れたと思っていたはずが、本が氾濫し始め、足の踏み場もなくなってきた。
そして今では探している本が見つからず、あるはずの本をまた本屋で買いなおすという有様。
災害の域にまで達するような状態になってしまったのである。
まさに「蔵書の苦しみ」である。
その行きつく先がどういうことになるか、様々な例を引いて書いている。
まず木造アパートの二階に住んでいた人が、本の重さで床をぶち抜いた話。
同じような話として串田孫一や井上ひさしやマンガ家の米沢嘉博などの例を挙げる。
またこの本にも書かれているが、図書館でいっしょに借りた関川夏央の「文学はたとえば、こう読む」の中にも、これと似たような話として「本の山が崩れて遭難した人 草森紳一とその蔵書」があった。
草森の著書「随筆 本が崩れる」のなかに書かれているもので、3万冊以上の本で埋まった自宅マンションで風呂に入ろうと浴室に入った時、ドアの前に積んであった本の山が崩れてドアが開かなくなり閉じ込められてしまったという話である。
ひとり暮しをしていたため助けを呼ぶことも出来ない。
それをどうやって脱出したかが、詳しく書かれている。
笑うに笑えない話であるが、もうこうなれば事件である。災害である。
これは特殊な例かもしれないが、たとえば地震が起きて本棚が崩れ、その下敷きになることはあり得ることだ。
けっして珍しいことではない。
もちろんこの本なかでも、阪神大震災や東日本大震災の際に、蔵書がどうなったか、様々な蔵書家のケースをあげて書かれており、本棚がいかに地震に弱いか、そしてこうした異変の際には本は凶器と化すのだ、ということを書いている。

蔵書家は本に対する愛着は人一倍強い。
どの本も限られた小遣いのなかから、買おうかどうしようかと煩悶しながら、それでも「これはどうしても買っておこう」と決意したうえで手に入れたものばかりである。
「事情が許せば、買った本は全部そのまま残しておきたい。それが本音だ。」
「それでも、やっぱり本は売るべきなのである。スペースやお金の問題だけではない。その時点で、自分に何が必要か、どうしても必要な本かどうかを見極め、新陳代謝をはかる。それが自分を賢くする。蔵書は健全で賢明でなければならない。初版本や美術書など、コレクションとしていいものだけを集め、蔵書を純化させていくやり方もあるだろうが、ほとんどの場合、溜まり過ぎた本は、増えたことで知的生産としての流通が滞り、人間の身体で言えば、血の巡りが悪くなる。血液サラサラにするためにも、自分のその時点での鮮度を失った本は、一度手放せばいい」
そのような結論に至った著者の蔵書減らしの悪戦苦闘が、そこから始まるのである。

果たして理想の蔵書とは、どういったものか、そして貯まり続ける本の管理を世の蔵書家たちはどのようにしているのか、古今の蔵書家や読書家、身近な蔵書家など様々な事例のなかからそれを探ろうとする。
登場するのは、先の串田孫一や井上ひさしに加えて、谷沢永一、植草甚一、北川冬彦、坂崎重盛、福原麟太郎、中島河太郎、堀田善衛、永井荷風、吉田健一といった文学者たち。
加えて蔵書のために家を建てた人や、保管のためにトランクルームを借りた人など一般の人たちも数多く登場する。
また「明窓浄机(めいそうじょうき)」という言葉が出てくるが、これは宋時代の中国の学者・欧陽脩(おうようしゅう)の言葉で、明るい窓、清潔な部屋に机と本が1冊あり、そこで読み書きをするというもの。
究極の書斎であり、それを実現させたものに鴨長明の方丈記がある。
さらにもうひとつの明窓浄机として刑務所があり、その実例として荒畑寒村の例を挙げている。
こうした探索は映画に出てくる蔵書にも及ぶ。
「遥かなる山の呼び声」、「ジョゼと虎と魚たち」、「愛妻物語」といった映画の中に見られるささやかで個性的な蔵書、さらには「いつか読書する日」の本がぎっしり詰まった「本の家」。
そうした諸々の探索から導き出した結論は、「理想は500冊」というもの。
その根拠となったのが、「書棚には、五百冊ばかりの本があれば、それで十分」という吉田健一の言葉。
そして「その五百冊は、本当に必要な、血肉化した五百冊だった。」
しかし理想と現実は大違い。
2万冊を500冊に減らすのは、あまりにも至難の業。
理想通りに運ばないどころか、逆に大量の本を処分した同じ日に、またまた古本を買ってしまうという始末。
「バカだなあ、と自分でも思うが、この気持ち、わかってもらえる人にはわかってもらえるだろう。」と書く。
コレクター心理の複雑なところ。
「蔵書の苦しみ」とはいうものの、「本当のところは、よくわからない」のである。
苦しんでいるようであり、楽しんでいるようでもある。
結局「本が増え過ぎて困る」という悩みは、贅沢な悩み、色事における「のろ気」のようなものと結論する。
「自分で蒔いた種」「勝手にしてくれ」というしかないのである。
ましてや古本ライターを名乗る著者にとっては、こうした悩みはどこまで行ってもついて回る宿命のようなもの。
「たぶん、この先も苦しみながら生きていく」と自虐的にボヤキながら筆を置くことになるのである。
しかしそんなボヤキから生まれた本書の、何と面白いことか。
時間を忘れて楽しんだ。


