今日のこと

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今日は久しぶりで朝テニスに行ってきた。
最近は日の出の時間が遅いので、犬の散歩の後にテニスに出かけると、どうしてもプレイする時間が少なくなってしまう。
そういうわけで今月はしばらく足が遠のいていた。
集まったメンバーは9人、8時まで休みなくプレイしたので、時間が短かったわりには結構たくさんゲームができた。
久しぶりのテニスはやはり気持ちがいい。

今日は仕事が休みなので、午前中は庭仕事で時間を費やす。
薪の整理や雪囲いなど、やることはたくさんある。

昼は長女といっしょに昼食をしようと「ジルチ」で待ち合わせるが、残念ながら今日は休業だった。
そこで場所を「アルポルト」に移す。
「アルポルト」でランチをするのは移転後初のことだ。
おいしいランチとデザートのケーキを堪能、例のごとく娘のおごりである。ごちそうさま。いつもいつもありがとう。

昼食後は娘と別れて、少し早いがクリスマスのオーナメント探しに出かける。
ホームセンターで手頃なものを見つけた後は、TSUTAYAへ行ってDVDをレンタル。
ちょうど新入荷したばかりのラッセル・クロウとクリスチャン・ベールの西部劇「3時10分、決断のとき」を見つけた。
これはヒーロー者の西部劇だとばかり思っていたら、人間ドラマの要素をもった中味の濃い西部劇だった。
なかなかの感動ものだった。
西部劇が少なくなった最近の映画界にあって、こういった傑作が生まれたことは特筆すべきことだ。
レビューはいずれ書こうと思う。


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22:37 | 暮らし | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

乙川優三郎「霧の橋」

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先日読んだ「かずら野」に続いて、乙川優三郎の小説「霧の橋」と「五年の梅」を図書館から借りてきた。
まずは「霧の橋」から読んでみた。

これは乙川優三郎初期の長編小説で、1997年度の時代小説大賞を受賞した作品である。
侍の子として生まれた主人公が、父の仇を討つために10年という苦難の歳月を過ごした後に、武士を捨てて商人として生きていく物語である。
そこで巻き起こる商売を巡る陰謀、そして夫婦の間にできた微妙なズレ、さらには武士を捨てたはずが、とことん商人にはなりきれない武士としての残滓に悩むという物語はなかなか読み応えがあった。
「かずら野」で受けた涙を誘うような感動ではないものの、ラストでは同じく感動の場面が用意されている。
終わりよければすべてよし、というわけでもなかろうが、こういった構成は乙川優三郎お得意のパターンなのかもしれない。
しかしこうした終わり方は、やはり爽やかだ。
また別な作品も読んでみたいという気持ちににさせられる。
もう一冊の「五年の梅」を、読むのが楽しみだ。


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13:04 | 読書 | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

今が旬

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近所の農家がやっている無人販売所から柿を買ってきました。
写真の6個でなんと100円です。
安い!
柿は毎日並ぶわけではないので、見逃さないようにできるだけチェックをしています。
前回買ったのが、ちょうどなくなったところだったので、タイムリーでした。

「柿が赤くなると医者が青くなる」といわれるように、柿は栄養価の高い果物です。
とくにビタミンCが豊富なので風邪の予防には効果を発揮しそうです。
また「医者要らず」といわれるリンゴも今が旬です。
柿とリンゴを毎日食べて寒い冬に備えるゾ!


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08:53 | 美味しいもの | comments (2) | trackbacks (0) | edit | page top↑

乙川優三郎「かずら野」

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久しぶりで時代小説を読みたくなって図書館から借りてきたのが、乙川優三郎の「かずら野」という小説。
夕方から読み始めたが、おもしろさについ寝るのも忘れて読み続け、深夜に読了、感動を引きずりながら眠りに就いた。

