風に吹かれて

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Category: 外国映画

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映画「フランス組曲」

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1940年、第二次世界大戦下のフランス。
ナチスによってパリが陥落、さらにその侵攻の鉾先は地方にも及び、フランス中部に位置する街ビュシーもナチスによって占拠される。
そこに住むヒロインのリュシルは、大地主の姑アンジェリ夫人とともにフランス軍の兵士として出兵した夫の帰りを待っている。
厳格で気難しく、小作人に対する態度も容赦のない姑との生活は陰鬱なものでしかない。
自分を押し殺しての毎日である。
その邸宅にナチの将校ブルーノが宿舎として住むことになる。
ブルーノは作曲家でピアニストである。
彼は夜ごとリュシルのピアノを弾くようになる。
微かに聴こえてくるその曲は、聴いたことのない曲であった。
その曲にリュシルの心が癒されていく。
やがてこの曲はブルーノが作曲した「フランス組曲」ということを彼から教えられる。
それがこの映画の題名である。

敵対する相手ということで一定の距離を置いていたリュシルだが、次第にブルーノに関心を覚えるようになっていく。
やがてそれが道ならぬ恋となっていくのである。
ふたりが愛し合うということは、同胞からすれば裏切り者ということになる。
先には悲劇だけしか見えない望みのない恋である。
それでも互いに惹かれてゆく姿が切なくもあり、スリリングでもある。
カーテン越しに相手の姿を見つめたり、ドアの隙間から隠れ見するようなショットが繰り返されるのは、そうした恋の危うさを表しているからである。

ヒロインのリュシルを演じるのは、ミシェル・ウィリアムズ。
けっして美人というわけではないが、控えめな中に意志の強さや情熱を秘めており魅力的。
穏やかなブルーノが惹かれるのがよく分かる。
そしてブルーノを演じるのがマティアス・スーナールツ。
以前観た「リリーのすべて」で、主人公の幼馴染の画商を演じていたのが印象に残った俳優であるが、ここでもまた新たな魅力を見せている。

この映画はアウシュビッツで亡くなったイレーヌ・ネミロフスキーの未完の小説を映画化したものである。
この小説は60年間開けられることのなかったトランクの中に眠っていたもので、それを彼女の娘が母親のためにと発表したものである。
そして出版されるや一躍ベストセラーとなった。
それを出版後10年を経て映画化されたのがこの作品である。
こうした事実はタイトルバックを見て初めて知ったことだが、それを知ることでこの映画がまた一段と深い彩りを帯びて見えてきた。

映画の中でパリから逃れてきたユダヤ人母子が出てくるが、おそらくこれがネミロフスキー母子なのだろうと思う。
ユダヤ人であることを隠していたが、最後は見つかり、収容所送りとなってしまう。
だが幼い娘だけは逃れることができ、アンジェリ夫人の邸にかくまわれることになる。
そうした添景として挟み込まれたエピソードが、この映画のさらなる悲劇性を高める要素になっている。


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Category: 外国映画

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映画「最愛の子」

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中国では毎年数多くの幼児誘拐事件が発生、大きな社会問題となっている。
背景にあるのは、1979年から始まった「一人っ子政策」である。
急激な人口増加を緩和するために中国政府が行った抑制策である。
この政策により、原則として子供は1人に制限され、違反した場合は罰金が科せられることになった。
そのため働き手や跡継ぎとなる男児の価値がよりいっそう高まり、養子をとるケースが増えていった。
その結果、非合法な人身売買市場が生まれ、誘拐事件が多発するようになったのである。
さらに幼児誘拐事件の裏には、現代中国が抱え持つ様々な問題が絡まっており、問題解決のためには多くの難問をクリアしなければならないという現実が大きく横たわっている。
その絡まった糸をひとつひとつ根気強く丁寧にほぐしていく様を、誘拐された親と、我が子として育てる母親の、両方の姿を通して浮き彫りにしていくのが、この映画である。
トップシーンに現れる裏路地の頭上で複雑に絡み合った電線は、これから始まる物語の複雑さを暗示している。
簡単にシロクロをつけられるといった問題ではない。
何が正義で何が悪か、判断に迷うことになる。
日本ではとうてい考えられないような深刻な社会問題が、ドキュメンタリーのようなリアルさで描かれていく。
近くて遠い現代中国、その複雑に歪んだ断面を真正面から切り取った力作に、時に言葉を失い、涙を誘われたのである。