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑


テーマ : 図書館で借りた本  ジャンル : 本・雑誌


Category: 読書

Tags: エッセイ・評論  

Comment (0)  Trackback (0)

岡崎武志「気がついたらいつも本ばかり読んでいた」

kigatsuitara.jpg

この本の表紙裏には、次のように書かれている。

<著者の20冊以上にのぼるスクラップブックから精選した各紙誌掲載の書評原稿やエッセイに加え、映画、音楽、演芸、旅、食、書店についてのコラム、イラスト、写真によるお愉しみ満載のヴァエティブック。>

そして「ヴァラエティブック」については「あとがき」で、次のように書いている。

<「ヴァラエティブック」というのは、一九七一年に晶文社から出た植草甚一『ワンダー植草・甚一ランド』をその嚆矢とする、書籍のスタイルを指す。
通常、一段、および二段組で、テキストを流し込むところを、一段、二段、三段、四段と違う組み方で、評論、エッセイ、コラム、対談あるいはビジュアルページを雑多に編集、構成。まるで雑誌みたいな単行本のことで、小林信彦、双葉十三郎、筒井康隆などが、晶文社で同様のスタイルの本を出していた。七〇年代に本読みとして青春を送った我々は、この自由な本の作り方に憧れ、大いに感化されたのである。>

晶文社、そして植草甚一とくると、われわれ世代の人間にとっては、ことさら馴染み深い。
この本をはじめ晶文社の本には、70年代のサブカルチャーの水先案内といったような本が多く、その隆盛に大きな役割を果たした。
私もそうした一連の書籍から様々な影響を受け、未だに自分の中に深く根を下ろしているのを感じている。
それは著者の岡崎武志が「大いに感化された」のと同様だ。
さらに加えて晶文社の創業者が、明治大学の教授、小野二郎先生ということも、それを特別なものにしている。
直接教わったわけではないが、隣のクラスにいた家内は小野先生の授業を受けており、また他の友人たちからもそのユニークな授業内容や、小野先生の人となりをよく聞かされていた。
そうした名物教授が晶文社の創業者ということで、晶文社の本は特別輝いて見える存在であったのだ。
この本はそんな流れを汲んでおり、70年代の匂いをそこはかとなく身に纏っている。
それがこちらのアンテナに引っかかり、手に取ることになったわけである。