あらすじは貧しい足軽の娘、菊子が大店に奉公に出されるが、実はそれが主人の妾となることだと知って絶望、死を覚悟するが、そこへ主人の息子、富治が現れて父親を殺害、居合わせた菊子を連れて出奔する。
以後身を隠しながらの流浪の生活が始まる、というもの。
芯が強く、地道に生きようとする菊子と、現実を直視せずに愚行を繰り返す富治のかみ合わない10数年の逃避行が歯がゆくもあるが、絶望のなかで菊子が何度も立ち上がろうとする姿には魅せられた。
貧しい足軽の娘菊子と裕福な商家で育った富治の溝はどこまで行っても遠く、けっして埋められることはない。
行く先々で、その土地に根づこうと努める菊子だが、それが実を結びそうになると、富治の浅はかな行動によっていつも壊されてしまう。
悲運はどこまで行ってもふたりについてまわる。
だがどんな目にあおうとも菊子は富治と別れようとはしない。
そのあたりの揺れ動く心理の綾には説得力がある。
苛立ちながらもつい納得してしまう。
また富治の弱さから来る焦りやあがきも、けっして理解できないわけではない。
そして流浪の果てに辿り着いた終の場所、銚子の漁場で迎える思いがけない結末には、感動で涙を誘われてしまった。
菊子とともに耐え忍んできた苛立ちが、ここへ来ていっきに解放されて、カタルシスを味わえる。
作者の綿密な計算に、心地よく嵌ってしまったということだ。
そして悲しいはずの結末ではあるが、悲しみだけではない清々しさも同時に感じた。
おそらくそれは菊子のどんな境遇に立たされても、けっして音を挙げない潔さを感じるがゆえのことだと思う。
久々に時代小説で涙を流した。


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13:51 | 読書 | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

車谷長吉「鹽壺の匙」

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芸術選奨の新人賞と三島由紀夫賞をとった車谷長吉の初期短編集「鹽壺の匙(しおつぼのさじ)」を読了。
「なんまんだあ絵」「白桃」「愚か者」「萬蔵の場合」「吃りの父が歌った軍歌」そして表題作である「鹽壷の匙」の6篇が収録されている。
いつだったか車谷長吉の「生が破綻した時に、ほんとうの人生が見えてくる」といった意味の言葉を読んだことがあったが、これらの短編も、破綻、もしくは破綻の兆しを見せている人たちの物語である。
闇の高利貸しだった祖母、発狂した父、首を縊った叔父、自らの半生や家族、周辺の人たちのことを露悪的とも思えるほど容赦なく書きたて、「書くことのむごさ」を小説にする車谷長吉の、業の深さ、背負った荷物の重さを垣間見るようであった。
「人が人であることの悲しみみたいなものを書きたい」と言う車谷長吉の思いが、伝わってくる。
そして毒気がボディブローのように効いてくる。


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08:59 | 読書 | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

映画「おとうと」

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夜中に目が醒めて、なかなか眠れないので、先日録画しておいた映画「おとうと」を観ることにしました。
この映画は、リアルタイムではありませんが、20年ほど前に観て感動した映画です。
いわゆる「銀残し」というフィルム処理を、映画史上初めて行ったことでも知られる映画です。
それはこの映画を撮るにあたって市川崑監督が、映画の舞台背景になっている大正時代の空気感(色のない色)を出したいということで、宮川一夫カメラマンに相談したことから生み出された手法でした。
まず撮影に際しては、カラー撮影用の強い照明ではなく、白黒撮影用の照明を使って撮影をします。
次にそのフィルムを現像する際に、フィルム上の銀を取り除く一般的な処理はせずに、銀を残します。
そうすることによって彩度の低い、渋い色調のカラーになり、暗部が暗くコントラストの強い画面ができあがるのです。
その結果「おとうと」は白黒ともカラーとも異なった、古い写真を思わせるような独特の色彩の映像をもった映画になったのです。
しかし現在残されているネガフィルムは劣化が激しく、当時の映像とは、かなり違ったものになっています。
そこで今回、再放送にあたって、上映当時の映像にできるだけ近づけようと、さまざまな試みが行われ、その結果、オリジナルに近いものを再現することができたそうです。
それを観た感想をいえば、大正時代という古い時代の雰囲気や、日本家屋の暗さがうまく表現されており、独特の情緒とリアリティーが生み出されていると感じました。
そして光と陰の美しさ、構図の斬新さに魅了されてしまいました。