監督は「あなたがいれば 金枝玉葉」「ラヴソング」といった90年代の香港映画で知られるベテラン、ピーター・チャン。
久々のこの映画で、いまだ健在というところを存分に見せてくれたのである。


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Category: 日本映画

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映画「起終点駅 ターミナル」

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桜木紫乃の小説、初の映画化作品である。
先日桜木紫乃の「氷平線」を読んだ後、彼女のことを調べているなかで、この映画の存在を知ったのである。
さっそく借りてきた。

主演は佐藤浩市。
ひとり暮しの初老の弁護士、鷲田完治を演じている。
20年前には新進の裁判官だったが、ある事情から裁判官をやめ、今は国選弁護しか引き受けない弁護士として、ひっそりと生きている。
そんな彼の元に弁護を担当した若い女性が、頼みごとと称して訪ねてくるが、仕事以外での人との関わり合いを極力さけようとする鷲田は、その依頼を受けようとはしない。
しかし心ならずも彼女と深く関わることとなり、そのことがきかけとなって新しい一歩を踏み出していこうとする。

舞台は桜木紫乃の地元である釧路。
その雪景色のなかに人生を早々と降りてしまった孤独な男として佐藤浩市が立つと、もうそれだけでふつふつと悲しみが滲み出してくる。
こういうシチュエーションで真っ先に思い出されるのは、高倉健である。
しかし彼がいない今、佐藤浩市はそれを表現できる数少ない俳優のひとりであろう。
そしてこの映画はまさに彼あってこその映画でもある。
罪の意識を抱え、まるで自分を罰するようにひたすら自分を抑えて生きる男のたたずまいを見ているだけで、胸が熱くなってくる。
映画としては、いくつか疑問を呈したくなる部分がなきにしもあらずだが、佐藤浩市の抑えた演技を味わえただけで大満足であった。


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島田雅彦「ニッチを探して」

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ニッチ(Niche)とは「隙間」や「くぼみ」のこと。
もともとは古代ローマ時代の建築で造られた、花瓶や彫刻などを置くためのくぼみのことであったが、現在ではビジネス用語として使われることが多い。
また生物の「生息域」という意味でも使われることがあり、そのことについて小説では次のように書いている。

<地球上には生物の多様な生息環境があり、それぞれの生息に適した場所を占める。その場所もしくは条件を「ニッチ」と呼ぶ。草原、山林、砂漠、海、地中、空などの諸環境の違いはもとより、寒冷地を好むか、熱帯を好むかの気象帯の違い、昼行性か、夜行性かの行動時間帯の違いによって、生物は棲み分けを行っている。>
そして
<生物界に起きることは人にも当てはまるし、多くの都市でも見られる。都市生活者たちは誰しも自分に適ったニッチを見出し、ハッピーに暮らしたがっているが、誰もが似たような欲望を追求し、同じような生活スタイルを求めるので、競争が激しい。しかし、多少好みをずらせば、まだまだ空きニッチはある。元のニッチを追い出された人も、新たなニッチに潜り込み、別種の生き物に変わり得る。たとえば、環境の変化や排除を受けた者は、移住したり、転職したり、出家したり、ドロップアウトしたり、リセットしたりして、別のニッチに進出しようとする。>

こうした前説の後、物語は始まる。

主人公は某銀行で副支店長をしている藤原道長。
彼がある日突然何の前触れもなく、家族や人々の前から姿を消してしまう。
銀行内で行われている不正融資にからんで、彼に容疑がかけられたことから、身を隠す必要に迫られたからだ。
そこから警察や銀行から逃れながらのホームレス生活が始まることになる。
そしてホームレス初心者の彼が、どのようにして自分なりの「ニッチ」を見い出していくかが描かれるのである。
そのプロセスには、路上生活の手引書といってもいいほどの詳しいノウハウが書かれている。
ひょっとすると作者自身が、こうした生活を実際に体験したのではと思えるほどリアルである。
同時にそこには路上生活者の視点から見た、東京という街の新たな魅力が蘊蓄を交えながら紹介されている。
そうした「ニッチ」探しにつき合うことで、主人公といっしょに様々なことを学んでいくことになる。
謂わば一種の街歩きの書でもある。