岡崎武志の本を読むのは「上京する文学」に続いて、これが2冊目。
「上京する文学」も面白かったが、こちらも負けずに面白い。
それは岡崎武志の書く内容や関心の持ち方などが、私の趣味嗜好と合致する部分が多いからで、また年齢が近いということも大きいのかもしれない。
同じ時代を生き、そのなかで似たような感性を育んだということか。
とにかくこの本を読んでいると、共感する部分が多い。
またコアな情報も多く、そうしたものを見つけると、ひとりほくそ笑んでしまう。
たとえば、いちばん最初に出てくる書評「とにかく生きてゐてみようと考え始める」のなかでは「森崎書店の日々」という映画のことが書いてあり、その映画の「1シーンに出演している。」と書いている。
地味な映画で、あまり採り上げられることのない映画だが、神田神保町の古本屋街が舞台になっていることから、古書マニアの著者にお呼びがかかったのだろう。
もうそれだけで、嬉しくなり、この本に親しみが沸くのである。
また著者が10数年書き続けているブログから採録した「今日までそして明日から」という章では、「タブレット純」についてのコラムが出てくる。
そこには「出てくる時は出てくるもんである。新しい才能が。」という書き出しで、次のように書いている。
<その時、脇に座ってニコニコ笑っていたのが、驚異のレコードコレクターで歌手として登場していたタブレット純というタレント。ボクは初めて見たが、「何とな!」と叫びたくなる、異端の存在であった。ちょっと、話題が飛び出すと、まあ、次から次へと、超希少なレコードが、テーブルの下から出てくる出てくる。すべて自分のコレクションだという。すごいものを見た、という印象である。
 しかもタブレット純は、この手の蒐集家にありがちな、鼻をふくらませて「どうだ!」と言いたげな風情がまったくなく、持ってきたレコードも、申し訳なさそうに出す。ビジュアルはGS時代を思わせる金髪長髪、喋りはオネエ系である(あとで、本当にそうだと知る。)アルフィーの高見沢と二人並ぶ姿を想像すると、目が眩む。出てくる音楽の小ネタも情報として正確で、見飽きない。今後が楽しみな逸材、だと認識したのだった。>
実は私も以前からタブレット純のことは注目して見ていたので、これを読んでわが意を得たりとまた嬉しくなってしまったのである。
まさに「見ている人は、見ているもんである。」

この他にも「ダンテ」、「こけし屋」、「ファンキー」、「いもや」といった昔懐かしい名前の店が出てきたのも嬉しいことのひとつ。
「ダンテ」と「こけし屋」は、40数年前、西荻窪に住んでいた頃に、よく通った店である。
とくに「ダンテ」は、知り合う前の家内が毎日のように通っていた店で、家内と知り合ったとき、最初に連れていかれたのがこの喫茶店であった。
10坪にも満たない小さな店で、ジャズ喫茶というわけではないが、いつも静かにジャズが流れていた。
そして美味しいコーヒーを飲ませてくれる。
隠れた名店である。
いっぽう「こけし屋」は「ダンテ」のような小さな店ではなく、3階まである洋菓子兼レストランである。
創業昭和24年の老舗で、近隣の文化人たちが足繁く訪れた店である。
よく知られたところでは、浜田山に住んでいた松本清張がしばしば来店、食事の後はここで小説を執筆していたこともあったそうだ。
また井伏鱒二、丹羽文雄、金田一京助、棟方志功、東郷青児、徳川夢声、開高健などが集う会がこの店にあった。
そんな文化の匂いを今も残しており、本書ではここで「西荻ブックマーク」のトークショーが開かれたと書かれている。
こうした店が「中央線文化」の一翼を担っているのである。
両店とも西荻窪の駅前にあり、今も昔と変わらず健在なのが頼もしい。

「ファンキー」は吉祥寺駅前にあるジャズ喫茶、そして「いもや」は神保町にある天ぷらの店。
どちらも昔通った馴染の店だが、とくに「いもや」は安くてうまい天ぷらを出す店で、貧乏学生にとってはありがたい店であった。
「八人で満員ぐらいの小ぶりの店」で、行くと必ず長い行列に並んだものだ。

このほかにも旅や街歩きのさまざまな記述があり、情報満載。
なかでも古書店についての情報は詳細を極めている。
東京に限らず各地の古本屋を巡り、行く先々で珍本、希少本を探す。
また古本に限らず、古書店主やスタッフなどにも顔なじみが多く、そのため業界の裏話にも深く通じている。
古本や古書店についての著書を、数多く出している著者ならではの世界である。

このように盛りだくさんの内容に、時間を忘れて読み耽った。
どこを開いても興味深く、どこから読んでも面白い。
また著者自身が描いた和田誠風のイラストや写真も彩りを添えており、それを眺めるのも愉しい。
だからこそ「ヴァラエティブック」なのである。


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑

テーマ : 図書館で借りた本  ジャンル : 本・雑誌


Category: 読書

Tags: エッセイ・評論  五木寛之  

Comment (0)  Trackback (0)