「おとうと」は1960年に公開された映画です。
原作は幸田文、監督市川崑、脚本水木洋子、撮影宮川一夫、音楽芥川也寸志、出演岸恵子、川口浩、森雅之、田中絹代、というもので、日本映画黄金期ならではの顔ぶれです。
その顔ぶれを見ただけでゾクゾクしてしまいます。
ちなみにこの映画ができるまでの経緯をちょっと書いてみると、まず水木洋子が書いたシナリオが雑誌「シナリオ」に掲載されたところから始まりました。
それを読んだ市川監督が映画化を切望しましたが、企画は松竹、東京映画へと移ってしまったために、自らの手で映画化することは難しくなり、なかば諦めてしまいました。
その後、紆余曲折を経たものの、結局どの会社でも実現には至りませんでした。
そこで、市川監督は大映を説得して、ようやく念願の映画化にこぎつけたというわけです。
市川監督の映画では、ほとんどのシナリオは奥さんである和田夏十が書いたものですが、この映画では珍しく水木洋子のシナリオとなっているのは、そういった経緯によるものです。
水木洋子は、名作「浮雲」や「また逢う日まで」といった成瀬巳喜男や今井正の映画のシナリオを数多く書いた名脚本家です。
人間を深く見つめることで定評のある作家ですが、「おとうと」も深い人間洞察を感じさせる見事なドラマになっています。
そしてそれを映像化したのが名カメラマンの宮川一夫です。
宮川一夫といえば、溝口健二、黒澤明、小津安二郎といった名匠と組んで、映画史に残る傑作の数々を撮影した、日本を代表する名カメラマンです。
そもそも市川崑監督が、日活から大映に移籍したのも、宮川一夫カメラマンと組んでいっしょに映画を作りたいといったことも大きな理由だったようです。
その憧れの宮川カメラマンと初めてコンビを組んだのは、「炎上」でした。
三島由紀夫の小説「金閣寺」を、大胆に脚色したこの映画でもさまざまな実験的な映像の試みを行っています。
市川雷蔵が金閣寺を放火する、孤独な修行僧を演じたことでも話題を呼んだ映画でした。
その後「鍵」「ぼんち」と続いて「おとうと」で4本目の作品になります。
ところで市川崑監督の代表作には、この時代の宮川一夫カメラマンと組んだ作品に多くが集中しています。
そのことからも宮川一夫カメラマンの存在が、いかに大きかったかが分かります。
そうした名スタッフたちに加え、岸恵子、川口浩、森雅之、田中絹代といった名優たちが、それぞれの持ち味を十分に生かした演技を見せています。
とくに主人公の「げん」を演じた岸恵子は素晴らしい。
リウマチで体の自由がきかない継母に代わって、母親代わりに弟の面倒を見るしっかりものの姉を、魅力的に演じています。
頭の良さ、気の強さ、優しさ、そうした彼女自身がもつ美点が、主人公「げん」のキャラクターと重なって、これ以上はない適役でした。
そして弟の碧郎を演じた川口浩は、彼のなかにある育ちのよさや無邪気な不良っぽさを生かした演技で、岸恵子と絶妙なコンビネーションを見せています。
さらに、森雅之と田中絹代のベテランふたりの確かな演技が、若いふたりを盛りたてています。
その見事なコントラストは、ほんとうに見応えがありました。
しっかり者の姉、ちょっとグレかけた弟、あまり家庭を顧みない小説家の父親、リューマチ病みの後妻の母親、というぎくしゃくした4人の家族が、弟の入院をきっかけに、次第に和解していく姿には、思わず涙を誘われてしまいました。
そしてラストでは不覚にも号泣してしまいました。
昔観たときには、そんなことはなかったのですが、今回は涙が止まらなくなってしまいました。
その感動を引きずって朝まで眠れませんでした。
そして今朝になってこうしてブログを書いていても、まだ感動の余韻が冷めずに残っているのです。

映画史に残る、掛け値なしの名作だということを、あらためて思いました。


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雪に備えて

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所用で青森市方面へ出かけたのですが、浪岡からは雪模様の天気になりました。
所によっては雪が降るという予報だったので、用心のためにタイヤはスタッドレスに換えておいたのですが、大正解でした。
出かける時は雨もやんで、青空が覗いていたのですが、やはり今の時期、遠方へ出かけるとなると、いつ何どき、こんなふうになるか分からないので、油断は出来ません。
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途中、国道沿いでは地吹雪用フェンスの取り付け作業の真っ最中でした。
雪国では冬が近づくと何かと慌しくなってきます。
わが家でもそろそろ雪囲いを始めないと。


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映画「その日のまえに」

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大林監督の映画を観ていると、ある種の気恥ずかしさがつきまとうことがある。
気障な演技やセリフ、そして設定に戸惑いながら、少しばかり居心地の悪さを感じてしまう。
作品によって程度に差はあるが、いったんそれが顔をのぞかせると、振り払うのに少々時間がかかる。
おそらく監督自身はそれを承知のうえで、そういったことには頓着せずに、描きたいことをどんどん描いていくという創作態度にちがいない。
だから観ているこちらとしても、そうした力に引きずられているうちに、居心地の悪さも自然と消滅してしまい、しだいに映画の世界へと没入して行くことになる。
それが大林映画を観るときの、いつものパターンである。
この映画では、そうなるまでの時間がけっこう長くて困ったが、途中でギブアップしないで最後まで観てよかったと思う。