これを読みながら思い出したのは、子供の頃、夢中になって読んだロビンソンクルーソーの物語である。
知恵と勇気を振り絞り、無人島生活を生き延びていったロビンソンクルーソーの姿に重なるものを見たのである。
そしてその時に味わったのと同じようなスリルと面白さを、この小説でも味わったのである。
現代のロビンソンクルーソーは無人島ではなく、都市生活のなかで生きている。

ちなみにこの小説も、先日読んだ川本三郎の「物語の向こうに時代が見える」で知った小説である。


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Category: 弘前

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桜の剪定枝の配布

今日から彼岸の入りである。
昨日から岩木山ではスカイラインの除雪が始まった。
また市内の多くの学校では卒業式も行われるなど、春の訪れを感じさせる話題が聞こえてくる。
今年は雪が多く、今でも積雪は66センチと平年の倍近い量だ。
それでも春は確実に近づいている。

そんななか今日弘前公園の桜の剪定枝の配布が行われた。
配布開始が8時半ということなので、少し早めに家を出て、8時には配布場所である緑の相談所に着いたが、もうすでに40人ほどが並んでいる。
その列に並んだが、そのあともつぎつぎと集まり、配布開始時間になると100人近い行列になっていた。

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待つこと数分で順番がやって来た。
配布はひとり3本までと決められている。
枝ぶりのいいのを選んで持ち帰った。

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さっそく花瓶に挿した。
蕾はまだまだ小さい。
それでも花が開くのは、公園の桜よりはかなり早い。
ひと足先に桜の花を楽しめる。
咲くのが今から待ち遠しい。



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桜木紫乃「氷平線」

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川本三郎の「物語の向こうに時代が見える」のなかで、

< 桜木紫乃の第一作品集「氷平線」をはじめて読んだ時の新鮮な驚き、感動は強いものがあった。北海道の寒々とした風景にも、確かに、子供の自分が見た風景とつながるものがあった。
 年齢から言って新しい作家のものを読むのはもう無理とあきらめていた時に、桜木紫乃の作品に出会って、現代の小説に引き戻された。 >

と書いており、この評論集のなかで彼女についての評論を3つも書いている。
他の作家はすべてひとつだけというなかにあって、これは異例のこと。
いかに彼女の作品に肩入れしているかが窺える。
桜木紫乃の小説は読んだことがないが、これを読むと興味を持たざるをえなくなる。
どこがそれほど惹きつけるのか、さっそく「氷平線」を読んでみた。

収録されているのは、「雪虫」「霧繭」「夏の稜線」「海に帰る」「水の棺」「氷平線」の6篇。
いずれも北海道オホーツク海沿いの町を舞台にした物語である。
釧路市生まれの作者にとっては地元である。
この短編集について、出版元である文芸春秋社の担当編集者は次のように書いている。

< 桜木作品の読みどころはふたつ。ひとつは、北海道の道東を舞台とし、普通の田舎町とは一味違う渇いた閉塞感を見事に描いていること。もうひとつは、北の大地の生活感あふれる性を描いていること。跡継ぎを作る重圧、ムラの男に身体を売って生活する女性、フィリピンから嫁として買われた少女、牧草の上での性行為など、『楢山節考』を髣髴させるような、陰々とした中にもある種の明るさと諦念が漂う北の大地の現実が活写されている。 >

さらに川本三郎は
< 寂れ、すたれてゆく町。しかし、桜木紫乃は決してその町を、そこに住む人々を見捨てない。彼らのいまをクールに距離を取りながら、しかし、あくまでも切実にとらえてゆく。「氷平線」「雪虫」「凍原」と寒々とした言葉がこの作家を通して身近に思えてくる。 >

そして
< 主人公の多くは格差社会の現代の片隅に生きている。華やかな表通りから一歩奥に入った裏通りでひっそりと生きている。桜木紫乃はそうした人間たちこそを主人公にする。 >

印象に残ったのは冒頭の「雪虫」。
これがデビュー作であり、オール讀物新人賞受賞作でもある。
嫁の来てのない息子のためにと、父親が強引に話を進め、やって来たフィリピン人の18歳の少女。
今は人妻となっている幼馴染の恋人との束の間の逢瀬を続けている男にとって、強引にお膳立てされただけのフィリピン人妻の存在は煩わしいだけである。
いつまでも無視し続けるが、生きるために買われてきた中学生のようなフィリピーナの嫁マリーと暮らすうち、「自分しか頼る人間のいない場所で、少女が不幸になるのだけは嫌だと思った。」
そして「出来る限りマリーが幸福であることを祈」るようになってゆく。
逃れようがなく先の見通せない生活のなかで、次第に少女に心を寄せるようになる姿が、確かな表現によって刻み込まれてゆく。
切ない中にも人と人との出会いや結びつきの不思議さ、やるせなさを、しみじみと感じた。
そして川本三郎が惹かれる理由の一端を、少しだけ垣間見ることができたような気がしたのである。