五木寛之「孤独のすすめ」

kodokunosusume.jpg

老いについて考え続ける作家、五木寛之の新刊本である。
ベストセラーなので図書館での予約待ちが多かったが、ようやく順番が回ってきた。

以前読んだ「下山の思想」、「林住期」、「新老人の思想」などと共通する内容だ。
人生100年時代を迎える今、<最後の季節を憂鬱に捉えるのではなく、おだやかに、ごく自然に現実を認め、愁いをしみじみと味わう。こうした境地は、まさに高齢者ならではの甘美な時間>ではないかと問う。
そしてそのためにはどうすればいいか。
人生をシフトダウンして生きること、すなわち下山の方法を、様々な角度から説いていく。
そこから「人生後半の生き方」についての、ささやかなヒントが浮かび上がってくる。
目新しくはないが、共感するところが多く、提言のひとつひとつに頷きながら読んでいった。
五木寛之が、老いの生活の中で実感した考えだけに、説得力がある。
これまで読んだ本の内容を思い出しながら読んだ。
おさらいをするような読書であった。

本の最後に、この本の内容を集約するような文章があったので、それを書いておく。

 誰でも生きていれば、つらいことや、嫌なことは山ほどあります。しかしそういう記憶は、抽斗の中にしまったままにしておいたほうがいい。落ち込んでいる時、弱っている時は、なんともいえないバカバカしい話が逆に力になることがある。賢人の格言より、思想家の名言より、生活の中のどうでもいいような些細な記憶のほうが、案外自分を癒してくれるのです。
 しかも歳を重ねれば重ねるほど、長年生きた分、そうした思い出の数は増えていくはずです。いわば頭の中に、無限の宝の山を抱えているようなもの。そうした日常生活の中でちょっとした出会いや思い出を記憶のノートにしっかり記しておいて、ときどき引き出して”発掘””発見”するのは、下山の時期を豊かにするためのいい処方箋です。そのためにも、「回復力」をしっかり育てたいものです。「玄冬」のさ中にあって、ぼんやりとそんなことを思っているのです。




にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑

テーマ : 図書館で借りた本  ジャンル : 本・雑誌


Category: 読書

Tags: エッセイ・評論  

Comment (0)  Trackback (0)

山崎努「柔らかな犀の角―山崎努の読書日記」

yawarakanasai.jpg

名優・山崎努がこれほどの読書家だったとは知らなかった。
さらにこれほどの名文家だったということも。
演技同様その文章には滋味があり、融通無碍、ときにユーモアが交じる。
本の感想に留まらず、それを踏み台にして自らの演技や人生について語っていく。
そのエピソードのすべてが面白く、含蓄ある文章に頷かされる。
永い俳優生活の中で培った見識の高さは並ではない。
読み終えてしまうのが、もったいない。
傍に置き、繰り返し読みたくなる本である。

こんなふうに書けたらいいなと思うが、とても無理。
人生経験が違う、人間の出来が違う。器が違う。
その差は如何ともしがたい。
とてもこうは書けない。
一芸に秀でた人間というのは、やはり何をやっても一流のことをやるものだとあらためて認識せられた。

ところで山崎努は、今度映画で彼が敬愛してやまない、画家・熊谷守一を演じるそうだ。
熊谷守一は97歳で逝去した伝説の画家で、「画壇の仙人」と呼ばれた人だ。
この本のなかでも藤森武写真集『獨樂 熊谷守一の世界』を採り上げて、その人となりを紹介しているが、30年以上も家の外に出ることなく、庭の動植物を描き続けたという異色の画家である。
山崎努にとっては、どうやら理想の人物のようだ。
その人を演じるという。
おそらくこの本同様、融通無碍な演技を見せてくれることだろう。
ぜひ観てみたい。今から期待に胸膨らませている。


にほんブログ村 本ブログへ 
↑ クリック、お願いします。 ↑

テーマ : 図書館で借りた本  ジャンル : 本・雑誌


カレンダー
07 | 2018/08 | 09
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
プロフィール

cooldaddy

Author:cooldaddy
住んでいるところ:青森県弘前市
出身地:香川県
年齢:今年(2018年)70歳です。
性別:男

還暦(10年前)という節目を迎え、何か新しいことを始めようとブログを開設しました。
趣味のこと、生活のこと、心に残ったことなど、My Favorite thingsを、気ままに書いていこうと思います。
末永くおつき合いください。

映画サイト「マイ・シネマ館」もやっています。
こちらもよろしく。

ランキングサイトに参加しています。
もしよければクリック、お願いします。↓
ブログランキング・にほんブログ村へ 

月別アーカイブ
cooldaddyの本棚
FC2ブログランキング
ブログ内検索
QRコード
QRコード

1234567891011121314151617181920212223242526272829303108 2018