原作は重松清の短編小説集「その日のまえに」。
泣かせどころのツボを心得た重松清が、巧みに作り上げた人気小説をどのように映画化するか、大いに興味をそそられたが、原作とはまた違った味わいで泣かせてくれる映画になっていた。
大林作品の初期の頃から一貫して変わらない、プライベート・フィルムのような手作り感たっぷりの映像に誘われながら、時間旅行をするうちに、ファンタジックな大林ワールドのなかにぐいぐいと引き込まれていった。
また全編に流れる静かな音楽が、ノスタルジックでセンチメンタルな気分をさらに掻き立てる役目を果たしている。
人生の最期を迎える人間が、それとどう折り合いをつけ、また家族と過ごしていくか、そして残された家族は?といった重いテーマを、単に重いものとして提出するだけではなく、暖かく人生を見つめようとする。
さらに宮沢賢治の詩「永訣の朝」を重要なモチーフとして使うことで、そうしたテーマをより鮮明に浮かび上がらせようとするのである。

けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)

こういったフレーズで始まる「永訣の朝」は昔、中学だか高校だったかの授業で習って、強い印象を受けたことがあった。
それだけに映画のなかでこの詩が歌われ、映像化されたことに、特別な感慨と親しみをおぼえたのである。
この詩は、宮沢賢治の妹とし子が死を迎える朝の情景を詠ったものだが、その「とし子」という名前を、映画では原作の名前(和美)に変えて使っている。
さらにヒロインが岩手出身で、若いころから宮沢賢治の「春と修羅」を愛読しているという設定を同時に行っている。
そうした宮沢賢治的世界を同時進行で展開することで、この物語に新たな力を注ぎ込み、生と死の優しいファンタジーを作り上げている。
そしてラストに登場する登場人物たち全員の、時間と空間を越えた大円団の花火大会では、哀しみだけではない人生への暖かいエールを見せてくれるのである。
生と死が仲良く手をつないだようなその場面には、大林監督の優しい眼差しと人生讃歌がこめられているのを感じる。
打ち上げられる花火は死者への鎮魂であると同時に、生きることへの熱いエールでもあるのだろう。
花火を見つめているうちに、ひたむきに生きる大切さ、生きる歓びが、心に沁みるように伝わってきた。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」というフレーズが映画が終わったあとも、呪文のようにいつまでも心に残った。
大林作品に、また新たな代表作がひとつ加わったのである。


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大荒れの天気

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写真は今日の弘前公園の景色です。
外濠の紅葉は、もうほとんど散ってしまいましたが、この辺の木はまだ少し葉っぱを残しています。
秋も終わりに近づいたことを感じさせる風景です。

せっかくの日曜日なのに、朝から雨で、しかも時折雷が鳴ったり、突風が吹く大荒れの天気です。
この強風で紅葉は残らずみんな散ってしまいそうです。
明日からは寒々とした冬景色に変わることだと思います。

長い冬が始まります。


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三遊亭圓楽「厩火事」

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三遊亭圓楽を追悼する番組として、NHK教育テレビ「日本の話芸」で「厩火事」が放映された。
録画しておいたので、さっそく観ることに。
あらすじは、怠け者で遊んでばかりいる亭主と喧嘩をした女房が、亭主の心持が分からないと仲人に相談に行くと、馬小屋の火事で大切な馬よりも家来の身を案じた孔子の故事を聞かされる。
それを聞いた女房がさっそく家へ帰って、亭主愛蔵の器を割って亭主の愛情を試すというもの。
犬も喰わない夫婦喧嘩を題材に、髪結いの亭主と女房を揶揄しながら、夫婦の微妙な関係を描写した滑稽噺。
相談に行ってさんざん亭主の悪口を言った女房の「おさき」が、仲人から亭主の悪いところを指摘されると、とたんに態度を変えて亭主の擁護にまわるなど、いかにもありそうな夫婦喧嘩のエピソードには笑いを誘われる。
しっかり者の女房「おさき」の泣いたり、怒ったり、やきもちを焼いたりといった描写がこの噺の一番の勘所だと思うが、圓楽の「おさき」はやはりうまい。
この噺は桂文楽が得意としていたそうだが、機会があればそちらもぜひ聴いてみたい。


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