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佐藤愛子「九十歳。何がめでたい」

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大正12年生まれ、九十歳を越えた作家、佐藤愛子が書いたベストセラー。
図書館で予約したのがいつだったか、忘れてしまうほど長く待たされたが、ようやく順番がまわってきて借りることができた。

女性セブンに連載されたエッセイをまとめたものである。
2014年に始まった連載だが、、当時彼女は作家生活の集大成として長編小説『晩鐘』を書き上げたばかりで、これを最後に筆を断ち、のんびりと生活しようとしたところ。
「書くべきことは書きつくして、もう空っぽになりました。作家としての私は、これで幕が下りた」という心境であった。
ところがその「のんびりとした生活」のせいで、やることがなくなると、とたんに老人性ウツ病のような状態になってしまった。
そんなとき、この連載の依頼が舞い込んだのである。
そして
<この秋には九十三歳になる私には、もうひとに勇気を与える力はなくなりました。なくなった力をふるい起すために、しばしば私はヤケクソにならなければなりませんでした。ヤケクソの力で連載はつづき、そのおかげで、脳細胞の錆はいくらか削れてなくなりかけていた力が戻って来たと思います。人間は「のんびりしよう」なんて考えてはダメだということが、九十歳を過ぎてよくわかりました。>
という結論に至ったのである。

ヤケクソで書いたエッセイは怒りや嘆き、毒舌のオンパレード。
少々八つ当たり気味のところがなきにしもあらずだが、一本筋が通っているだけに思わず納得、艱難辛苦を乗り越え、満身創痍の人生を生きてきた人ならではの強さである。
そうしたヤケクソぶりは、本書の題名を見れば一目瞭然。
いかにも佐藤愛子らしい意表を突く題名である。
このインパクトのある題名にひかれて、本書を手に取った人も多いのではなかろうか。
この題名は連載が始まったとき、すでに考えていたそうで、本書の最初のエッセイ「こみ上げる憤怒の孤独」のなかでも、
<「九十といえば卒寿というんですか。まあ!(感きわまった感嘆詞)おめでとうございます。白寿を目ざしてどうか頑張って下さいませ」満面の笑みと共にそんな挨拶をされると、「はあ・・・・ありがとうございます・・・・」これも浮世の義理、と思ってそう答えはするけれど内心は、「卒寿?ナニがめでてえ!」と思っている。>
と書いている。
始まりから、もうすでに愛子節炸裂である。
しかし、そうはいってもそこはやはり九十歳。
最後は
<讀者の皆さま、有難う。ここで休ませていただくのは、闘うべき矢玉(やだま)が盡(つ)きたからです。決してのんびりしたいからではありませんよ。>
となる。
それでいてそれが弱音を吐いたようには聞こえない。
まだまだ余力を残しているように感じるのは、やはり佐藤愛子という作家の魅力ゆえのことであろうと思う。


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黒井千次「高く手を振る日」

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先日読んだ川本三郎の「物語の向こうに時代が見える」のなかでとりあげられていた小説である。
そのなかで <この小説の主人公、嶺村浩平は七十代。大学時代、ゼミが同じだった女性と何十年ぶりかで再会し、恋らしきものをするが、結局は・・・・と老いの悲しみがにじみ出た小説になっている。といって決して湿っぽくはない。自分の老いを客観視しようという適度の距離感があり、それが軽いユーモアを生むし、ゆとりも感じさせる。>と書かれた一文にひかれて読んでみた。

ほのぼのとした小説である。
「老いらくの恋」ではあるが、ある部分では青春真っ只中の少年の恋となんら変わるところがない。
ときめきや恥じらい、狼狽や戸惑い、逸る心がある。
瑞々しい。
恋に年齢は関係ないということだ。
それでもやはりそこには老いた者としての慎みがある。
自分の正直な気持ちを抑え込もうとする力が働いている。
いっぽう、それに抗おうとするもうひとりの自分がいる。
そうした揺れる気持ちを、川本三郎は<「まだ若い」と「もう若くない」のあいだ>と書いている。
そしてそんな心の動きが、老いの独居生活のなかで感じる「行き止まり」感に風穴をあける力にもなっている。
娘がケイタイを持つことをしきりに勧めても頑なに拒んでいたのに、重子(恋の相手)に勧められるとそれまでの態度を変え、すぐにケイタイを使い始めるというのもその表れである。
新しい世界へと一歩を踏み出していく。
するとその先に思いがけない風景が広がっている。
古ぼけた日常が、俄然輝いたものに見えてくる。
だがその輝きは、まさに一瞬のものでしかない。
そのことは誰よりも主人公自身がよく判っている。
そしてその予感通りの結末を迎えることになるが、そこに悲しみはなく、「行き止まり」ではない日々が始まる気配を残して物語は終わる。

主人公はある日散歩の途中で、道に落ちていた葡萄の枝を拾う。
持ち帰って試しにコップの水に浸けていたところ、新しい枝が伸び始める。
さらにそれを庭に移植する。
大して期待もせずにいたが、次第にその葡萄の木のことが心の中で大きな位置を占めるようになっていく。
そうした何気ないエピソードを挟みこむことで、老いの日々の描写に淡い色どりと変化を与えており、これからの生活も暗示させている。

人生の最晩年に思いがけず訪れた心泡立つ日々、それが抑えた筆致で淡々と描かれて、静かな感動がある。

黒井千次には「老いのかたち」「老いの味わい」をはじめとした「老い」に関するエッセイや小説が数多くあるようだ。
これをきっかけに次はそうしたものも読んでみようかなと思っている。


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Tags: 川本三郎  エッセイ・評論  

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川本三郎「物語の向こうに時代が見える」

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川本三郎のおそらく最新の単行本であろうと思う。
図書館で予約しておいたが、短期間で借りることができた。
どちらかといえば地味な部類に属するこうした評論集は、新刊であってもあまり待たずに借りることができるのでありがたい。

今回の評論は映画ではなく、文芸評論である。
題名からも判るように、小説のなかから今という時代を読み解こうとするものだ。
とりあげた小説は24編、いずれも読み巧者である川本の目にかなった作家ばかりだが、そのなかに乙川優三郎、角田光代、車谷長吉、佐藤泰志、水村美苗といった好きな作家の名前があるのがうれしい。
なかでも先日読んだばかりの乙川優三郎と水村美苗がとりあげられているのが、偶然とはいえ格別うれしい。
その評論が身近なものとして頭に入ってくる。
逆に知らない作家や馴染のない作家のものは、興味深く、いちど読んでみたいと思うようになってくる。
ちなみに知らない作家のなかに平岡敏夫という人がいる。
香川県仲多度郡広島村(現丸亀市)生まれである。
広島というのは瀬戸内海に浮かぶ塩飽諸島のひとつ。
同じ郷土出身者にこういう人がいることを初めて知った。
これもこの本を読んだ収穫のひとつ。
こういうところにまで目が行き届いているのである。
改めて守備範囲の広さを認識させられた。
そしていつもながら巧みな読み解きに、唸らせられ、何度も頷きながら読み進んでいった。

たとえばそれは<自分の故郷、土地、場所を持っている作家は強い。その町を文学の生まれるところと思い定めて、静かに町に暮らし、作品を生み出していく。>といった書き出しではじまる「『鳥たちの河口』とミステリと」と題された野呂邦暢論の次のような文章。

<諫早に住んだからといって野呂邦暢は、郷土作家とは少し違う。代々、そこに根を下ろしていたわけではないし、土地の人間と濃い関係を作ろうとしたわけではない。当初は、経済的事情さえ許せば東京に出たいという気持ちもあったようだ。
 それが次第に諫早に落ち着くようになった。町の中心を本明川が流れ、それが有明海へと注ぐ。河口には茫漠たる干潟が広がる。その町の風景に心惹かれていった。
 土着の作家とは違う。いわば他所者である。他人の目で町を見る。第三者の視点で町の風景を見る。観察する。野呂邦暢は諫早の町にあっていつもアウトサイダーの位置に自分を置いた。他所者として生きる。そこから見えてくる風景を心にとめてゆく。そこに野呂邦暢の新しさ、面白さがあった。>

いかにも川本三郎好みの作家である。
こういう表現を読んでいるだけで、ドキドキと心拍数が上がってくる。
ぜひその小説を読んでみたいという気持ちにさせられる。
そしてそれを読んだ後、もういちどこの本を読み返してみようと思うのである。
いい本に巡り合えた。


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テーマ : 図書館で借りた本  ジャンル : 本・雑誌


Category: 日本映画

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映画「バクマン」

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かつてマンガ少年だった。
小学生の頃の愛読書は月刊マンガ雑誌「少年」。
その他にも「少年クラブ」「冒険王」「少年画報」「少年ブック」「ぼくら」といった月刊誌があり、手塚治虫をはじめ横山光輝、竹内つなよし、桑田次郎、関谷ひさし、ちばてつや、石ノ森章太郎といった漫画家たちのマンガを夢中になって読んでいた。
やがて月刊誌は衰退をはじめ、それに代わって登場したのが、「週刊少年サンデー」と「週刊少年マガジン」。
昭和34年(1959年)のことである。
またそれらの陰でひっそりと存在していたのが貸本マンガ。
そこで出会った白土三平、さいとうたかお、小島剛夕、辰巳ヨシヒロ、池上遼一、平田弘史といった漫画家たち。
ちなみに「劇画」という言葉はこの貸本マンガから生まれたものだ。
そしてその貸本マンガが、後の「ガロ」へと引き継がれていく。
60年代、70年代のことである。
そこまでが自分のマンガとの付き合いである。
以後あまり読むこともなく、今に至っている。
そういうわけで現在のマンガ界の状況やマンガについての知識はなく、まったくの門外漢である。

そこでこの映画である。
舞台になるのは、週刊少年ジャンプの編集部である。
少年ジャンプの創刊は1968年。
「少年サンデー」や「少年マガジン」に遅れて創刊されたが、次第に部数を伸ばし、やがて600万部を超えるほどの雑誌に育っていった。
当然のことながらこの雑誌に馴染はない。
調べたところその特徴は、次のようなもの。
対象とする主な読者層は、小学校高学年から高校生。
キーワードは「友情」「努力」「勝利」。
掲載するすべての作品に、このテーマに繋がるものを、必ずひとつ入れることが編集方針になっている。
またもうひとつの大きな特徴としては、「アンケート至上主義」がある。
読者から寄せられるアンケートを最重要視しており、それを参考に編集の方針を決めていく。
そしてアンケートの人気投票の結果が悪ければ、即打ち切りということを大前提としている。
当然激しい生存競争が毎週のように繰り広げられるわけで、映画でもそれがストーリーの大きな柱になっている。
その弱肉強食の洗礼を浴びながら、マンガ家の世界に足を踏み入れた高校生ふたりが必死になって頂点を目指そうとする姿が、コミカルかつ熱気あふれるスタイルで描かれていく。
これまでにも「トキワ壮の青春」や「黄色い涙」といったマンガ家を主人公にした映画はいくつかあったが、そのどれとも違って、様々な映像を駆使することで動きのあるダイナミックなエンターテインメントとなっており、大いに楽しませてくれる。
またマンガが出来上がるまでのプロセスや、業界内部の仕事の仕組みといったバックグラウンドも、かつてのマンガ少年としては興味津々であった。

監督は大根仁(ひとし)。
「モテキ」で見せた切れの良さが、ここでも如何なく発揮されている。
実はこの映画を観たのは、監督が大根仁ということが決め手であったが、その選択に間違いはなかった。
また俳優陣も適役ぞろい。
主役ふたりの高校生役の佐藤健と神木隆之介をはじめ、ライバル役の染谷将太、さらには桐谷健太、新井浩文、皆川猿時といったマンガ家たち。
また佐藤健のおじさんでマンガ家が宮藤官九郎、ジャンプの編集者が山田孝之と編集長がリリー・フランキー。
そして紅一点のマドンナ役が小松菜奈。
こうして並べてみると芝居上手な旬な役者ばかりである。
適材適所で生き生きと演じているのが伝わってくる。
やはりいい映画の俳優は輝いて見える。


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プロフィール

cooldaddy

Author:cooldaddy
住んでいるところ:青森県弘前市
出身地:香川県
年齢:今年(2008年)還暦です。
性別:男

還暦という節目を迎え、何か新しいことを始めようとブログを開設しました。
趣味のこと、生活のこと、心に残ったことなど、My Favorite thingsを、気ままに書いていこうと思います。
末永くおつき合いください。

映画サイト「マイ・シネマ館」もやっています。
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